【中学受験】意外と大切な弥生時代の知識を復習しよう

受験生の皆さんは、すでに歴史についてはカリキュラムを終えているでしょう。ですが、その内容はすべて正確に整理し、理解できているでしょうか。歴史は範囲が広く、最初のころに学んだ内容は忘れてしまっている受験生は非常に多いです。最初のころに学ぶのは古代、日本の文化の夜明けといった時代ですが、断片的な知識は覚えていても、その時代がどういう時代なのか、現代の日本に至るまでにどのような役割を果たした時代なのかといったことまで考える余裕は当時もなかったでしょうし、これからもなかなかそのような時間をとるのは難しいでしょう。

しかし、最近の社会の入試問題では、ひとつのテーマに対して、あらゆる時代の知識を問う問題や、昔の道具といまの道具を比較させ、人類がどのような進歩を遂げてきたのかを問うような問題が頻出です。ですが、なかなか歴史の範囲全体を振り返る余裕がないと、せっかくの1問を落としてしまい、それが合否を分けることにもなりかねません。

今回は、そんなおろそかになりがちな古代のうち、弥生時代の知識をまとめてみます。ここで解説するポイントを押さえておけばテキストの内容も思い出せるようになりますよ。知識の整理に役立ててください。

弥生時代は稲作が始まった重要な時期

弥生時代というと、皆さんは何を思い出しますか?弥生時代の大きなトピックといえば、何といっても「稲作」が始まった時期だということです。九州から本州にまで稲作が広がり、盛んになったことは、現在のわれわれの生活とも密接に関係する重要なことですよね。稲作は、約2500年前に中国や朝鮮半島から日本に伝わってきたと言われています。

また、稲作の様子がわかる遺跡についても抑えておきましょう。静岡県にある登呂遺跡(とろいせき)からは、水田があったあとが発見されています。弥生時代といえば弥生土器も重要ですが、土器に米のもみ殻がついていたものもあったので、弥生時代から米作りがおこなわれていた、ということがよくわかります。

弥生土器の特徴

弥生土器は、なぜ弥生土器と呼ばれるのか覚えていますか?弥生土器は、現在の東京都文京区弥生で発見されたため、弥生土器、と名付けられたのです。東京大学の近くですね。弥生土器の前には縄文土器が使われていたことは覚えているでしょうが、縄文土器と弥生土器の違いについてはしっかり押さえておきましょう。縄文土器は縄目の文様が特徴的で、分厚くてもろかったですが、弥生土器は薄くて硬く、文様があまりない、という特徴があります。入試でも、縄文土器と弥生土器を比較する問題は出題されるので、しっかり押さえておきましょう。

<縄文土器と弥生土器の違い>

  • 縄文土器:縄目の文様・分厚い・もろい
  • 弥生土器:シンプル・薄い・かたい

縄文土器に比べ、弥生土器がより実用的で使いやすくなった、つまり進化した土器だったということを覚えておきましょう。

稲作の中心は「穂首刈り」だった

弥生時代におこなわれていた稲作は、水田で稲を育てて「石包丁」で稲を刈り取るというものでした。石包丁は、意志でできているので、現在私たちが使うような包丁のようなスパッとした切れ味はありませんでした。こすりつけるようにして起こる摩擦の力で、稲の根の部分ではなく首の部分を切っていたと言われています。これが「穂首刈り」です。現代の稲作では、穂首ではなく稲の根の部分を刈る「根刈り」を行いますが、それは鉄の窯が使われるようになってからだということも知っておきましょう。

石包丁の特徴は、以下の2点なので覚えてしまいましょう。

  • 刀状の石の穴にひもを通して手にくくりりつけて使う
  • 現代の刃物とは違い、切れ味は良くなく、稲穂をこするようにして収穫に使う

高床式倉庫の「仕掛け」

稲を刈り取ったら、保存する必要がありますよね。そこで使われたのが「高床式倉庫」です。なぜ高床式である必要があったのでしょうか?理由のひとつは、風通しを良くして、地面からの湿気を防ぎ、稲がくさらないようにすることです。もうひとつの理由は、ねずみの撃退でした。柱の途中には「ねずみ返し」がついていて、ねずみが倉庫に侵入することを防いでいたのです。

「高床式倉庫」という用語は受験生なら知っていると思いますが、「なぜ高床式なのか」という理由まで抑えておくと、理由を問うような入試問題が出たときにも対応できます。ねずみ返しということばを知っていると、「おっ、理由をきちんと考えているな」とわかってもらえますよ。何より、理由がわかると理解が進みます。

