武士による幕府誕生!鎌倉時代の将軍と執権についてまとめておこう

平安時代の後期、平治の乱で源氏の源義朝(みなもとのよしとも)は平氏の平清盛(たいらのきよもり)に破れ、処刑されてしまいます。まだ幼かった源義朝の息子である源頼朝(みなもとのよりとも)は処刑を免れ、伊豆に流されました。

源氏をおいやり、平氏の天下となったわけですが、平氏の天下は長くは続きませんでした。平清盛は栄耀栄華を極めましたが、そのあとが続かなかったのです。源頼朝は平氏に源氏が敗れ、一族郎党が処刑された悔しさを忘れることなく、伊豆で再起のときを目指していました。そして平治の乱から約20年後の1180年、ついに伊豆から挙兵します。

源頼朝の挙兵から5年後の1185年、壇ノ浦の戦いで平氏は滅亡します。挙兵から壇ノ浦の戦いまでの5年間の源氏と平氏の戦いは「源平合戦」と呼ばれます。源頼朝は鎌倉に入り、活動の拠点として鎌倉幕府を開くことになったのです。

なぜ鎌倉を拠点としたかと言うと、三方を山に囲まれ、一方は海に面している、いわば天然の要塞だったからです。もし敵に攻撃されても守りやすかった土地だったわけですね。鎌倉には現在も「切通」(きりとおし)がたくさん残っていますが、これは鎌倉の武士たちが山を桐井開いて作った特別な通り道であり、武士たちはここを通って移動していたのです。

しかし、源頼朝が幕府をひらいたものの、源氏はたった3代で滅びてしまいます。その後権力を握ったのは北条氏一族です。ただし北条氏が将軍にとってかわったわけではなく、「執権」(しっけん)という将軍補佐という位置で将軍に代わって鎌倉幕府で政治をおこないました。この北条氏の政治を「執権政治」と言います。執権政治は16代の長きにわたって続きました。

今回は、平氏から源氏へ、そして北条氏へと権力が移っていった平安時代最後から鎌倉時代について、代表的な戦いやできごと、人物などを整理します。鎌倉時代と言えばこれ!という形でまとめているので、これまでにすでに学習している人は復習に、これから学ぶ人はざっと読んでポイントを押さえておきましょう。

覚えておきたい源平合戦3つ

1180年に源頼朝が伊豆で挙兵してから1185年に平氏が滅亡するまでの源氏と平氏の争いのことを「源平合戦」と言います。さまざまな土地で激突した源氏と平氏ですが、そんな源平合戦の中でも特に源氏が平氏を追い詰めることになった重要な戦いが3つあります。それらの戦いについて押さえておきましょう。

重要な源平合戦①一ノ谷の戦い

1184年に、源氏と平氏は現在の神戸市にある「一ノ谷」(いちのたに)で激突しました。一ノ谷の戦いで大活躍したのは、源頼朝の弟として有名な源義経(みなもとのよしつね)です。

一ノ谷の立地には特徴がありました。それは、断崖絶壁の崖があるということです。目の前は海、後ろには山が囲んでいる一ノ谷の崖は、守りを固める場所としてぴったりだったのです。そこで平氏は、一ノ谷の崖の下に陣を張りました。

それに対して源義経の軍は、鵯越(ひよどりごえ)と呼ばれる険しい山道を登り、平氏が崖下に張った陣を見下ろすことができる位置に陣取りました。源義経の戦略というのは、誰も降りようとはしない険しい鵯越の坂を下り、平氏を壊滅させる作戦だったのです。

鵯越の坂は非常に険しかったので、敵の平氏も、また味方の源氏の兵士たちも「まさかここを降りて攻撃・・・?」と思うほどの奇襲作戦でした。源義経は血気盛んに、「鹿もこの崖を降りることができるのだから馬で降りても大丈夫だ」とかなり無茶な作戦を立て、猛スピードで坂を駆け下り、平氏に襲い掛かったのです。これが有名な「鵯越の坂落とし」(ひよどりごえのさかおとし)です。

もともと源義経は奇襲作戦を得意としていました。まさかそんなところから襲ってはこないだろうとたかをくくっている敵のスキをつく作戦で連戦連勝。一ノ谷の戦いでもその戦略が成功し、平氏を追い込んでいったのです。

