【社会・歴史】年表・人物史から歴史をおさえよう!〜源頼朝の人物史〜

平氏を滅ぼし、征夷大将軍となり鎌倉幕府をひらいた源頼朝。頼朝のおこなったことを年代ごとにみていきましょう。 

1147年(久安3年)源頼朝うまれる

源頼朝は、源義朝[i]の三男としてうまれます。母は、熱田大宮司藤原季範の女。 

保元・平治の乱

保元・平治の乱とは、京都で相次いで起こった内乱です。皇族と藤原氏を中心とした朝廷内の内乱武士も加わり、武士が台頭するきっかけともなった内乱です。 

1156年(保元1年)保元の乱 

保元の乱相関図 

後白河天皇(弟) 

崇徳上皇(兄) 

藤原忠通(兄) 

藤原頼長(弟) 

源義朝(兄) 

源為義(父)、為朝(弟) 

平清盛(甥) 

平忠正(叔父) 

崇徳上皇[ii]後白河天皇[iii]に、藤原忠通[iv]、頼長[v]の兄弟争いに源平それぞれ二方に分かれ内乱が起きました。頼朝の父・義朝は後白河天皇側につきました。内乱の結果、後白河天皇が勝利します。 

勝利した後白河天皇はその後、1158年(保元3年)守仁親王に譲位し院政を始めます。守仁親王は即位し、二条天皇となります。朝廷の中心となったのは、藤原信西[vi](藤原通憲)でしたが、後白河上皇は藤原信頼[vii]を寵愛し始めます。よって次第に藤原信頼が台頭し、信西を排除しようと画策します。そうして起こったのが平治の乱です。 

1159年(平治1年)平治の乱 

平治の乱相関図 

藤原信西(通憲) 

藤原信頼 

平氏:平清盛、重盛 

源氏:源義朝、義平、頼朝 

保元の乱では、平氏、源氏それぞれが二方に分かれて戦いましたが、平治の乱では平氏と源氏に分かれて戦いました。藤原信頼側についた源氏は藤原信西側の平氏に負け、頼朝の父・義朝は謀殺され、頼朝も斬首されそうになりましたが、平清盛viiiの義理の母池禅尼の口添えにより、伊豆に流刑となりました。 

1180年(治承4年)以仁王の宣旨

伊豆に流刑となった頼朝は、北条時政の監視下に置かれました。そして時政の娘・北条政子[ix]と結婚し、関東の武士らと連絡を取り平氏の様子をうかがっていました。 

1180年(治承4年)以仁王[x]の宣旨をうけ、平氏打倒を掲げ挙兵します。しかし、石橋山の戦いで平氏に負けた頼朝は父・義朝とかかわりのあった武士らなどを戦力を集めて平氏との戦いに備え、自身は平氏を追って上洛はせず、鎌倉の地にとどまりました。 

1181年(治承5年)平清盛病死

頼朝が鎌倉にとどまった一方、木曽義仲は平氏を追って京に入ります。しかし、木曽義仲の蛮行に後白河法皇をはじめ朝廷は不満を持ち、その機に頼朝は後白河法皇に取り入ります。そして頼朝の弟である源義経ら鎌倉軍が義仲打倒に動き出し、義仲追討後は平氏打倒へと兵を進めていきます 

1185年(文治1年)平氏滅亡

源義経を中心とした鎌倉軍は、屋島の戦いで勝利し、壇ノ浦で平氏滅亡させます。 鎌倉にとどまっている頼朝は、守護・地頭を設置し、鎌倉幕府の基盤を整えていきます

1189年(文治5年)義経追討

後鳥羽上皇と義経が結びつくことを危険視した頼朝は義経追討の令を出します。義経は奥州藤原氏を頼って平泉へと逃れますが、平泉で奥州藤原氏と共に亡くなります 

1192年(建久3年)征夷大将軍

後鳥羽上皇が崩御した後、頼朝は征夷大将軍に任ぜられました。 

まとめ

1147年(久安3年) 

源頼朝うまれる 

1156年(保元1年) 

保元の乱 

1159年(平治1年) 

平治の乱 

1180年(治承4年) 

以仁王の宣旨 

1181年(治承5年) 

平清盛病死 

1185年(文治1年) 

平氏滅亡 

1189年(文治5年) 

義経追討 

1192年(建久3年) 

