日本の歴史を学ぶ上では、ほかの国とどのようにかかわってきたのかを知ることも重要です。外交の歴史は、文化の発展などとも大きくかかわっています。いつどの国とどのようなことをしたのか、またそれは何故なのかを知ることで、歴史をより深く理解することができます。
古代の外交は、主に中国大陸と朝鮮半島にあった国と行われました。両方とも色々な国が治めているため少し覚えにくいかもしれませんが、試験でもよく出るところなのでしっかり覚えておきましょう。
弥生時代
弥生時代の特徴として、稲作が始まったこと、金属製の道具が使われるようになったこと、縄文土器に比べて薄手の弥生土器が作られたことなどがあげられます。では、稲作や金属製の道具はどこから入ってきたのでしょうか?
答えは、海外です。弥生時代には朝鮮などの大陸から文化が伝わってきたと考えられています。それまで行われていなかった稲作や、作られていなかった金属性の道具が現れたということは、日本に海外から新しい文化が入ってきたということを表しているのです。
その後、1世紀には奴国(なのくに)の王が、当時中国大陸にあった漢という国に使いを送っています。ちなみに、奴国は現在の福岡周辺にあったのではないかと考えられていますが、はっきりはしていません。この時に漢から贈られたと言われているのが、志賀島(しかのしま)から出土した「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」と書かれた金印(金で作られたハンコのこと)です。
さらに200年余りがたった3世紀になると、邪馬台国(やまたいこく)の卑弥呼(ひみこ)が、漢の次に出来た魏(ぎ)に使いを送ります。卑弥呼については、どこでいつ生まれたのかも分かっていません。
また、邪馬台国に関しても、近畿地方にあったという説と九州地方にあったという説があるほど、どこにあったのか分からないのです。いつか、新しい発見があるもしれませんね。
古墳時代
古墳時代を治めた存在が大和朝廷(やまとちょうてい)です。なお、最近ではヤマト王権やヤマトと呼ばれることも増えています。
大和朝廷がいつできたのかは分かっていません。弥生時代のことについて分かっていないのと同じように、あまりにも昔のことなので資料が残っていないからです。卑弥呼が治めた邪馬台国が大和朝廷なのでは…?という説もあるなど、今も色々な議論がされています。
大和朝廷は、日本だけではなく朝鮮半島にも進出しました。当時の朝鮮半島には様々な国がありました。その中でも、高句麗(こうくり)という国は、もともとあった中国から領土を拡大して朝鮮半島にも進出してきた大国です。
そのため、朝鮮半島のほかの国たちは焦り、高句麗と戦うことになります。それが百済(くだら)です。大和朝廷も百済と共に、高句麗や新羅(しらぎ/しんら)と戦いました。この戦いの結果は…分かりません。高句麗に負けたのでは?と言われていますが、こちらも資料が無いのではっきりしていません。
朝鮮半島にまで戦いにいくほど、ほかの国との交流が盛んだった古墳時代。もちろん中国大陸とも交流がありました。当時の中国は南北朝時代と言って、ふたつの王朝に割れていました。大和朝廷は、5世紀、南朝に対して使いや手紙を送っています。
新しい文化や技術もたくさん入ってきました。例えば、鉄器や土木技術などです。なかでも絶対に覚えておかないといけないのが、6世紀に伝わってきた仏教です。このように様々な文化や技術を伝えたのは、朝鮮や中国からやってきた渡来人(とらいじん)でした。
飛鳥時代
飛鳥時代は、590年頃から710年までの間を指します。古墳時代の後期と扱われることもあります。
この時代の重要人物が聖徳太子(しょうとくたいし)です。聖徳太子は、冠位十二階の制や憲法十七条を作ったことで有名ですが、外交にも力を入れていました。
この時に中国大陸にあったのは隋(ずい)です。聖徳太子は隋に対して、遣隋使(けんずいし)と呼ばれる施設を送りました。遣隋使の中にいた人物が小野妹子(おののいもこ)です。(妹と子が付きますが、小野妹子は男性です。)
聖徳太子は隋と対等な関係で外交をしようとしました。そこで送ったのが「日出る処の天子」と「日没する処の天子」と書いた書簡(手紙)です。その書簡が隋の皇帝を怒らせてしまい、結果的には、対等な外交は行われませんでした。
奈良・平安時代
さらに時が経って奈良時代・平安時代になると、中国大陸と盛んに交流が行われます。飛鳥時代の後半から奈良時代と平安時代の初めに中国大陸を治めていたのは唐(とう)です。
その後平安時代の途中から宋(そう)に国が変わっていることを覚えておきましょう。飛鳥時代に遣隋使が送られたように、唐に対しても遣唐使(けんとうし)が送られています。今でこそ中国大陸に行くのはそこまで大変ではありませんが、当時はとても大変なことでした。船で海を渡る途中で遭難してしまうこともよくありました。唐まで到着できた船のほうが少なかったとまで言われています。
もちろん、中国大陸から日本に来るのも大変です。その大変な航海を乗り越えて日本に渡ってきたのが、唐の僧、鑑真(がんじん)です。鑑真は日本に正しい仏教を伝えるためにやってきました。
命がけの航海だった遣唐使。894年にも派遣される予定でしたが、この計画が菅原道真によって中止になります。その後も商人などによる交流は続いていましたが、唐は滅び、中国大陸には新しく宋ができました。
もちろん、宋とも貿易が行われることになります。この宋との貿易を日宋貿易と呼びます。日宋貿易に注目してたくさんお金を稼いだ人が、平忠盛とその息子の平清盛です。
平清盛は12世紀に大輪田泊(おおわだのとまり)という古い港を整備します。大輪田泊は兵庫にあった港で、ここを貿易の中心地にしました。兵庫は当時の都である平安京と距離が近かったので、貿易がより発展します。このようにして、平清盛は大きな利益を得ました。
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まとめ
以上が古代(弥生時代~平安時代)の外交の流れです。中国大陸と朝鮮半島の国家がどのように変わってきたのかかとあわせて確認しておきましょう__
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参考
1995年生まれ。東京都出身。
中高一貫の女子校出身で、高校時代は部活動で部長を務める他、学外で学生団体を立ち上げるなど活動。活動歴を活かせるかもしれないと、高校2年生からAO入試を視野に入れる。同時に、一般入試では早稲田大学を目指して勉学に励む。受験期の国語の偏差値は70以上で、センター模試では現代文・古文は常に満点。AO入試で慶應義塾大学総合政策学部に入学後は、研究会活動のほか、大学受験予備校や書店でのアルバイトに励む。専門分野はジェンダー学、倫理学(主にケアの倫理)、労働法。大学卒業後はコンサルティングファームなどを経て独立し、現在は予備校講師やライター、個人コンサルタントとして活動中。書店と映画館と美術館と歌舞伎座をこよなく愛し、芸術文化全般に関心を持っている。