重要な源平合戦②屋島の戦い

一ノ谷の戦いに続いて重要なポイントとなったのが1185年の「屋島の戦い」(やしまのたたかい)です。屋島は現在の香川県高松市にあたります。当時、香川県は「讃岐国」(さぬきのくに)と呼ばれていました。現在では讃岐うどんで有名ですよね。この屋島の戦いでも源氏は平氏を撃破します。

屋島の戦いは、源氏が平氏をさらに追い詰めた重要な戦いですが、もうひとつ覚えておきたいエピソードがあります。それは源氏方の「那須与一」(なすのよいち)の逸話です。屋島の戦いでは、船が使われましたが、平氏は貴族文化に染まっていたこともあり、少々優雅に船の上に扇の的を掲げました。その的を源氏軍の那須与一が見事打ち抜いたとして、那須与一はのちのちも弓の名人として知られるようになったのです。

的までの距離がどれくらいあったのかは定かではありませんが、敵と味方ですからそんなに近かったわけはありません。一説によると70m以上あったと言われているので、かなり遠くに的があったわけですね。しかも那須与一は扇の真ん中の円を射抜いたそうですから、かなりの腕前だったと考えられます。オリンピックにもアーチェリーという西洋の弓道の種目がありますが、世界大会でのアーチェリーの的までの距離も約70mなので、那須与一はその昔、現代の名選手と並ぶ記録を出していたのと同じようなものだったのです。

源平合戦とは言え、那須与一が平氏の扇を射抜いたときは、源氏・平氏双方から歓声が上がったと言われています。合戦というにはあまりにも優雅な雰囲気ですが、いずれにしても最終的には源義経率いる源氏が平氏を打ち破った有名な戦いとして覚えておきましょう。

重要な源平合戦③壇ノ浦の戦い

一ノ谷の戦い、屋島の戦いに続き、最後に覚えておきたい3つ目の源平合戦が「壇ノ浦の戦い」(だんのうらのたたかい)です。壇ノ浦は、関門海峡の近くにある海です。漢字指定で出題されることも多いので漢字で書けるようにして置き、壇ノ浦の場所も日本地図で確認しておきましょう。

壇ノ浦の戦いでは、主に船の上で、弓を使って争われました。源義経は平氏の船のこぎ手を狙え、と指示します。本来であれば武士と武士の戦いですから、弓で応戦してくる相手の武士を狙うのが礼儀とされていた当時ですが、源義経は武器を持っていないこぎ手を倒すようにと指示したのです。当時の戦いのルールでは禁じ手でしたが、源義経は暗黙の礼儀を破り、平氏の船が動けないようにしました。そのうえで、集中攻撃をかけたのです。

その結果、動けない平氏は源氏の攻撃をいっせいに受け、結果として壇ノ浦の戦いで平氏は滅亡したのです。当時の天皇は安徳天皇と言い、平清盛の娘が生んだ天皇でした。まだ幼い天皇でしたが、祖母や母など平氏の女性たちと一緒に、海の底には天国がある、と信じて入水自殺を遂げたと言われています。

平氏の滅亡は、平清盛が太政大臣になってからわずか18年のことでした。栄耀栄華を極めた平清盛の時代は、平氏にあらずんば人にあらず、と言われたほど権勢を誇った平氏ですが、一連の源平合戦、壇ノ浦の戦いで滅亡したのです。それだけ平安時代から鎌倉時代までの間はめまぐるしく権力が行き来したことがわかりますね。

源氏内部の争い~頼朝と義経の兄弟対立

源頼朝は父・源義朝の敵を討ち、因縁の相手である平氏を滅亡させました。ここからが源氏の天下のはじまりであり、本格的な武家政権がはじまることになるのです。

しかし、ここで問題が起こります。源平合戦で大活躍したのは源頼朝の弟である源義経でしたね。朝廷は源頼朝の力が強くなりすぎることを恐れ、兄弟の間を割く思惑もあったのか、源義経を朝廷によび、「判官」(はんがん)という役職を与えたのです。これにより源義経は「九郎判官義経」と呼ばれるようになりました。

