安土・桃山時代ってどんな時代?文化も独特、織田信長による新しい時代の幕開け

室町時代、第8代将軍の足利義政の治世で起こった応仁の乱。守護大名がガチンコで戦い、京都を焼け野原にしてしまった、11年にもわたる争いは、室町幕府の力を弱め、また、実力さえあれば身分が下のものであっても上のものを倒して大名となれる、いわゆる「下剋上」(げこくじょう)の時代になりました。守護大名の中からまずは戦国大名が生まれましたが、その後、有名な豊臣秀吉は足軽(下級の武士)から戦国大名となって名を上げ、さらには関白太政大臣となりました。

応仁の乱以降の約100年間は、「戦国時代」と呼ばれます。時期としては、室町時代の半ばから、その後の安土桃山時代まで続きました。この時代はむさくるしい激しい戦いが多かったイメージを持つ方も多いでしょうが、実は戦国時代、特に安土桃山時代には、ヨーロッパの人々が日本に多くやってきて、さまざまな進んだ西洋文化をもたらしたのです。遣唐使を中止した後、足利義満による貿易などはありましたが、基本的に日本の文化と言えば日本独特のものとなっていました。

しかし、外国人がもたらした文化、兵器、そういったものが戦国時代の下剋上と深く関わり、ほかの時代とはまったく違う新しい時代の幕開けとなったのが安土桃山時代です。ここでは、非常に興味深い安土桃山時代についてまとめておきましょう。

安土桃山時代の戦国大名の代表は織田信長!

安土桃山時代の代表選手と言えば、やはり「織田信長」(おだのぶなが)です。2020年度のNHKの大河ドラマは「麒麟がくる」でしたね。明智光秀の謎に満ちた人生を描き、かかわりの深かった織田信長が主要登場人物として天下に君臨していた様子を皆さんもご覧になったのではないでしょうか。大河ドラマの最終回は「本能寺の変」でした。有名な、織田信長の亡くなった事件ですね。

皆さんは、織田信長についてどのようなイメージを持ちますか?最近では戦国時代に活躍した大名として、歴史漫画をはじめ、ゲームなどでも人気キャラクターとなっている人物です。織田信長は、天下統一まであと一息、というところまでのぼりつめた人物として知られていますが、もとはといえば「尾張国」(現在の愛知県)という国の小さな戦国大名のひとりでした。しかし、戦いで連戦連勝し、着実にレベルアップしていったのです。ゲームで言えばHPアップ!というところですね。

そんな織田信長は、「うつけもの」と呼ばれていました。「馬鹿者」という意味だと思われがちなのですが、現代で言うといわば「ヤンキー」。それがうつけもの、織田信長のイメージだと考えれば、親しみが持てるのではないでしょうか。普通の枠にはおさまりきらない、破天荒な性格として知られている織田信長では、実は戦いの場面では非常に冷静沈着で、政治の面でも才能を発揮した人物だったと言われています。うつけものは仮の姿、じつは大物だったのですね。

安土桃山時代の貿易は「南蛮貿易」

日本が戦国時代に突入したちょうどそのころ、ヨーロッパではポルトガルやスペインといった国々が貿易の相手国や植民地を求めて、大型の船を使って次々と海外に進出していました。ヨーロッパというとイギリスやフランスが強い、というイメージがあるかもしれませんが、じつは最初に中心となったのはポルトガルやスペインでした。

この時代は「大航海時代」と呼ばれます。コロンブスやヴァスコ・ダ・ガマなどが王から命じられ、世界中を旅していろいろな国に上陸していたのです。当時のポルトガル人やスペイン人は、日本では「南蛮人」(なんばんじん)と呼ばれていました。そこで、日本が南蛮人と貿易をおこなったので、安土桃山時代の貿易を「南蛮貿易」と呼ぶのです。

南蛮貿易は、日本に大きな影響をいくつも及ぼしました。特に中学受験の歴史分野で覚えておきたいのは、以下の2つの影響です。

・ポルトガル人による鉄砲伝来
・フランシスコ=ザビエルによるキリスト教伝来

ひとつずつ詳しく見ていきましょう。

ポルトガル人による鉄砲伝来

1543年、ポルトガル人が「種子島」(たねがしま)に流れ着きました。種子島がある場所は、鹿児島県です。鹿児島県の南にある島なので、間違えないように覚えておきましょう。そして間違えやすいのが種子島の「子」を「ケ」と書いてしまうことです。テストで×になってしまうので注意してください。

