【社会・歴史】日本と中国・朝鮮半島の交流史をおさえよう⑦〜江戸時代・開国編〜

江戸幕府は、1641年に長崎の出島に商館をうつし、オランダ中国以外の国との外交はしない鎖国体制に入りました。しかし、18世紀に入り世界の情勢が大きく変化し、日本にも列強が接近し始めるようになりました。18世紀の世界情勢と共に、日本、中国・朝鮮の関係性を見ていきます。 

列強の情勢

イギリス

1642〜1649年、チャールズ1世の絶対主義に対するピューリタン革命[i]が起きます。その後、議会制になるも1660年に王政復古となります。そして、1688年にジェームズ2世の国王大権の濫用とカトリック復興政策に対して、市民革命が起きますが、ピューリタン革命と違い、流血がなかったため名誉革命[ii]と呼ばれます。

フランス

1789年に、ブルボン朝の絶対王政に対してブルジョワから広がった革命であるフランス革命[iii]が起きます。

アメリカ

1776年にアメリカはイギリスからの独立宣言[iv]をします。

また、産業革命イギリスから始まり欧米列強へと広がっていきます。産業革命により、手工業生産から工場制生産への変革し、生産率が向上、社会構造も変化していきます。更に生産率の向上により新たな市場を求め始めた欧米列強は東アジアに近づいてきます。 

そんな中最初に日本と接触をしたのはロシアでした。 

列強の対日接近とアヘン戦争

列強の対日接近の流れをみていきましょう。 

1778年 

ロシア船、厚岸に来航 

1792年 

ロシア使節ラクスマン、根室に来航 

1804年 

ロシア使節レザノフ、長崎に来航 

1808〜1809年 

間宮林蔵、樺太・沿海州を探査 

1818年 

イギリス人ゴードン、浦賀に来航 

1825年 

幕府、異国船打払令を発令 

1840〜1842年 

アヘン戦争 

1853年 

アメリカ使節ペリー、浦賀に来航。ロシア使節プチャーチン、長崎に来航 

シベリア開発のため南下し、日本との通商を求めるロシアを拒否し、イギリスやアメリカも通商を求めてくるようになります。そんな中1840年〜1842年にかけてアヘン戦争が起きます。 

アヘン戦争とは… 

中国・清朝ではアヘンが禁止されているため、イギリス東インド会社は当時植民地であったインドを通じてアヘンを中国・清朝に密輸入させました。結果、アヘン密輸が盛行しアヘンによる害が政治問題化します。また、茶、絹などの輸出による外国銀流入が、アヘン密輸により銀の国外流出につながってしまいます。 

清朝はアヘンを没収、イギリスとの交易中止の強行対策に出ます。そんな清朝に倒しイギリスは兵を派遣し、開戦となります。1842年大敗した清朝にイギリスは清朝が不利な南京条約を結び開国させます 

アヘン戦争についての情報をオランダや中国から聞いた江戸幕府は異国船打払令を緩和するなどの対策に出ますが、オランダ国王の勧告を受けても鎖国体制は守ろうとしました。 

しかし、1853年にペリー[v]が浦賀に来航し、国書を用いて開国を求めます。翌年軍艦7隻を率いて再び浦賀を訪れたペリーの威力に屈し、江戸幕府は不平等な日米和親条約を結び開国することになりました。 

【注】

[i] 1642〜60年に行われた,ステュアート朝の絶対主義に対するイギリスの市民革命。清教徒革命ともいう。チャールズ1世はスコットランド鎮圧の軍費捻出のため,1640年,11年ぶりで議会を召集したが,議会側は専制を批判して大諫奏 (だいかんそう) を提出するなど,王と対立した。1642年国王の議会への弾圧から内戦となる。初めは王党派が,ジェントリや都市市民に基礎を置く議会派より優勢であったが,ヨーマンを主体としたクロムウェルの鉄騎隊が出現して,1645年ネーズビーの戦いで議会軍が勝ち,48年国王は逮捕された。クロムウェルの独立派は王と妥協をはかる長老派議員を追放し(プライドの追放),1649年1月王を処刑して共和政を宣言した。ついでクロムウェルは急進的な水平派を弾圧し,1653年には護国卿として軍事独裁体制を樹立した。またアイルランド征服・航海法発布・英蘭戦争などを強行したが,彼の死後,1660年に王政復古が行われた。(旺文社『世界史事典』) 