朝廷から役職を与えられるほどの評価を受け、意気揚々と兄・源頼朝のいる鎌倉に戻った源義経ですが、源頼朝は朝廷から役職をもらい、評価された弟を快く思っていませんでした。あくまでも源氏の総大将は自分・頼朝だという自負があったでしょうから、弟が朝廷方についたとだんだん敵視するようになっていったと言われています。源頼朝は非常に疑り深く、源義経が自分にとってかわろうとしているとさえ考えていたとされています。

源義経はなぜ兄がそれほど怒るのかわからない、源頼朝は弟が自分よりも権力を握ろうとしていると疑う、というボタンの食い違いが起こってしまったのです。いわば朝廷の思うつぼですね。源義経は「腰越状」とよばれる兄への手紙を書くなどして怒りを解こうとしましたが、源頼朝はかたくなになるばかり。このまま源義経を増長させるとやっかいなことになりそうだと考え、ついに源義経をとらえようと準備をはじめたのです。

源頼朝、守護と地頭を置く

源頼朝は朝廷にお願いし、国ごとに「守護」(しゅご)を、荘園ごとに「地頭」(じとう)を置くことにしました。イメージとしては守護は警察権力、地頭は国税庁と考えればわかりやすいかもしれません。全国に配置された警察の本部長が守護、荘園ごとに年貢を取り立て、集金する人が地頭だったのです。

源頼朝が守護と地頭を置いた理由は主に2つありました。ひとつは、源義経をとらえるためです。権力争いに発展してしまった以上、源氏のトップの座を守るには源義経がじゃまになってしまったからです。

もうひとつ、こちらが真の目的だと言えますが、守護と地頭を置くことによって、自らの手で全国を支配する体制を整えるためです。単純に朝廷に全国を支配する権利を与えてください、といったところで朝廷が許すわけはありませんよね。権力を渡すわけにはいかないからです。そこで源頼朝は、弟・源義経をとらえるため、という口実をつけて、守護と地頭を全国に置かせてもらう戦略に出たわけです。

守護と地頭は武家社会において重要な役割を果たすようになります。室町時代には守護大名という存在も生まれたほどです。もともとの役割や由来を知っておくとイメージしやすいですよ。

奥州藤原氏の滅亡

源義経は兄である源頼朝に追われるようにして逃げ、平泉(現在の岩手県)の奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)にかくまわれていました。しかし、潜伏先がばれてしまったのです。源頼朝は義経討伐例を出しました。源義経の命は風前の灯火です。

また、奥州藤原氏にとっても、源頼朝にとっての逆賊・義経をかばったとあれば、立場が危なくなってしまいます。そこで、奥州藤原氏は源義経の首を差し出せば許してもらえるだろうと考えて、義経を裏切って襲撃します。源義経はもはやこれまで、と自ら命を絶ちました。このときに最後まで義経を守り戦ったのが有名な武蔵坊弁慶です。

奥州藤原氏は亡くなった源義経の首を源頼朝に差し出します。討伐例にしたがって首を討ちとりましたよ、とした奥州藤原氏に対して源頼朝は「捕まえろといっただけ、なぜ弟を殺した!」と言いがかりをつけ、結果として源頼朝は奥州藤原氏を攻め、滅ぼしてしまったのです。

鎌倉幕府が開かれた時期

源頼朝は平氏滅亡後に鎌倉の地に幕府を開きます。鎌倉幕府が開かれた年は長く1192年(いいくにつくろう鎌倉幕府)とされてきましたが、現在では2つの説に分かれており、まだ完全な結論は出ていないので注意しましょう。

鎌倉幕府が開かれた年には2つの説があります。まずひとつは、「1185年」という説です。この年は壇ノ浦の戦いのあと、全国に守護と地頭を置き、実質的に全国を支配できる仕組みが整ったことから、鎌倉幕府ができた、と考えるのです。

もうひとつは、「1192年」という説です。これは以前から有力に唱えられていた説ですが、源頼朝が朝廷から「征夷大将軍」(武士の頂点に立つ人が与えられる役職)に任命された年が1192年なのです。源頼朝が名実ともに武士のトップに立ったことで、鎌倉幕府を開き、武家政治を本格的にはじめた、と考える説です。