このとき、ポルトガル人によって日本に伝わったのが「鉄砲」です。当時は「てつはう」と呼ばれていたそうです。種子島の大名であった「種子島時尭」(たねがしまときたか)に伝えられたと言われています。当時伝わったてっぽぷのタイプは「火縄銃」(ひなわじゅう)で、縄に火をつけて火薬を爆発させるものでした。火縄銃の内部にはネジが使われていたため、鉄砲伝来によって日本にはじめてネジの技術が伝わったとも言われているのです。

その後、鉄砲は「近江国」(おうみのくに:現在の滋賀県)の国友、「和泉国」(いずみのくに:現在の大阪府)の堺などで生産されるようになり、しだいに戦いの場でも使われるようになったのです。

鉄砲が登場したことにより、戦国大名同士の戦い方にも変化が表れます。それまでは、騎馬を使ったいわゆる「一騎打ち」が主流でした。しかし、鉄砲が使われるようになったことにより、足軽による集団戦法が増えたのです。鉄砲は距離が合っても敵に届くことから「飛び道具」とも呼ばれます。

また、城にも変化がありました。以前は、城と言えば山の上につくられた「山城」(やましろ)でしたが、高い天守閣をもつ「平城」(ひらじろ)が増えたのです。平城では、城壁に小さな穴があけられ、その穴を通して鉄砲で敵を迎え撃ったので、鉄砲伝来は日本の城の在り方にも変化をもたらしたのです。

フランシスコ=ザビエルによるキリスト教伝来

次に忘れてはならないのが、キリスト教の伝来です。1549年、スペインのキリスト教宣教師であるフランシスコ=ザビエルが鹿児島に上陸しました。鉄砲同様、キリスト教も鹿児島に流れ着いたのですね。

フランシスコ=ザビエルは、イエズス会というカトリックの宗派の宣教師で、日本にキリスト教をはじめて伝えました。つまり、日本に伝わったのは、カトリック(旧教)だったのです。当時、アジア諸国を中心にカトリックの布教活動が盛んにおこなわれていました。じつは、これには深い理由があったのです。

フランシスコ=ザビエルが鹿児島に上陸するより30年ほど前、当時のイタリアはローマのカトリック教会では、資金集めのために「免罪符」(めんざいふ)というものを打っていました。免罪符とは、「これを買えば(悪いことをしても9罪を免れることができる」という札です。つまり、悪いことをしてもお金さえあれば免罪符を買って無罪になったわけです。どう考えてもおかしいですよね。当然のことながら、キリスト教信者の中にも免罪符についておかしい、と意見する人が表れました。

免罪符の存在を知ったドイツ人のマルティン=ルターは、免罪符で無罪になるなんておかしい!と主張し、批判します。そしてキリスト教の立て直し運動を起こしたのです。これが「宗教改革」です。スイスでも、フランス人のジャン=カルヴァンが同じく宗教改革をすすめました。

マルティン=ルターやジャン=カルヴァンのように、カトリックに反対する人々が新しく唱えたキリスト教、いわゆる新教が「プロテスタント」です。「プロテスタント」とは「抵抗する人」という意味です。当時のヨーロッパでは免罪符を売っていたカトリックよりも、免罪符を批判するプロテスタントのほうが人気があり、勢いを増していったのです。

カトリックはプロテスタントの勢いに押されてしまっていましたが、そのままではカトリックの立場がありません。キリスト教の根本は自分たちの教え、というぽちしーがあったからです。そこで、カトリックの内部でも、カトリックを変えよう!という考えが持ち上がりました。ローマの総本山の号令のもと誕生したのが「イエズス会」です。イエズス会は、神奈川県の栄光学園中学校や、東京にある上智大学などをつくったカトリックの宗派です。

イエズス会は、アジア諸国にも教えを広めようと布教に力を入れはじめました。こうした流れが合って、フランシスコ=ザビエルは日本の鹿児島に流れ着き、日本での布教活動を開始したのです。

