【中学受験】古代の社会を整理しよう~奈良時代①

古墳時代、飛鳥時代と、古代の歴史についてまとめてきました。少しずつ年号なども増え、覚えることも増えてきましたね。

歴史なんてなぜ学ぶの?と質問してくる受験生の方は実は少なくありません。歴史はすでにおわったできごとなのに、わざわざたくさん覚えて、何の役に立つのだろう、と単純に思ってしまうわけですね。

しかし、考えてみてください。国語の問題でも歴史や文化についてのテーマを扱った文章は良く出題されますし、社会の政治の問題でも、歴史を経ていまの形になっています。どういうできごとがきっかけで、なぜいまの形に移り変わってきたのか、ということを理解できていなければ、現代のできごとについての理解も進みません。だからこそ、歴史、つまり日本人が時代ごとに考えだし、作ってきた社会の枠組みについて理解しておくことはとても大切なのです。中学入試で歴史のウエイトが高いのはそういう理由もあります。

とはいえ、だいぶ前に学んだ古代の歴史については知識が抜けていたり、混乱したりしがちですよね。近現代史を覚えるのに忙しくておろそかになりがちなのが古代の歴史ですが、いまの日本を形作った大切な時代だということを忘れてはいけません。近現代史に関する問題でも、古代の歴史の知識が関連してくることも少なくないので、早いうちにしっかり押さえておきましょう。

今回は、奈良時代のその1です。この時代になると、法律に基づいた政治がおこなわれるようになります。現代でも、国会が法律を作り、私たちは法律に基づいて日常生活を送りますよね。ここでは、まず非常に重要な「律令政治」について、その仕組みと、都が平城京に移された当時について、しっかりとまとめておきましょう。

律令政治は政治の変化ののはじまり

飛鳥時代のスターのひとり、中大兄皇子は中臣鎌足とともに、蘇我氏を滅ぼし、天皇中心の政治体制を作り上げました。彼らが目指していた天皇中心の政治を実現するために非常に重要な役割を果たしたのが、中大兄皇子の政治のあと、701年にできた「大宝律令」という仕組みです。

飛鳥時代に起こった壬申の乱では、中大兄皇子の弟の大海人皇子(天武天皇)と、息子である大友皇子が後継者争いを繰り広げ、結果として大海人皇子が勝利し、天武天皇になりました。大宝律令は、701年に制定されましたが、この制定に大きな役割を果たしたのは、天武天皇の皇子のひとりである「刑部親王」(おさかべしんのう)と、中臣鎌足の子どもである「藤原不比等」(ふじわらのふひと)です。藤原不比等は、のちの藤原政権の始祖となった人なので、人物名はしっかり押さえておきましょう。

701年に制定された大宝律令は、日本で初めて作られた法律です。大宝律令の「律令」ということばの意味は、「法律」や「刑罰」を指します。「律」は、中国の唐の政治をモデルにして作られました。当時中国をおさめていた唐は政治においても文化においても中心的存在でした。日本は、その後も唐の政治を参考にして、大宝律令に基づいた「律令政治」がおこなわれるようになったという流れは知っておきましょう。

律令政治のルール

大宝律令が制定されてからおこなわれるようになった「律令政治」は、現代の法律に基づく政治の基本ともいえる政治体制です。では、律令政治の具体的なルールはどういうものだったのでしょうか。重要な制度についてまとめておきましょう

大宝律令に基づく統治システム

当時、都では、大宝律令をもとにした「二官八省」に分けられた細かい役職が貴族階級に与えられていました。いわば、中心にいた天皇や大臣などからそれぞれの役割が与えられ、実際に二官八省が政治をおこなうという形を採っていました。

中央の政治はこのような形でしたが、地方については、「国」「郡」「里」に分けられ、都から派遣されてくる貴族である「国司」、地方に住んでいて力を持つ豪族を「郡司」、有力な農民を「里長」が任命されて、それぞれが立場に応じて政治を任せる仕組みを採っていました。

