【中学受験】時代ごとに歴史を整理しよう~平安時代編①

中学受験の社会の歴史分野は、範囲も広く、必要な知識も多岐にわたるので、難しいイメージを持つ受験生は少なくありません。たしかに、毎回の受験カリキュラムではほぼ1週間でひとつの時代を扱うくらいスピードが速く、各時代ごとに登場人物も変わり、できごともたくさんあるので受験生にとっては混乱しやすいので苦手意識をもってしまう傾向があるのは否めません。

細かい知識一つひとつから歴史を理解しようとするのはまず難しいでしょう。歴史は結局「いつ、だれが、どこで、なぜ、何をした」という「5W1H」の流れを追っていかないと、その時代の内容を理解することだけでなく、時代と時代のつながりが分からなくなってしまうからです。ですから、時代ごとにどのようなことが起こったのか、それはなぜか、という疑問を持ちながら知識を整理していくことがまずは重要です。

最初のうちは時代ごとの特徴やその時代に登場する人物やできごとについてしっかり押さえるようにしたうえで、時代と時代のつながりを理解していくようにすると難しく思う歴史の流れもしっかり理解できるようになります。国語の物語文で言えば、場面が転換したときのつなぎの部分を意識することが文章理解のポイントであるのと同じことですね。

まずは時代ごとの特徴的なできごとや、それをおこなった人物を中心に、歴史は難しいもの、という意識を持たずにできごとや流れを楽しんで理解するようにしてみてください。それができると、知識の羅列に思われがちな歴史の知識一つひとつがイキイキして魅力的なことに見えてきます。

今回は、平安時代の前半についてまとめてみます。前回までは古代、奈良時代までをまとめてきましたが、平安時代は政治的にも文化的にも大きな転換点となった時代と言えます。それまで時代の表に出てきた人物は天皇や豪族でしたが、平安時代に活躍した中心的人物には天皇や上皇、貴族、武士など、多くの身分から突出した人がいます。

それぞれ非常に個性があり、政治についてもその人物の個性がよく現れているので、人物が属する身分に注目してイメージすると時代の特徴がつかみやすいです。

今回は平安時代その1として、天皇中心の政治がおこなわれていた時期について解説します。これまで歴史を勉強した学年の方は時代の特徴を確認するために、これから歴史を勉強する方は平安時代にどのようなことが起こったのか、だれがそのできごとを引き起こしたのか興味を持って勉強するきっかけにしてくださいね。

平安時代前期のキーマンは桓武天皇

平安時代の始まりから前半の時代にかけて活躍したのは何といっても「桓武天皇」です。桓武天皇は、平安時代の最初の天皇です。桓武天皇が794年に平安京に都を移したところから平安時代ははじまります。それまで都は奈良にあり、奈良時代まではあちらこちらに都を転々としていました。桓武天皇は都を奈良から京都に移し、それ以降京都は天皇の政治の中心であり、武家社会に移ってからも天皇は京都御所にいました

桓武天皇にはいろいろとエピソードがありますが、歴史書によれば桓武天皇のお母さんは朝鮮からお嫁に来たという記録が残っています。つまり、天皇家には朝鮮が深くかかわっているわけですねまた、桓武天皇の「桓」の字を間違えて覚える受験生の方は非常に多いので、この際人名については正確に漢字で書けるかどうか確認しておいてください。

なぜ都を京都に移したの?

桓武天皇が京都に都を移したところから平安時代は始まりますが、では、なぜ桓武天皇は奈良から京都に都を移したのでしょうか?奈良時代の平城京はつくりもしっかりしていて、都にふさわしいたたずまいを備えていました。それを地方をまたいで移転しようというのですから、相当な理由があったはずです。そのヒントは、奈良時代にどのような政治がおこなわれていたか、という点にあります。

奈良時代の政治は誰がどのように行っていたか覚えていますか?奈良時代と言えば有名な聖武天皇をはじめとして天皇が中心となり、官僚組織が実務をおこなっていました。奈良時代の朝廷がどのような政治をおこなっていたかというと、一言で言うと「仏教に頼った政治」でした。聖武天皇は東大寺と大仏を作り、日本全国に国分寺や国分尼寺を建立し、仏教を手厚く保護しました。それどころか、何かあると仏教頼みで、天災が起こった際も仏さまにおうかがいをたてるほどだったのです。

仏教を特別に厚く保護すると、どのようなことが起こると思いますか?仏教は、ただ教えがあるだけでなく、東大寺や国分寺などを建立したことからもわかるように、いわゆる仏門に入った僧と僧たちがいるお寺が非常に力を持ったということです。