鉄砲=ポルトガル人、キリスト教=ザビエルと覚えておこう

このように、鉄砲は1543年、ポルトガル人によって鹿児島の種子島へ、キリスト教は1549年にスペイン人のフランシスコ=ザビエルによってこれも鹿児島に伝わりました。これ以降、各地の大名は鉄砲を使って戦いをし、戦い方そのものが変わります。キリスト教も、宣教師によって広まっていったのです。鉄砲とキリスト教の伝来の年号は非常に近いので、間違えて覚えてしまうことが多いです。しっかり結び付けて覚えておきましょう。年号を覚えるのと同時に、南蛮貿易が日本にさまざまな影響を与えたというイメージも持てるとより理解が深まりますよ。

織田信長の台頭!桶狭間の戦い

織田信長はのんびり貿易をしていたわけではありません。戦国大名らしく、戦いに明け暮れていました。戦上手で知られた織田信長の強さが分かる戦いのひとつとして絶対に押さえておきたいひとつが、1560年の「桶狭間の戦い」(おけはざまのたたかい)です。

織田信長の国は尾張でしたが、すぐ隣にある「駿河国」(するがのくに:現在の静岡県)の大名であった「今川義元」(いまがわよしもと)が何と2万5千人という大群を率いて終わりを攻めてきたのです。対する織田信長の軍はたった2000人ほどでした。10分の1にも満たない戦力差だったわけですが、織田信長の奇襲作戦が成功し、何と10倍の規模の軍を破り、今川義元の軍に勝ったのです。桶狭間の戦いでは、今川軍に偽の情報を流すなどして今川軍を浮足立たせて、今川義元の周囲を手薄にさせたところを襲うという、織田信長の見事な作戦勝ち、と言われているのです。

足利義昭を15代将軍に

桶狭間の戦いの勝利によって、織田信長は天下統一のための動きを加速させていきます。そこで、利用しようとしたのが幕末を迎えようとしていた室町幕府の将軍の力です。応仁の乱以降すっかり影の薄くなってしまった室町幕府ですが、いまだその威光は健在だったのです。そこで織田信長は上洛(じょうらく:京都にのぼること)し、足利義明を第15代将軍にするために力を貸しました。足利義明は出家していたのですが、織田信長が上洛する約2年前に、将軍になることを目指して還俗(出家した人が一般の人に戻ること)していたのです。

うつけものと呼ばれ、変り者、破天荒な性格として知られていた織田信長ですが、京都に上洛してからは、さまざまな人に対して、非常にていねいな姿勢で接することによって信頼を得ていたと言います。そのため、京都の民衆はもちろん、天皇や公家、貴族なども織田信長のことを見直し、ますます有名になっていったのです。これも天下統一の足掛かりのひとつだったわけですね。

1570年、織田信長は「浅井長政」(あざいながまさ)と「朝倉義景」(あさくらよしかげ)の連合軍と、琵琶湖沿岸の「姉川」で戦います。これが姉川の戦いという合戦です。浅井長政の妻は、織田信長の妹である「お市の方」でした。浅井長政は義理の弟だったのです。

浅井長政とお市の方の間には3人の娘がいました。浅井3姉妹と呼ばれますが、茶々、お初、お江の3人です。長女の茶々はのちに豊臣秀吉の側室になり、大坂夏の陣で命を落とします。お江は徳川2代将軍の徳川秀忠の正室となりました。

本来であれば親戚である織田信長の味方になるはずの浅井長政でしたが、なぜか朝倉義景側についてしまいました。そして、「比叡山延暦寺」(ひえいざんえんりゃくじ)や、一向宗(いっこうしゅう:浄土真宗の一派)の僧なども浅井・朝倉連合軍側についたのです。

織田信長としては、自分に歯向かうものを許すことができませんでした。反旗を翻した仏教に対しても強い敵対心を抱くようになったのです。その後、織田信長は一向宗の「石山本願寺」と戦い、1571年にはついに比叡山延暦寺を焼討ちにしてしまいます。当時、比叡山延暦寺には大勢の僧がいましたが、武装して「僧兵」と呼ばれ、恐れられていました。

比叡山延暦寺と言えば、最澄がはじめた天台宗の総本山。仏のいる寺を焼討にしたことにより、怖いもの知らずと織田信長は恐れられるようになります。織田信長の仏教に対する憎しみは強く、キリスト教を保護したのは仏教の勢いを抑えたかったからだと言われています

