【社会・歴史】日本と中国・朝鮮半島の交流史をおさえよう⑧〜明治時代・日清戦争編〜

1871年廃藩置県[i]、1873年地租改正[ii]など、明治新政府は新しい天皇中心の中央集権の体制の礎を築きはじめ、富国強兵[iii]のもと近代化も推し進めていきました。更に欧米のアジア進出を阻止するため、朝鮮を日本の影響下におこうとしていました。 

しかし、日本の対朝鮮に対する姿勢は、朝鮮を属国として宗主権[iv]をもつと主張する清国と対立していきます。 

1894年 甲午農民戦争 

朝鮮で起こった東学の信徒を中心とした農民の反乱です。東学党とは農民の間で広がった民間宗教です。東岳の信徒を中心とした農民らは、新日政府の圧政に対し蜂起し、朝鮮政府は清国に助けを求めました。清国の出兵に合わせ日本からも兵を送り、農民の蜂起はおさまります。 

しかし、日清間の対立、朝鮮において日本批判が強まっていきます。 

1894 日英通商航海条約 締結 

江戸時代に結んだ不平等条約のひとつである1858年の日英修好通商条約を改正した日英通商航海条約が結ばれます。対外的な後ろ盾を得た日本は清国に宣戦布告し、日清戦争が始まることになります。 

1894~1895年 日清戦争 

日本が優勢な状態で開戦した日清戦争は日本の勝利で終わりました。1895年、日本側から伊藤博文[v]首相と陸奥宗光[vi]外相、清国側から李鴻章[vii]によって講和条約が結ばれました。これが下関条約です。下関条約によって清国は日本に対し、以下のこと等を約束しました。 

  • 朝鮮の独立の承認
  • 台湾、澎湖諸島、遼東半島の割譲
  • 賠償金2億両(日本円で約3億1000万円)の支払い
  • 日清通商航海条約の締結

【注】

[i] 1871(明治4)年7月,全国の藩を廃止して県を設けた政治的変革。第2の王政復古ともいう。版籍奉還後も封建的藩体制は実質的に存続していたのでこれを廃絶するため,西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允・板垣退助らが政府の中枢を固め,薩摩・長州・土佐3藩の軍隊の力(御親兵)を背景に廃藩置県を断行した。これにより府藩県三治制は廃され,東京・大阪・京都の3府と302県(のち72県)が成立した。旧藩主は東京在住を命じられ,新たに中央から府・県知事(県令)が任命され,薩長藩閥政権による中央集権体制が完成した。(旺文社『日本史事典』) 

[ii] 明治初年,新政府の行った土地・租税制度改革。政府は財源の安定をはかるため,1873(明治6)年地租改正条例を公布。’71年の田畑勝手作解禁と ’72年の田畑永代売買解禁・地券交付により農民保有地の私的所有権を認めて封建的諸制限を撤廃した政府は,それまでの現物年貢を改め金納とし,地租を地価の3%と決め,地主から徴収することにした。地租改正準則にあげた例によれば,地租は収穫の34%,地主の取り分34%,小作農民の取り分32%で,小作料は地租プラス地主の取り分だから,68%という重いものであり,また物納であった。このような中で,政府は’75年地租改正事務局を設け翌年完了をめざして強行したため,農民の不満が爆発して,地租改正反対の農民一揆が頻発し,政府は ’77年地租率を2.5%に軽減した。(旺文社『日本史事典』) 

[iii] 幕末・明治初期における急速な資本主義化と軍備の充実をめざすスローガン。同時に唱えられた「殖産興業」「文明開化」のスローガンも究極の目標は「富国強兵」にあった。徴兵令・地租改正・殖産興業政策により,資本主義を育成し国を富ませ,これを基礎として軍備を充実させ,欧米列強と対抗できる国力を育てようとした。この政策は大陸進出への出発点ともなった。(旺文社『日本史事典』) 

[iv] 他国に対し,内政・外交を管理する権限この権限をもつ国を宗主国,権限を行使される国を従属国という。(旺文社『世界史事典』) 

[v] 1841〜1909 明治時代の政治家。元老。長州藩出身。松下村塾に学び,尊王攘夷運動に参加。1871年岩倉遣外使節の副使として欧米を視察。帰国後征韓論に反対し,参議兼工部卿となり,大久保利通の死後は内務卿に就任。’82年憲法調査のため渡欧し,帰国後華族制度・内閣制度の創設,枢密院の設置,大日本帝国憲法・皇室典範の制定に指導的役割を果たした。その間,内閣総理大臣・枢密院議長を歴任。1900年立憲政友会を組織し,その総裁に就任。日露戦争後,初代韓国統監として韓国併合の基礎をつくり,’09年ハルビンで暗殺された。(旺文社『日本史事典 』) 

[vi] 1844〜97 明治時代の政治家・外交官。紀伊藩出身。海援隊に加わり,尊王攘夷運動に参加。1872年明治新政府の租税頭として地租改正の実施にあたり,初期議会では政党工作に腕をふるう。第2次伊藤博文内閣の外相として,’94年7月日英通商航海条約を締結し,領事裁判権の撤廃と税権の一部回復に成功。ひきつづき日清戦争前後の外交にあたり,下関講和会議に伊藤首相とともに全権として出席した。(旺文社『日本史事典』) 

[vii] 1823〜1901 中国,清末期の政治家。淮 (わい) 軍を率いて太平天国の乱を鎮圧。以後,淮軍の軍事力,洋務運動の推進,外交の独占によって清末の最有力政治家となる。日清修好条規締結(1871)以来,日本との外交問題の多くに関係した。天津条約をはじめ日清戦争後の下関条約・露清同盟密約,義和団事件後の北京議定書にもたずさわった。(旺文社『日本史事典』) 

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