奈良時代には、寺院が人を雇って土地を開墾し、それを自分たちのものにする、といったことが多くおこなわれていました。財産もあったことから、仏教の僧はしだいに謙虚さを失っていきます。本来、信仰によって人々を救う立場にあったはずの僧が、財産をがめつくため込み、天皇も政治面でも僧を頼ったことなども関連して、どんどんごう慢になっていったのが奈良時代の後半です。

人々を救うべく導くどころか、政治までも自分たち僧が思い通りにできる、と素思いあがってしまったわけです。そのため、最初は朝廷の方から協力を仏門に求めていたのが逆転してしまい、僧が政治に口を出しをするようになってしまったのです。その代表格が奈良時代、孝謙女帝に仕えた「道鏡」が有名ですね。道鏡は本当はそれほど権力欲が強くはなく、孝謙女帝のほうが夢中になっていたという説もありますが、道鏡に強い権力を与え、法王という位を与えて、最終的には天皇の位を譲ろうとするなど見逃すことのできない状況になってしまったのです。

和気清麻呂が孝謙女帝から命令を受けて、九州の太宰府天満宮に「道鏡が天皇の位につくのがよいのかどうか」お告げを聞きに行きますが、和気清麻呂は「天皇家から天皇を出すべきである」というお告げを持って帰ったため、孝謙女帝ににらまれて左遷させれてしまったほどです。それだけ道鏡は力を持っていたのですね。

ですが、おごれるものは久しからず。やはり、僧が権力を握るという状況を苦々しく思っている人も当然ながらいるわけです。奈良時代の天皇が聖武天皇を始め仏教に非常に傾倒してしまったので、仏教に対して敵対心を持つ人々も少なくありませんでした。そのため、仏教を政治の世界から切り離す必要があったのです。

桓武天皇が奈良から京都に都を移したのは、仏教中心の政治と縁を切り、仏教の象徴でもあった東大寺から遠ざかることによって、仏教を政治の世界から排除したいという思惑があったと言われています。

794年、平安京遷都

桓武天皇が平安京に都を移した年は「なくようぐいす平安京」という語呂合わせで皆さんおぼえているのではないでしょうか。「794年=なくよ」というのはわかりやすいですよね。

平安京に都を移すにはいくつかの段階がありました。まず最初に、平安京に移る10年前の784年に都が「長岡京」に移転されました。しかし、長岡京では不吉なことが矢継ぎ早に起こってしまったのです。たとえば、長岡京の建設責任者だった藤原種継(ふじわらのたねつぐ)が暗殺されてしまいました。都の建設責任者が殺されてしまったので、建設現場はガタガタになり、計画通りに都を造ることができなくなり、長岡京は完成することができなかったと言われています。

また、当時の皇太子は、藤原種継を暗殺したと疑われ、地方に流刑になる道中で亡くなるという不幸も起こったのです。次々に朝廷に関係のある人物が亡くなったことから長岡京は不吉と考えられました。そこで、794年に長岡京から都を移すことにしたのです。それが「平安京」です。平安京は読んで字のごとくですが、平和を願って平安ということばがつけられたほどです。それだけ奈良時代の終わりは混乱が絶えなかったわけですね。

平安京の特徴として、奈良時代の平城京などとは異なり、仏教の寺院が造られなかった、ということが挙げられます。もともと京都に都を移そうと考えたのも、仏教が政治に深く関わりすぎてしまい、僧が増長したことが原因でしたね。仏教から距離を置いて政治体制を改めようとしたので、平安京には仏教の寺院が造られなかったのです。それだけに桓武天皇の強い意識が感じられますね。

「なくようぐいす平安京」で覚えることの多い平安京遷都の年号ですが、仏教から政治権力を奪うということで権力が小さくなった僧が泣くということで、「なくよ坊さん」という覚え方もあります。これだと、平安京に都を移した背景も一緒に覚えることができるので、余裕があったらこちらで覚えておくのもひとつの方法です。

そうはいっても仏教がまったくなくなったわけではなかった平安時代

桓武天皇が京都の平安京に都を移し、そこに寺院を造らなかったのは、仏教勢力が政治に口出しすることをきらったからだと言われています。仏教勢力と距離を置き、天皇中心の政治を実のあるものにしたかったわけですね。

ただし、桓武天皇は政治と仏教の関係は断ちたかったわけですが、政治にかかわりを持たない仏教は必要だ、と考えていたようです。政治に深く口出しをしてくる仏教は必要ないけれども、何かあったときに人々がすがることのできるような存在として、仏教を重視していたとも言えるでしょう。そのため、現在の日本国憲法でも定められている「政教分離」という政策を打ち出したのは画期的なことだったのです。

政教分離とは、政治と宗教(この時代だと仏教)がお互いに干渉しあわない、ということです。つまり桓武天皇は政治は朝廷が、仏教は寺院と僧が役割分担をして、人心をまとめる、という政策をとりたかったので、奈良時代までの仏教徒は一線を画した仏教の存在自体は否定せず、むしろ新しい仏教の存在は容認していたのです。