1185年は守護と地頭を置いて全国を支配する体制が整った、1192年は源頼朝が征夷大将軍に任命された、この2つは必ず区別して覚えておきましょう。

このように2つの説があることもあり、中学入試では、こういった議論が分かれていることについて年号を聞くような問題は出題されません。大切なのは、鎌倉幕府に関して、1185年と1192年にどのようなできごとがあったのか、それによって何が起こったのかをしっかり押さえておくことです。

鎌倉幕府の仕組み~将軍と執権

鎌倉幕府を理解する上で欠かせないのが「将軍」と「執権」(しっけん)です。将軍というのは征夷大将軍であり、鎌倉幕府の頂点、つまり武士のリーダーのことです。一方、執権とは、将軍を補佐する役職のことです。執権を担当したのは代々北条氏(ほうじょうし)一族でした。

執権は、平安時代の摂政・関白と役割が似ています。ただし、執権は幕府の将軍の補佐役、摂政・関白は天皇の補佐役だというのが違うので区別できるようにしておきましょう。そして、摂政は天皇が女性や子どものときに代わりに政治をおこなう人、関白は天皇が成人したあとも代わりに政治をおこなっていたことも合わせて整理しておいてください。

御恩と奉公~鎌倉時代の封建制度

将軍の家来である武士は「御家人」(ごけにん)と呼ばれました。将軍と御家人は主従関係で結ばれており、その関係のことを「封建制度」(ほうけんせいど)と言います。いわば社長と従業員のような関係でした。

御家人は将軍のために働きます。これを「奉公」(ほうこう)と言います。でも、ただ働きは誰でも嫌ですよね。そこで、将軍は御家人が奉公するのに対し、ほうびとして土地を与えました。このほうびのことを「御恩」(ごおん)といったのです。頑張った御家人に対して将軍は給料やボーナスを出すというイメージを持つと分かりやすいでしょう。この将軍と御家人の間の「御恩と奉公」という関係は非常に重要なので理解しておきましょう。

源氏は3代で滅びた

こうして鎌倉幕府の礎を築いた源頼朝ですが、1199年、落馬が原因で亡くなってしまいます。一説には、川にかかる橋が完成したお祝いに源頼朝が駆け付けたところ、馬が川の中に入っていったそうです。そこで源頼朝は殺してしまった弟・源義経の幽霊を見たと言われています。それでびっくりしてしまった源頼朝は落馬し、大けがをしてしまったのです。そのケガから回復することなく、源頼朝は生涯を終えたのです。

源頼朝の死後、第2代大将軍には息子の源頼家(みなもとのよりいえ)が就きました。しかし、母である北条政子(ほうじょうまさこ)はじめとする北条氏との間が険悪になり、伊豆の修善寺で暗殺されてしまいます。

第3代将軍の座に就いたのは、源頼家の弟、源実朝(みなもとのさねとも)です。源実朝は和歌などに親しみ、風流な人だったようです。しかし、2代将軍源頼家の息子の「公暁」(くぎょう)にある日暗殺されてしまいます。暗殺された場所は鎌倉にある鶴岡八幡宮の大イチョウの木があるところだったと言われています。公暁は何か吹き込まれ、実朝を暗殺したとされていますが、詳しいことは謎なままです。

その後権力を握ったのが、源頼朝の妻で頼家・実朝の母であった北条政子です。夫と2人の息子を立て続けに失ったことから出家し、「尼将軍」として権力をふるいます。通常であれば夫、息子を次々に亡くしながら政治の表舞台に立つ女性など当時考えられませんでしたので、頼家や実朝の死には母・政子がかかわっていたといわれているほどです。

北条政子は、兄弟の北条時政(ほうじょうときまさ)など、執権として活躍していた北条氏の強力な力をバックに、強力に政治を推し進めました。源氏は3代で滅び、その後鎌倉時代が終わるその時まで、執権である北条氏が鎌倉幕府の中心として君臨し続けたのです。

鎌倉幕府について重要なポイントとして知っておいていただきたいのは、まず幕府が置かれた鎌倉という場所の位置関係です。三方を山に、一方を海に囲まれている天然の要塞で、攻めにくく守りやすいという場所だったのです。次に押さえておきたいのは封建制度と御恩と奉公、将軍と御家人の関係です。

