歴史問題読解〜日本の他国交流〜

今回は2020年度の慶應義塾中等部の社会の過去問を一部修正して社会の問題の解き方、さらに日本の他国交流について説明していきます。 

問題

 

 日本にはたくさんの国々との交流の歴史があります。特に、古代から中世にかけては、中国や朝鮮の国々との交流が盛んでした。飛鳥時代から平安時代にかけては、①中国にたくさん僧侶や留学生を送って仏教や儒学などを学ばせ、様々な物品と共に日本に持ち帰らせていました。②平安時代の中頃に中国の王朝との交流は中断されましたが、室町時代には幕府が再開させました。更に、琉球やアイヌ、ヨーロッパの人々との交流や貿易に力を入れる者も現れました。また東南アジアの国々に多くの日本人が移り住む姿も見られました。ところが江戸時代になると、③幕府によって外国との交流が次第に制限されるようになりました。それでも例外的に幕府が交流を認めていた国もありました。しかし江戸時代末期になると、欧米列強からの開国を求める圧力が高まり、その方針を変えざるを得なくなりました。④日本は、自国にとって不利な条約を列強との間に結んだため、条約を改正して列強と対等な関係を築くことを目標に、近代国家を目指す道を選びました。

問1

下線部①について、遣唐使として中国に渡り、その後日本に帰国できなかった人物を選び、数字で答えなさい。

1、阿倍仲麻呂
2、小野妹子
3、鑑真
4、行基

【解答】1、阿倍仲麻呂 

【解き方】
阿倍仲麻呂は奈良時代、吉備真備らとともに遣唐使として入唐し、玄宗に仕えました。鑑真に会い、渡日をすすめたのも阿部仲麻呂でした。唐代の文人らと交流し、名をあげました。

あまの原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも
(古典文学全集『古今和歌集』)

唐に渡り、帰れない故郷のことを思い、阿倍仲麻呂が詠んだ和歌です。 

小野妹子607年に初の遣隋使として大陸に渡りました。遣唐使ではありません。また、日本に帰国しています。

鑑真中国・唐代の高僧です。戒律を伝えるため、日本に渡ろうとするも何度も災難に遭い、失明してもなお渡日を諦めず、6度目にやっと渡日しました。759年に唐招提寺を創建し、763年に同寺で亡くなりました。

行基は奈良時代の僧ですが、入唐はしていません。民間に向け仏教の教えを説いていました。また、聖武天皇の大仏造営に大きな貢献しました。

問2

下線部②について、中国の王朝との交流を中断するよう提案じた人物を漢字で答えなさい。

【解答】菅原道真 

【解き方】 

平安時代の文人。宇多天皇・醍醐天皇に重用されました。遣唐使として選ばれましたが、唐が政変で不安定な状況であったことや、命がけで唐に学びに行く必要性に疑問を感じていた菅原道真は894年遣唐使停止を天皇に提言しました。その後蔵人頭から右大臣にまで昇進しますが、政変に巻き込まれ、藤原時平の讒言にあって太宰府に左遷させられます。 

左遷させられた太宰府で死にますが、その後朝廷で落雷による不審死が相次ぎ、菅原道真による祟りとおそれられ、京都の北野天満宮に祀られます。後世には学問の神として全国的に信仰されるようになりました。 

問3

下線部③について、次のできごとを古い順に並べたときに、3番目のものを選び、数字で答えなさい。 

1、オランダ商館を出島に移設した
2、全国に禁教令を出した
3、ポルトガル船の来航を禁止した
4、日本人の渡航・帰国を禁止した

解答】3、ポルトガル船の来航を禁止した 

【解き方】
鎖国の歩みを今一度確認していきましょう。

1609 オランダ人に通商許可
1612 幕府、直轄領に禁教令
1613 イギリス人に通商許可。(2)全国に禁教令
1614 宣教師・高山右近らを海外に追放
1616 中国船を除く外国船の来航を平戸・長崎に制限
1622 長崎で宣教師・信徒らを処刑(元和の大殉教)
1623 イギリス、平戸商館を閉鎖して退去
1624 スペイン船の来航を禁止
1631 奉書船制度始まる
1633 奉書船以外の海外渡航禁止
1634 海外との往来や通商を制限
1635 (4)日本人の海外渡航および帰国を前面禁止
1637 島原の乱(〜38)
1639 (3)ポルトガル船の来航を禁止
1641 (1)オランダ商館を出島に移す

問4

下線部④について、次の(1)(2)の問いに答えなさい。 

(1)幕府は、日米修好通商条約とほぼ同じ内容の条約をオランダ、ロシア、イギリス、[ ]と相次いで結びました。[ ]に当てはまる国名を答えなさい 

【解答】フランス 

【解き方】
日米修好通商条約締結後、同様の条約をオランダ、ロシア、イギリス、フランスと結び、これを安政の五カ国条約といいます。

(2)日米修好通商条約の締結より前のできごとを選び、数字で答えなさい。
1、福沢諭吉が江戸に蘭学塾を開く
2、福沢諭吉が大坂の適塾で学ぶ
3、福沢諭吉が『学問のすゝめ』を著す
4、福沢諭吉が咸臨丸で渡米する

【解答】2、福沢諭吉が大阪の適塾で学ぶ 

【解き方】
日米修好通商条約が締結されたのは1858年です。

福沢諭吉の年表を見ていきましょう。 

1835年12月12日 豊前中津藩藩士の家に生まれる
1855年 (2)大坂の緒方洪庵の適塾に入門、学び始める
1858年 (1)江戸に蘭学塾を開く
1860年 (4)幕府の軍艦咸臨丸に乗り渡米
1862年 幕府の遣外使節に随行し、欧州各国の歴史や思想を学ぶ
1866年 『西洋事情』を著す
1867年 幕府の軍艦受取委員としてアメリカを視察
1868年 塾を芝新銭座に移し、名称を慶応義塾とした
1872年 (3)『学問のすゝめ』を著す
1875年 『文明論之概略』を著す

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