征夷大将軍 

【注】

[i]源義朝…1123〜60 平安末期の武将為義の長男。頼朝の父。1156年保元の乱に後白河天皇方につき,功により左馬頭となった。乱後平清盛と対立し,’59年平治の乱をおこしたが敗れ,東国への敗走中,尾張で家人の長田忠致に殺された。(旺文社『日本史事典』) 

[ii]崇徳上皇…1119〜64 平安後期の天皇(在位1123〜41)鳥羽天皇第1皇子。1141年鳥羽上皇は崇徳天皇に譲位を迫り,その弟の近衛天皇を即位させ,近衛天皇の死後は崇徳の弟後白河天皇を立てた。これが不満で,’56年鳥羽上皇の死後,保元の乱をおこしたが,敗れて讃岐(香川県)に流された。(旺文社『日本史事典』)

[iii]後白河法皇…1127〜92 平安末期の天皇(在位1155〜58)鳥羽天皇第4皇子。兄崇徳上皇と対立,これが保元の乱の一因となった。乱後譲位して二条・六条・高倉・安徳・後鳥羽の5代34年間にわたり院政を行った。源平の争乱,鎌倉幕府の成立など激動期にあって貴族勢力維持のため武家勢力と対抗。1169年法皇となり,多くの寺仏を造った。また『梁塵秘抄』の撰者としても有名である。(旺文社『日本史事典』) 

[iv]藤原忠通…1097〜1164 平安後期の公卿。摂政・関白。通称法性寺殿。忠実の長男。氏長者の地位をめぐって父や弟頼長と不和になり,保元の乱(1156)では後白河上皇方で勝利。頼長は戦死した。晩年は法性寺に隠退。日記に『法性寺関白記』。(旺文社『日本史事典』)

[v]藤原頼長…1120〜56 平安後期の公卿。左大臣。忠実の2男。博識多才で,父の寵愛を得て兄の忠通から氏長者の地位を奪った。のち鳥羽法皇の信任を失ったため,1156年保元の乱をおこしたが敗死。日記に『台記』。(旺文社『日本史事典』)

[vi]藤原信西…1106〜59 平安末期の公卿・学者。出家して信西と称した。実兼の子。保元の乱(1156)後,平清盛と結んで後白河上皇の側近として活躍。藤原信頼・源義朝に対抗したため,’59年平治の乱で殺された。著書に『本朝世紀』『法曹類林』『日本紀註』など。(旺文社『日本史事典』)

[vii]藤原信頼…1133〜59 平安末期の公卿。中納言。忠隆の3男。後白河法皇に信任され院庁の別当(長官)となった。権勢をふるっていた藤原通憲 (みちのり) (信西)と対立,源義朝と結んで1159年平治の乱をおこしたが敗れ,斬殺された。(旺文社『日本史事典』)

[viii]平清盛…1118〜81 平安末期の武将。忠盛の子。保元・平治の乱で源氏を圧倒し,藤原氏に代わって政権を掌握。1167年太政大臣となり,娘徳子(建礼門院)を高倉天皇の中宮に入れ,その子安徳天皇を皇位につけ,一門の公卿16人,知行国30余国に及ぶ平氏の全盛期を現出した。また大輪田泊(現神戸港)を修築して日宋貿易を行い,厳島 (いつくしま神社を尊崇した。晩年後白河法皇を幽閉したり,福原遷都を強行したが,以仁王 (もちひとおうの令旨 (りようじをうけた諸国の源氏の挙兵にあい,失意のうちに病死した。(旺文社『日本史事典』)

[ix]北条政子…1157〜1225 鎌倉初期,源頼朝の妻。北条時政の娘。伊豆配流中の頼朝と結婚し,頼家・実朝を生む。頼朝の死後,父時政・弟義時とともに幕府政治を掌握。牧氏の陰謀(実朝を廃して,時政の女婿平賀朝雅 (ともまさ) を将軍に立てようとしたもの)を察知して時政を隠退させ,実朝死後は4代将軍として京都から九条頼経を迎え,みずから後見人となる。「尼将軍」といわれ,承久の乱(1221)に際しては御家人の動揺を抑えて幕府の危機を救う役目を果たした。(旺文社『日本史事典』) 

[x]以仁王…1151〜80 平安後期の皇族。後白河天皇第3皇子。1180年源頼政のすすめで平氏征討の令旨 (りようじ) を発して挙兵したが,平氏の攻撃をうけ園城寺にのがれ,さらに奈良に向かう途中,宇治平等院で敗死した。しかし王の令旨は諸国の源氏に伝えられ,源平合戦の口火となった。(旺文社『日本史事典』)

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