【中学受験】 ~社会・歴史~ 江戸時代の学問ってどんなもの?~江戸時代の学問と教育~

江戸時代には様々な学問が発達していきました。丸覚えになりがちな分野ですが、それぞれの学問がどのようなものだったのかを理解しておくことで、江戸時代全体についての理解も深まります。嫌煙せずに向き合っていきましょう!

それでは、それぞれがどのような内容のものなのかを整理していきましょう。

儒学

戦国時代を経て武力で日本を統一し、江戸幕府を開いた人物と言えば徳川家康。‍その徳川家康が認め、全国的に広げた学問が儒学です。‍

儒学の基本的な思想は、「仁・義・礼・智(ちえ)・信」を守って「父子・君臣・夫婦・長幼(年上‍の者と年下の者)・朋友(友達)」との良い関係性を築きましょう、というものです。‍当時、今の中国や韓国にあたる国々なども儒学(その中でも朱子学)を国の標準的な学問‍と定めていました。

このような、政府が認めた学問のことを官学と呼びます。‍こうして広まった儒学ですが、江戸時代に突然現れたものではありません。‍飛鳥時代の有名人物、聖徳太子が学んでいたと言われている学問も儒学です。‍聖徳太子が制定した冠位十二階の制の中の憲法十七条「和をもって貴しとなし」は儒学の‍基本的な書物である『論語』の一部を取ってつくられたものです。‍

その後の平安時代には遣隋使や遣唐使が中国に赴き、儒学を学んで持ち帰ってきまし‍た。‍鎌倉時代には朱子学が伝来し、武士の間で広く学ばれました。‍この朱子学は、江戸時代でも特に広く学ばれたものです。‍

朱子学とは、儒学を元に作られた学問で、「君主の言うことを臣下は絶対に聞く」「父の言う‍ことを子どもは絶対に聞く」といったようなことが定められていました。‍忠義や孝行を大切にし、身分の上下を重んじていることから、朱子学は幕府が秩序を重ん‍ずる社会を作るためにもってこいの学問だったのです。‍

国学‍

儒学に代表されるように、日本は他国の考え方に強い影響を受けてきました。‍例えば、仏教やキリスト教といった宗教が様々な芸術文化に影響を与えてきたことは、す‍でに今までの時代の学習の中で分かったと思います。‍

江戸時代なかばになると、「他国からの影響を取り除いてはじめて、日本人の考え方が分‍かる」と考える「国学」が現れます。‍その考えをもとに研究を行い、大成させた人物こそ本居宣長(もとおりのりなが)です。‍

本居宣長は、他国からの影響を受ける前に書かれた『古事記』を分析することで、日本的‍な考え方とは何かを探っていきました。‍そして書かれた書物が『古事記伝』です。‍

その後、国学は本居宣長の考えを受けついだ人物によって広まり、幕府や藩に反発する‍人物の考え方と結びついていきます。‍朱子学を利用して秩序ある社会をつくり、力を保っていた幕府にとっては恐ろしい存在に‍なっていきました。‍

蘭学‍

江戸時代にヨーロッパの国として唯一、日本と交易があった国がオランダです。‍オランダを通じて、西洋の学問や知識が日本に入ってきました。‍オランダ人やオランダ語を通じて西洋の近代科学や文化を研究する学問のことを蘭学と呼‍びます。‍

蘭学と一言で言っても、研究の対象は多々あります。‍まずは、オランダ語を学んで身に着けたり研究する、語学の分野。‍西洋の歴史や地理、文化などを学ぶ分野。‍測量術や鉄砲の作り方などを学んで技術を身に着ける分野。‍そして、蘭学の中心的な分野になったものが医学や天文学、物理学、科学などの自然科‍学と呼ばれるものです。‍

この測量術や天文学をつかって正確な日本地図を作った人物が、伊能忠敬(いのうただた‍か)です。‍伊能忠敬は50歳の時から天文学を学び、55歳から71歳まで全国を17年かけて測量しまし‍た。‍伊能忠敬の地図は、今を生きる私たちが見ても驚くほど正確なものです。‍

医学の分野で活躍した人物が杉田玄白(すぎたげんぱく)前野良沢(まえざやりょうたく)‍です。‍杉田玄白と前野良沢はオランダの医学書を翻訳して『解体新書』を出版しました。‍

江戸時代の子どもと学問‍

江戸時代以前の時代には、庶民である百姓や町人の子どもにとって学問は遠い存在でし‍た。‍では、江戸時代の人々はどのような教育を受けていたのでしょうか。‍江戸時代の教育の中心は寺子屋でした。

寺子屋は全国の町や村につくられ、子どもたちに「読み・書き・そろばん」が教えられるようになります。なお、この時代には身分制度がはっきりしていましたので、武士の子どもは藩校(はんこう)と呼ばれる専用の場所で学んでいました。ほかにも、私塾と呼ばれる、個人が運営する教育機関も多数つくられました。

例えば、シーボルトの鳴滝塾(なるたきじゅく)、緒方洪庵(おがたこうあん)の適塾(てきじゅく)、吉田松陰(よしだしょういん)の松下村塾などです。このような教育が行われていたため、当時の子どもたちのうち半数近くが文字を読めたと言われています。

今でこそ文字が読めることは私たちにとって当たり前ですが、江戸時代より前はそうではありませんでした。また、同じ時代のイギリスの大都市では、子どもの10%程度しか文字は読めなかったようです。

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1995年生まれ。東京都出身。

中高一貫の女子校出身で、高校時代は部活動で部長を務める他、学外で学生団体を立ち上げるなど活動。活動歴を活かせるかもしれないと、高校2年生からAO入試を視野に入れる。同時に、一般入試では早稲田大学を目指して勉学に励む。受験期の国語の偏差値は70以上で、センター模試では現代文・古文は常に満点。AO入試で慶應義塾大学総合政策学部に入学後は、研究会活動のほか、大学受験予備校や書店でのアルバイトに励む。専門分野はジェンダー学、倫理学(主にケアの倫理)、労働法。大学卒業後はコンサルティングファームなどを経て独立し、現在は予備校講師やライター、個人コンサルタントとして活動中。書店と映画館と美術館と歌舞伎座をこよなく愛し、芸術文化全般に関心を持っている。