封建制度については特に記述問題で、平安時代の摂関政治と比較させるなど、理解が正確かどうかについて聞くような入試問題がよく出題されます。武家政治の基本となった封建制度、御恩と奉公については自分なりにまとめておきましょう。

覚えておきたい執権3人

源氏の滅亡後、鎌倉幕府の中心となった北条氏。その中から何代にもわたって執権がトップとして君臨します。多くの執権が誕生しますが、なかでも3人、まずはしっかり押さえておきたい執権がいます。2代目の「北条義時」(ほうじょうよしとき)、3代目の「北条泰時」(ほうじょうやすとき)、8代目の「北条時宗」(ほうじょうときむね)です。2代目の北条義時は、2022年のNHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主役となる人物です。

3人が執権を務めた時代には、それぞれ歴史上重要なできごとが起こったり、仕組みができたりしたという特徴があります。何代目の執権のときにどのようなできごとが起こったのか、何ができあがったのか、整理しておきましょう。また、執権の名前には「時」がよくつきます。名前を間違えないように覚えてくださいね。

2代目執権:北条義時~承久の乱勃発

鎌倉幕府は武家政権です。天皇や貴族が中心の京都にある朝廷とは仲良くやっているときもありましたが、やはり権力争いは起こるものです。2代目執権・北条義時の治世に起こったのが1221年の「承久の乱」(じょうきゅうのらん)です。平安時代に権力を担うようになった上皇という、天皇を退位した人の存在があったのを覚えていますか?上皇である「後鳥羽上皇」(ごとばじょうこう)が兵を率い、2代目執権の北条義時を倒すために鎌倉幕府に攻めてきたのです。

当時の鎌倉幕府は、できたばかりで勢いがありそうに見えますが、源氏が滅亡し他という状態だったので、将軍として源氏以外の公家将軍を連れてきて何とか面目を保っていたのです。源氏を滅ぼしたのは家来であった北条氏ですから、北条氏が将軍の座につくのは外聞が悪かったのです。

そのような状態でしたから、鎌倉幕府の土台はぐらぐらしていたのです。鎌倉幕府の力が弱まっている今こそ実権を握るチャンス!と考えた朝廷側の後鳥羽上皇が幕府を叩き潰そうと考えて責めてきたのが承久の乱です。

鎌倉幕府で将軍の家来と言えば御家人ですよね。御家人たちは、朝廷が攻めてきた、このままでは朝敵になってしまうと浮足立ってしまいます。そんな状況を見てカツを入れたのが尼将軍・北条政子だったのです。

北条政子は幕府の御家人を集め、大演説をおこないました。源頼朝のおかげで今のお前たちがいる、そのご恩に報いずにどうする!と御家人たちを一喝したのです。北条氏が源氏を滅ぼしたも同然なのでどうなの・・・と考えられなくもありませんが、演説の効果はばつぐん、御家人たちは感動して鎌倉幕府を守り戦うと誓ったのです。

その結果、鎌倉幕府側が朝廷側に勝利し、敗れた後鳥羽上皇は「隠岐」(おき)に流されてしまいます。この承久の乱をきっかけに、鎌倉幕府は京都の朝廷がおかしな動きをしないように見張らなければ、と考えます。そこで置かれたのが「六波羅探題」(ろくはらたんだい)という監視機関です。六波羅探題がどこに置かれたのか問う入試問題も多く出題されますが、鎌倉幕府の機関であっても鎌倉につくられたわけではなく、京都だったということはしっかり覚えておきましょう。

3代目執権:北条泰時~御成敗式目の制定

3代目執権の北条泰時が有名なのは、1232年に「御成敗式目」(ごせいばいしきもく)を制定したことによります。ご成敗式目とは、武士によるはじめての法律という点で重要です。

承久の乱のあと、朝廷よりも鎌倉幕府の権力が強くなったため、幕府の御家人たちはやりたい放題になっていました。もともと地頭は、警察的な仕事のほか、税を取り立てて国司や荘園の領主におさめることが仕事でした。しかし、納めなければならない税を取り立てるだけ取り立てて自分のものにする(着服する)といった不正が横行していたのです。