土地制度

土地制度は、国を形作る基本ですが、飛鳥時代に中大兄皇子が出した「改新の詔」(かいしんのみことのり」で示された政治改革が、この時代には正式なルールとして採用されました。具体的な内容は、いかの2点です。

公地公民:天皇や豪族が持っていた土地や人民は、全て国家のものとする

班田収授法:戸籍をつくり、それに基づいて6歳以上の男女に「口分田」(くぶんでん)を与える

口分田とは、一定の面積の田んぼのことで、それを与えて稲作を指せたのです。農民は、口分田をもらったら、稲作をおこない、税を納めなければなりませんでした。しかし、税の負担が非常に重く、6年間で返上しなければならないということもあり、口分田については否定的な農民が多かったのです。

税制

農民は口分田を耕し、稲作をおこなって税をおさめていましたが、当時の税はそれだけではありませんでした。当時の税には以下の3種類がありました。これは内容も含めてしっかり整理しておきましょう。

「租」:収穫した「稲」の約3%を国司に納める

「庸」:都で働く代わりに、「布」を都に納める

「調」:「地方の特産物」を都に納める

3種類を合わせて当時の税は「租庸調」と言われます。それぞれに負担すべき内容は異なりますので、難関校などで知識の正確さを見るために出題されることがあります。しっかりワンセットで覚えておきましょう。

特に負担が大きかったのは「庸」と「調」

「租」は稲の3%を地方の国司に納めるものだったので、それほど大きな負担にはなりませんでした。反対に、非常に負担が重かったのは、「庸」と「調」です。内容もさることながら、都に住んでいなくても、どれだけ遠くに住んでいても、布や地方の特産物を、奈良の都まで運ばなければならなかったからです。

当時は現代のように車や電車といった移動手段がありませんでしたから、住んでいる場所から都まで徒歩で往復しなければなりませんでした。時間がかかるだけでなく険しい道を歩かなければならず、都にたどり着く前に亡くなってしまった農民も少なくなかったのです。

雑徭(ぞうよう)

「租庸調」以外に、「雑徭」(ぞうよう)という仕組みもありました。これは、年間に60日以内、国司のもとで強制的に働かされる、という内容です。強制的に働かされるというと重労働のように思えるかもしれませんが、実際の仕事の内容は雑用に近かったと言われています。しかし、ただ働きだったので、自ら望まないのに強制的に働かされ、命令されるだけでなく収入ももらえないなど、農民にとっては非常に過酷な制度だったと言えるでしょう。60日といえば約2か月です。稲作をおこなったり、ほかに税をおさめたりしなければならないのに2か月もただ働きしなければならなかったので、そういう状況を悲しんだ歌が当時の歌集にも残っています。

男子の戸籍を女子にすることもあった!

「租庸調」の税の負担には、男女の間で差がありました。どのような差があったのでしょうか。

・「租」:男女ともに納める。しかし、口分田を多くもらえる男子の方が負担は大きかった

・「庸」:男子のみに課された

・「調」:男子のみに課された

実は、口分田は6歳以上の男女に与えられましたが、税負担は一律平等というわけではありませんでした。税の負担だけでなく、律令政治においては、男子がより大きな負担を強いられていたのです。負担が大きければそれから逃れたいものですよね。そのため、戸籍を登録するときに、性別を男子ではなく女子とし、性別をごまかして税負担を減らそうとしたケースが多かったと言われています。当時の戸籍では、女子が9割を占めていたとも言われています。非常にいびつなバランスですが、それだけ男子の負担が重く、逃れたい農民が多かったということですね。

男子には兵役の義務もあった

大宝律令のもとでは、男子に限って「兵役の義務」が定められていました。兵役は、その役割によって、2つに分類されていたのです。

「衛士」(えじ):都を守る兵士。任期は1年間。

「防人」(さきもり):九州を守る兵士。任期は3年間。

唐や新羅の連合軍に日本と親しい百済が滅ぼされたという経緯もあり、白村江の戦いでぼろ負けしてしまったという苦い経験から、特に「防人」は重視されていました。九州は、中国など大陸から敵がわたってきやすい場所だったため、警備を強化する必要があったのです。そのため、防人の任期は3年間と長く、特に強いベテランの兵士を集めたと言われています。九州の防御は、当時の調停にとって死活問題と考えられていたのです。