室町幕府が滅亡

桶狭間の戦い、姉川の戦いを経て、戦に強いイメージを植え付けた織田信長ですが、全国規模で力を示し、名声を高めていく織田信長に対して不満を持ち始めたのが、織田信長に将軍にしてもらった足利義明です。

織田信長の恐ろしさも良く知っていた足利義明は、このまま手を付けられなくなったら自分はどうなるだろうかとおびえ、武田信玄などに手紙を送って織田信長を打倒しようとたくらみます。打倒・織田信長に向けて動き出した矢先、その計画が織田側に漏れてしまいました。そこで、織田信長は1573年に足利義明を追放します。将軍を追放するということはすなわち、幕府が滅亡するということです。結果的に1573年、室町幕府は240年にわたるその歴史に幕を下ろしたのです。

鉄砲を活用!長篠の戦い

戦国時代の名にふさわしく、次々と戦いがおこります。1575年、「長篠の戦」(ながしののたたかい)は、織田信長・徳川家康の連合軍と、「武田勝頼」(たけだかつより:武田信玄の息子)率いる騎馬隊が戦った合戦です。長篠は、愛知県の渥美半島(あつみはんとう)の近くに位置する場所です。渥美半島と言えばメロン、電照菊の栽培、豊川用水で有名ですね。地図帳で場所を確認しておきましょう。

武田勝頼軍が騎馬隊であったのに対し、織田信長・徳川家康連合軍は、鉄砲を効果的に使って大勝利をおさめました。このとき採用されたと言われる「三弾戦法」(三弾撃ちとも言う)は、中学入試でもよく出題されているので覚えておきましょう。

三弾戦法(三弾撃ち)とは、鉄砲を撃つ役割の足軽を、まずは3列に並ばせたうえで、最前列の足軽が鉄砲を撃つと、その足軽は一番後ろに下がり、次の列の足軽が出てきてまた鉄砲を撃つ、そしてその足軽がまた一番後ろに下がって三列目の足軽が鉄砲を撃つ・・・といったことを繰り返し、まるでベルトコンベアーのように鉄砲の弾が降り注ぐという戦法です。

長篠の戦いで使われた火縄銃は、じつは1発ずつしか撃てない住だったのです。しかし、三弾戦法であれば、人を変えて次々に連続して打ち続けることができます。この戦法で武田勝頼軍は蹴散らされてしまいました。騎馬軍だったので遠くから飛んでくる弾に驚いた馬の収集がつかないほど、見事な作戦だったとして有名です。騎馬戦は1人の武将が馬にまたがって個人戦を展開しますが、鉄砲を使った織田・徳川軍はまさにチームワークで勝利をおさめていたわけですね。

長篠の戦いの相手方、武田勝頼は名高い武田信玄の息子です。武田信玄は「風林火山」(ふうりんかざん)で有名な強い戦国大名だったので、織田信長も攻めあぐねていたと言います。しかし、1573年、武田信玄は亡くなってしまいました。息子の武田勝頼はまだ若く経験不足。織田信長にとっては追い風が吹いていた戦いでもあったと言われています。

楽市・楽座を開いたアイデアマン

1576年、織田信長は琵琶湖のほとりに「安土城」を築きはじめました。当時の城は豪華で雄大なつくりで、最上階には天守(天守閣)がある立派なものでした。外から見ると5階建て、実際は7階建てという、いわゆる「5層7重」で建てられた安土城を、織田信長は天下統一のための拠点としたのです。

絢爛豪華な安土城のもとにつくられたのが、城下町です。安土城の城下町には、商工業をさかんにするために、「楽市・楽座」を開きました。楽市・楽座とはなにかというと、同業者組合で商工業を独占していた「座」を廃止して、誰でも自由に商売ができるようにした政策のことです。既得権益に守られた限られた一部の人々ではなく、誰もが自由に生き生きと働ける、そんな社会を織田信長は夢見ていたのかもしれません。