これを苦々しく思ったのが鎌倉幕府です。再度御家人たちを引き締め、税の取り立てや警察のルールを厳しくすることが必要だと考えた幕府は、御成敗式目をつくったのです。現在の憲法のように「○○してはならない。」「○○とする。」というようにはっきり決まっていたというよりは、「△△という問題が起こったら、○○のように解決してきた(のでそのようにせよ)」といった定め方で、それまでの慣習を集めたような法律だったのです。

8代目執権:北条時宗~2度の元寇

1268年、8代目の執権となったのが「北条時宗」です。北条時宗の代には、当時の中国王朝の「元」(げん)の軍が朝鮮の高麗(こうらい)を従えて日本を攻めてきた「元寇」(げんこう)とよばれるできごとがありました。

チンギス・ハンと孫のフビライ・ハンを覚えておこう

13世紀前半、チンギス・ハン(ハーンとも呼ばれる)という人物が、中央負うアジアを次々と支配し、モンゴル帝国という広大な国を築いていました。13世紀後半になると、チンギス・ハンの孫であるフビライ・ハンがモンゴル帝国からさらに勢力を伸ばして中国まで支配を広げて、「元」という新しい王朝を作ったのです。さらに当時の朝鮮半島の「高麗」まで支配を広げ、目と鼻の先の日本も手に入れようと目を付けたのが現行のきっかけです。

フビライ・ハンの部下に「マルコ・ポーロ」がいました。マルコ・ポーロはもともとイタリアの商人で、「東方見聞録」を記しました。東方見聞録はいわばアジア旅行記のような書物で、その中で中尊寺金色堂について、日本の建物には金がたくさん使われていると思い、日本の国を「黄金の国ジパング」と表現したのです。

黄金の国、と聞けばほしくてたまらなくなるのが権力者です。フビライ・ハンも当然、日本が欲しくてたまらなくなりました。そこで、元に降伏するように、という手紙を使節に持たせて何度も日本に送ったと言われています。しかし、当時の8代執権であった北条時宗は拒否します。そこで、元は高麗を従えて日本に攻めてきたのです。これが原稿です。

元は、1274年の「文永の役」(ぶんえいのえき)と1281年の「弘安の疫」(こうあんのえき)の2回、九州へと攻めてきました。迎え撃つのは幕府の御家人たちです。

1274年・文永の役

元寇の1回目は、1274年に起きた文永の役です。当時の日本の戦い方は馬に乗った一騎打ちです。左右両側に陣取った軍の中からひとりが出てきて名乗りを上げ(「やあやあ我こそは~」)、もう一方も同様に出てきて1対1で戦うのです。しかし日本の流儀が元に通じるわけもなく、自己紹介どころではなく、集団で攻撃を仕掛けてきたので幕府の軍は苦戦を強いられました。

また、元は謎の兵器を使ってきました。火薬を使った平気で「てつはう」と呼ばれる球だったと記録に残っています。この兵器には御家人たちが乗っていた馬が驚き、戦場は大混乱になったと言われています。さらにそこに集団で攻め込まれてはたまったものではありませんでした。

このような集団戦法や兵器に悩まされていたとき、雨風が突然強くなり、暴風雨となったと記録にあります。元の軍は急いで舟に戻り、暴風雨の中命からがら撤退することになりました。「神風」と言われたこの現象でしたが、一説によると、元が自分たちの武力を日本に見せつけて一定の目的が果たせたので撤退していったという考え方もあるようです。

1281年・弘安の役

2回目の元寇は、1281年の「弘安の役」です。フビライ・ハンは、文永の役のときよりもさらに多くの兵を日本に送りこんできました。ただし、鎌倉幕府は文永の役のときに懲りたことから、「石塁」(せきるい)という、石を積んだ高い堤防を博多湾全体に築いていたので、元の軍は前回と同じように簡単には日本に上陸できませんでした。御家人たちは元軍の侵入を守り抜いたため元は苦戦し、さらにまたもや暴風雨に見舞われます。そのため、元は2度目の撤退を余儀なくされ、再び神風が吹いた、と日本は負けなかったのです。