[ii] 1688年から89年にかけて行われた,イギリスの市民革命。流血を伴ったピューリタン革命に対して,無血革命であったことから,この名がある。王政復古後,チャールズ2世・ジェームズ2世の専制政治に苦しんだ議会は,結束してジェームズ2世の娘メアリ2世とその夫オランダ総督オラニエ公ウィレムを王位に迎え,無血の政変を成功させた。ウィレム夫妻は共同統治者として,1689年2月権利の宣言を承認し,同年12月に権利の章典として発布,ここに立憲君主政治が確立した。(旺文社『世界史事典』) 

[iii] 1789年7月14日に起こり,99年まで行われたフランスの市民革命。ブルボン朝の絶対王政下のアンシャン−レジーム(旧制度)の矛盾は,国家財政の赤字処理の失敗から爆発し,高等法院を中心とする貴族の反抗は三部会の召集を招き(1789),やがて三部会は,球戯場の誓いから第三身分を中心とする国民議会を結成し,憲法制定議会に進展した。7月にバスティーユの襲撃が起こると,革命は全国に波及し,各地で農民の暴動(大恐怖)が起こった。これに対し,1789〜91年の国民議会は,ミラボーやラファイエットらの指導の下に封建的特権の有償廃止,人権宣言の発布,司法・行政改革を行い,1791年憲法を制定して立憲君主制を樹立した。しかしミラボーの死,ヴァレンヌ逃亡事件などから共和主義が台頭し,1791〜92年の立法議会ではジロンド派が指導権を握り,オーストリアの干渉から対外戦争に突入した。国の内外からの危機,社会不安の増大はサンキュロット勢力の台頭を招き,1792年の8月10日事件に発展した。この結果,王権の停止,普通選挙の実施,農業改革の推進が行われ,ここからジロンド派対ジャコバン派の深刻な闘争が始まり,サンキュロットを指導するジャコバン派が優勢になっていった。新しく普通選挙によって召集された1792〜95年の国民公会は,王政廃止・共和政樹立を宣言し,93年ルイ16世を処刑した。このためイギリスを中心とする対仏大同盟軍との戦いと国内の反革命の激化から革命政府は危機におちいり,1793年5〜6月ジャコバン派はサンキュロット支持の下にジロンド議員を追放し,ロベスピエール・ダントン・マラーらを中心とするジャコバンの独裁政権を樹立した。彼らは,公安・保安の両委員会を中心に政治的・社会的改革を強力に進めるとともに,恐怖政治を展開した。しかし,対外戦争の勝利,経済統制の失敗,農民の保守化,恐怖政治に対する不安などはロベスピエールの独裁に対する反感を招き,1794年テルミドール反動によってロベスピエール派は倒され,温和なブルジョワジーが政権を握って,ブルジョワ的安定がはかられた。1795年憲法が制定されて総裁政府が成立したが,99年ナポレオン1世のクーデタで倒れ,フランス革命は終結をみるに至った。(旺文社『世界史事典』) 

[iv] 1776年7月4日の第2回大陸会議によって採択された,13植民地の独立に関する宣言。ジェファソン・アダムズ・フランクリンらを起草委員とし,ジェファソンが執筆。戦争の完遂上,対外的動機と消極的な保守派を制圧するための手段として必要であった。内容は,(1)ロックから発展した自然法思想に立脚する総論的部分……自然権,社会契約説にもとづき圧政に対する人民の革命権思想を主張,(2)ジョージ3世の弾劾……植民地に対する27の虐政を列挙,(3)結論……13植民地が自由独立の国家であることを公言し,将来の国家形体を示唆,の3つの部分からなっている。(旺文社『世界史事典』) 

[v] 1794〜1858 アメリカの海軍軍人。東インド艦隊司令官として,1853(嘉永6)年4隻の軍艦を率いて浦賀に入港し,幕府に大統領フィルモアからの国書を提出して開国を要求。翌’54年,7隻で再度来日し,武力を背景に日米和親条約を締結。日本の開国を実現させた。(旺文社『日本史事典』) 

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