また、織田信長は、関所も廃止しました。もともと、関所は、領地を守るために置かれていた拠点です。しかし、そこを通るためには通行税を払わなければならなかったのです。商人がいろいろな物品を運ぶためには必ず関所を通ることになりますよね。ですが、そのたびに通行料を払わされていたのではたまったものではありません。そこで、織田信長は商人が自由に行き来できるようにした方が、もっと産業が発展するのではないか、と考えて、関所を廃止することを決めたのです。

天下統一目前に無念の死!本能寺の変

戦は連戦連勝、豪華絢爛な城を築き、城下町も発展、新しい海外の文化も広めていた織田信長。しかし、その最期はあっけないものでした。1582年、京都にある「本能寺」(ほんのうじ)で、家来であった「明智光秀」(あけちみつひで)に襲われ、自害したと言われています。このできごとは「本能寺の変」と呼ばれ、戦国時代の折り返し地点ともいえる重要な事件です。天下統一を目前にして、織田信長ははかなくも散っていったのです。

本能寺には、限られた家来しか連れて行かなかった織田信長。ほんの一瞬の気のゆるみが明智光秀に付け入るスキを与えたのでしょうか。「人生50年、下天のうちをくらぶれば ゆめまぼろしのごとくなり」と辞世の句を詠んだと言われています。当時は戦国時代ですから、50歳まで生きることの方が珍しかったのかもしれません。切腹したとも言われていますが、本能寺は燃えたため、詳しいことはわかっていません。

本能寺の変の少し前、織田信長は羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)に対して、中国地方で勢力を持っていた「毛利輝元」(もうりてるもと)の軍と戦うように命じていたのです。しかし、苦戦した羽柴秀吉から織田信長のもとに助けを求める手紙が届きました。羽柴秀吉を助けるために戦地へと向かっていた織田信長は、道中、京都の本能寺に留まっていたのです。そこで明智光秀の裏切りにより命を落としました。明智光秀が織田信長を殺害した理由には諸説ありますが、もともと名門出身であった明智光秀が、世の秩序を変えようとしている織田信長の危険性を感じて討ったともいわれています。

しかし、明智光秀の天下は「三日天下」と呼ばれるように、ほんの一瞬でした。織田信長の死を聞いた羽柴秀吉がかたき討ちのために急いで引き返して山崎の戦いで倒したとも、明智光秀が落ち延びるときに農民に殺されたとも言われています。

天下統一に向けて短く太い人生を送った織田信長

織田信長は、本能寺であっけないともいえる一生を終えました。その一生は、尾張の小さな大名であったときから戦いに連戦連勝し、勢力を拡大していき、1560年の桶狭間の戦い、1575年の長篠の戦いなど、歴史にその名を遺す合戦で勝利をおさめ、天下統一を目の前にしていました。

その後、織田信長の息子の三法師を跡継ぎに擁立した羽柴秀吉が豊臣秀吉となり、関白太政大臣となり、太閤と称され、天下を握りました。しかし、豊臣秀吉の死により後を継いだ豊臣秀頼には父のような才覚がなく、徳川家康により関ヶ原の戦い、大阪冬の陣、夏の陣で追い詰められ、ついに豊臣家が滅亡し、徳川家康が天下をとり、そこから長く続く江戸幕府を開いたのです。

「泣かぬなら泣くまでまとうホトトギス」という徳川家康を表す歌は有名ですが、じりじりとその時を待ち、一気に攻勢をかけた徳川家康が最後の勝利者と言えるかもしれません。江戸時代についてはまた別の機会に解説します。

織田信長は、戦国時代という時代を抜きにしても、発想が普通とは違い、新しいことにも積極的に取り組み、良いと思うものを取り入れる型破りな戦国大名だったと言えるでしょう。

さまざまな戦いの年号と相手方、楽市・楽座の取り組みなど、織田信長が残した功績は非常に大きいものです。武士として、天下統一まであと一歩、というところまで太く短く生きた織田信長は非常に魅力的な戦国大名です。ぜひ、おこなった政策なども合わせてしっかり理解を深めておきましょう。

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一橋大学卒。 中学受験では、女子御三家の一角フェリス女学院に合格した実績を持ち、一橋セイシン会にて長く教育業界に携わる。 得意科目の国語・社会はもちろん、自身の経験を活かした受験生を持つ保護者の心構えについても人気記事を連発。 現在は、高度な分析を必要とする学校別の対策記事を鋭意執筆中。