元寇後、幕府内が乱れる

幕府と御家人の関係性を「封建制度」と言いましたね。その根本にあったのは、御家人の働きに対し、幕府がほうびを与える、という「御恩と奉公」でした。元寇に立ち向かうため、御家人たちは守りを固めるなどするために借金を抱えながら懸命に戦いました。当然、幕府からの「御恩」を期待しますよね。ここで言う「御恩」とは、ほうびとして与えられる「土地」のことです。土地が得られればそれだけ年貢を手にすることができるので、土地が与えられるかどうかは御家人にとって死活問題だったのです。

元寇では「御恩」が与えられなかった

しかしここで問題が。基本的に幕府が御恩として与える土地は、その土地を誰かから奪い、御家人に与えると言う仕組みです。しかし、元寇の場合、いわば元が侵入してくるのを防いだだけでしたよね。つまり、元から土地を奪ったわけではないわけです。

与えるべき新しい土地を獲得した戦いではなかったため、鎌倉幕府は御家人に御恩を与えたくても与えられるものがないのでできません。御家人側からすれば、必死に戦ったのに何もほうびがないのか、と不満を持つようになっていったのです。封建制度は与えるからこそ働く、という、実は利害関係で左右されるもろい関係だったのです。

1297年・永仁の徳政令

元寇後に御恩を得られなかった御家人たちは不満を募らせていきます。それをなんとかしようと、鎌倉幕府は1297年、「永仁の徳政令」(えいにんのとくせいれい)を出します。徳政令とは、いわば借金を帳消しにします、という命令のことです。御家人は商人から借金していましたが、その借金をチャラにするという形で御家人の負担を減らしたわけです。

しかし、御家人にお金を貸していた商人からすればたまったものではありません。貸したのに返してもらえないとなれば、当然新しく借金を申し込まれても誰が貸すものか、という気持ちになりますよね。結果として御家人は商人から借金ができなくなってしまい、永仁の徳政令がだされて一息つけたかと思ったあとも、御家人の生活は非常に苦しいものだったのです。

1333年に鎌倉幕府が滅亡

元寇、永仁の徳政令の失敗などから、御家人たちの鎌倉幕府に対する不満は日に日に高まっていきました。そのようすを見て「いまこそ幕府を倒すチャンス!」と思った人物がいます。それが「後醍醐天皇」(ごだいごてんのう)です。後醍醐天皇は以前にも鎌倉幕府を倒そうとたくらんだことがあったのですが、そのときは失敗し、隠岐に流されていました。

後醍醐天皇は隠岐から脱出し、当時有力な御家人として鎌倉幕府に反発していた「足利尊氏」(あしかがたかうじ)や「新田義貞」(にったよしさだ)の力を借りて、ついに1333年、鎌倉幕府を滅ぼしたのです。

その後後醍醐天皇は新政をおこないますが、足利尊氏が室町幕府をたて、さらに争いの渦にまきこまれていくことになります。後醍醐天皇の名前はよく出題されますが、字が難しいので漢字指定でも書けるよう練習しておきましょう。

まとめ

はじめて幕府がつくられ、名実ともに武家政権が成立した鎌倉時代。天皇や貴族中心だったこれまでの時代と比べて、新しい主従関係が出来上がり、政治制度も新しくなりました。

これから先も武力をもとにたくさんの武士が活躍し、室町時代、戦国時代、江戸時代へと時代は流れていきます。その武家政権の礎となった鎌倉幕府の誕生は歴史上の大きなできごとだったと言えるでしょう。

搭乗する人物やできごと、政治の仕組みや年号などについて細かい知識も出てくるので、「なぜそのようなできごとが起こったのか」「何年間隔で起こったのか」などに注意しながら、この特色ある時代をしっかり理解していきましょう。

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一橋大学卒。 中学受験では、女子御三家の一角フェリス女学院に合格した実績を持ち、早稲田アカデミーにて長く教育業界に携わる。 得意科目の国語・社会はもちろん、自身の経験を活かした受験生を持つ保護者の心構えについても人気記事を連発。 現在は、高度な分析を必要とする学校別の対策記事を鋭意執筆中。