平安時代の新しい仏教の代表が、「真言宗」と「天台宗」です。これらは、日本土着の仏教とは異なり、「山岳仏教」あるいは「密教」と呼ばれる仏教で、現在も存在する仏教です。真言宗と天台宗をはじめた僧が誰だったか名前を憶えていますか?真言宗は「空海」、天台宗は「最澄」でしたね。空海と最澄は、この時代に唐に留学していました。非常に優秀で、当時の中国王朝であった唐でも破格の待遇を得て、仏教の奥義(教えの中心となる考え方)をおさめ、唐でも学問発展のために長用されていたと言われるほどです。

空海と最澄が唐への留学から日本に戻ってきたことから、真言宗と天台宗が日本で広まるようになりました。奈良時代のような政治に口出しをする時代に唐に留学していたふたりが開いた仏教は、新しい政治を始めようとしていた桓武天皇にとっても都合が良かったのです。

そこで、空海と最澄は、都である平安京ではなく、京都から遠く離れた山奥に寺院を建立して、それぞれ新しい仏教の宗派を開きます。それが真言宗と天台宗だったのですね。都から遠く離れた山奥に開いた仏教だということで、このふたつの仏教は「山岳仏教」とも呼ばれたのです。それぞれの宗派を簡単にまとめておきましょう。

空海:高野山金剛峰寺(こうやさんこんごうぶじ)で真言宗を開く
最澄:比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)で天台宗を開く

真言宗が開かれた高野山金剛峰寺は和歌山県に、天台宗が開かれた比叡山延暦寺は滋賀県にあります。高野山の近くにある熊野古道は世界遺産になっていますね。比叡山延暦寺は、戦国時代、織田信長に敵対し、焼き討ちの憂き目に合っています。僧兵がいたので有名で、結局仏教勢力として力をふるうことになっていました。

高野山金剛峰寺、比叡山延暦寺は、それぞれ固有名詞なので、漢字で書けるようにしておく必要があります。金剛峰寺の「峰」という漢字は間違えやすいですし、比叡山の「叡」という字はそもそも画数も多く珍しい漢字なのでこれまた間違えやすい受験生が非常に多いので、固有名詞は最初から漢字で覚える習慣をしっかりつけておきましょう。

蝦夷討伐も桓武天皇の時代

桓武天皇と言えば、平安京に都を移して、仏教との政治的つながりを分断するべく、政教分離政策を打ち出したという点で非常に画期的なことをしました。桓武天皇がおこなった政策は仏教の政治からの排除だけではありません。実はほかにもしっかり押さえておきたい桓武天皇の政策があります。

それは、蝦夷(えぞ)の討伐を命令したことです。蝦夷とは、当時の東北地方の人々を表す言葉です。桓武天皇は、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)を征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任命して、蝦夷を倒すように命令しました。

征夷大将軍というのは、鎌倉時代や江戸幕府においても朝廷から授けられた重要な位のひとつですが、もともとは征夷大将軍=蝦夷を討伐するための大将軍、という意味だったのです。平安時代、征夷大将軍は蝦夷を征討するための大将軍、鎌倉時代以降は武家政治のトップの人の役職として朝廷から任命された位だという違いについては、時代背景と関連させるとイメージしやすいですね。征夷大将軍、と単語を覚えるだけでなく、何をする役職だったのか理由を考えてみると覚えやすいですよ。

坂上田村麻呂は桓武天皇からの命令にしたがい、蝦夷討伐に成功します。当時、蝦夷のリーダーは「アテルイ」でしたが、坂上田村麻呂は桓武天皇に対して、彼を処刑しないように説得したとも言われています。征夷大将軍というと気性のあらい武士のようなイメージがありますが、坂上田村麻呂は非常に心の広い人物だったと言われてます。蝦夷を討伐し、朝廷にしたがわせるためにはむやみに人を殺すことを良しとしなかったのかもしれません。

まとめ

桓武天皇は平安京に都を移し、奈良時代に政治に口出しをするなどして大きな勢力となっていた仏教を遠ざけようとしました。そのため、京都の平安京には仏教寺院を建造しませんでした。

この当時は、まだ天皇中心の政治がおこなわれていました。蝦夷を討伐したことも桓武天皇が主導しておこなったのです。政治を天皇の手にしっかり握り、新しい都で天皇中心の政治をするという理想を持った桓武天皇によってはじめられた平安時代ですが、こののち、貴族が実権を握り、藤原氏による摂関政治が花開きます。それについては次回解説するので、時代の特徴をまずはしっかり押さえておきましょう。

<関連記事>

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です