平城京遷都で奈良時代が本格的に始動

奈良の時代の都といえば、「平城京」ですよね。都が平城京に移されたのは、710年のことでした。当時の天皇は、女性天皇であった元明天皇(げんめいてんのう)です。元明天皇は、中大兄皇子(天智天皇)の娘であり、異母姉妹であった持統天皇の皇子と結婚していました。持統天皇の妹であり、お嫁さんだったのですね。結婚した皇子が亡くなったため、元明天皇が天皇となったのです。

平城京に都を移した710年こそが、奈良時代が始まった年です。奈良時代は、都が平城京から平安京に移る794年まで、80年以上続きました。710年はキリが良い数字ですね。こういった数字は、それから何年後、といったような年号に関する問題も出題されるので、年号とセットでしっかり覚えておきましょう。

当時の都の生活

平城京は、唐の都である「長安」をモデルにつくられたと言われています。建物には白い壁が使われ、赤い柱が建てられていたなど、華やかな都であった様子が記録にも残っています。

そして、この時期に忘れてはならないのが、708年につくられた「和同開珎」(わどうかいちん)という硬貨が作られたことです。それまでは物々交換で生活を送っていた民からすると、ものがお金に代わるということの意味があまりよく理解されず、それほど流通しなかったと言われています。

当時の地方での生活

都では、華やかな平城京で貴族中心に生活が送られていましたが、地方の生活状況は貧しく、大変なものでした。税の負担もあり、地方の農民は日々の暮らしにも事欠くような苦しい生活を送っていました。

性別を女子としてごまかし、税の負担を逃れようとしたケースが多かったという解説をしましたが、結局のところは発覚してしまいます。税の負担から逃れるため、口分田を捨てて逃げだす農民(流民)が続出し、お坊さんになる農民も少なくなかったと言われています。

こうした地方の悲惨な様子は、万葉集の中に収められている歌にも表れています。山上憶良(やまのうえのおくら)がよんだ「貧窮問答歌」(ひんきゅうもんどうか)には、当時の農民のつらい生活がうたわれています。

その内容は、わらを敷いた竪穴住居で暮らしている農民は、毎日の食べ物もなく、ご飯を蒸す「こしき」もクモの巣だらけの悲惨な状況だった。おびえながら寝ている家族のもとには、「働け!」「税をおさめろ!」と里長がムチをたたきながら取り立てに来る、といったものでした。

貧窮問答歌とは、なぜこのような生活をしなければならないのか、という農民の率直な苦しみをうたった和歌として有名です。作者とともに名前をしっかり憶えておきましょう。万葉集は有名な和歌集ですが、いまの元号の「令和」は万葉集から引用されています。万葉集繋がりで奈良時代の知識を問われることもあるので、しっかり和歌集の名前も押さえておきましょう。

奈良時代で重要なのは税の仕組み

飛鳥時代に中大兄皇子によってはじめられた天皇中心の政治は、奈良時代にかけて律令政治という形で法治国家として日本が発展していく土台でした。法律に基づいて政治がおこなわれるというのは、近代国家では不可欠な要素です。そういう意味で、律令政治は非常に重要な役割を果たしていました。

しかし、一方で、農民たちは重い税の負担にあえぎ、華やかな都の生活とはかけ離れた苦しい生活を強いられていた、ということを忘れてはいけません。税のシステムがどのようなものであったか、覚えること自体はそれほど多くはないですが、混乱しやすいので、名前と内容を一致させることができるようにしておきましょう。また、社会でも漢字指定が増えているので、少し難しいものでも、固有名詞は特に「漢字で」書けるようにしておきましょう。

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