「ムラ」「クニ」はどうしてできたのか

稲作が始まったばかりのころ、技術的には試行錯誤の状態が続いていました。稲作は誰でもできる簡単なものではなかったのです。そのため、上手に稲作ができる人もいれば、下手な人もいたのです。これは、現代の農業でも同じですよね。

当然、稲作が上手な人はたくさんの稲を収穫でき、下手な人はあまり収穫できませんから、蓄えられる稲の量に差が出てしまいます。そこで生まれたのが「貧富の差」です。稲作をするなら上手にしたいというのが人間の感情ですから、稲作が上手な人に教えてもらおうと、上手な人のもとにみんなが集まってきます。そこでできたのが「ムラ」です。「ムラ」という集団ができると、より勢力を拡大するためにムラどうしで争いが起こり、勝ったムラが負けたムラを吸収してさらに大きくなり、さらに「クニ」という大きな集団になっていったのです。 

戦いもあった弥生時代

弥生時代というと、平和なイメージがあるかもしれません。もちろん規模は現代の戦争のように大きなものではありませんでしたが、弥生時代にはムラやクニをめぐって戦いもあったと考えられています。

たとえば、佐賀県の吉野ケ里遺跡には、「物見やぐら」があります。また、「環濠集落」(かんごうしゅうらく:敵の侵入を防ぐお濠)が遺跡の周りを囲んでいることから、戦いがあったこと、また戦いに対する備えをおこなっていたことがわかります。遺跡からは、首のない人骨や、やりがささった頭蓋骨も発掘されていることから、かなり激しい戦いがあり、命を落とした人もいたということがわかります。稲作=農業=平和、といった短絡的な時代ではなかったということですね。

金属器が伝わったのも弥生時代

弥生時代には、稲作だけでなく、大陸から青銅器や鉄器などの金属器が伝わったことも大きな特徴です。青銅器には、銅剣や銅ほこ、銅鏡、銅鐸(どうたく:釣鐘のような形の青銅器)などがあります。これらについてはテキストに必ず載っていますが、形などは資料集でしっかり確認しておきましょう。

青銅器の中でも銅鐸が何に使われていたのかははっきりとはわかっていませんが、表面を見ると、高床式倉庫など、当時の様子が描かれていることがわかります。青銅器は、主に豊作を願う祭りなどのときに使われる祭器として使われていたと言われています。

鉄器は青銅器よりも固く強かったため、農具としてだけでなく、武器としても使われていました。金属器が大陸から伝わったことにより、稲作などの農業の効率が飛躍的にアップしました。そのため、生産力が上がったと考えられています。また、鉄器が武器として使われたことにより、戦いがさらに激しく大規模になったのですが、それだけ兵力の差にもつながり、国土の統一が早まったとも言われています。

金属器と一口に言ってもいろいろな使われ方があり、それによって国土の再編がおこなわれていたというのも弥生時代の大きな特徴ですので、押さえておきましょう。

まとめると、弥生時代は稲作が伝わり、貧富の差が生まれました。それによりムラができ、争いがおこったりしてクニという大きな集団ができました。金属器が伝わったことにより農業の効率が上がり、戦いも激しくなったのです。時代の流れをイメージすることで、昔の人の生活に思いをはせると、理解がぐんと深まります。時代ごとに特徴的な出来事をまとめておくと、コンパクトに知識を理解できるだけでなく、歴史の面白さがわかりますよ。

弥生時代の様子を知る「3つの歴史書」

弥生時代のようすが書かれている歴史書には3つあります、これらは中国の歴史書ですが、3つの名前は知っているでしょう。

  • 「漢書」地理志
  • 「後漢書」東夷伝
  • 「魏志」倭人伝

なぜ日本の文書が残っていないのでしょうか?それは、弥生時代にはまだ日本には文字がなかったからです。そのため、交流のあった中国の歴史書が記録として重要なのです。中国ではすでに文字が発達しており、時代ごとの文書が作られていました。「漢」「後漢」「魏」はすべて中国の国名です。中国の歴史書を調べると、弥生時代当時の日本のようすが書かれています。

これらの中国の歴史書によると、日本は当時「倭(わ)」と呼ばれていたようです。日本から中国に送られた使節が「わ」と言っていたから、日本を「倭」と呼ぶようになったという説もあります。面白いですね。

「漢書」地理志

では、3つの文書についてそれぞれ見ていきましょう。最初は「漢書」地理志(かんじょちりし)です。これまでの学習では、文書名だけを頭に入れていたかもしれませんが、できた順番や簡単な内容のポイントを押さえておきましょう。

紀元前の中国には「漢」という王朝があり、「漢」の時代に書かれた歴史書が「漢書」というわけです。そして、漢書はいくつかの文書からできていましたが、そのなかに「地理志」という項目があり、日本について、「楽浪郡(現在の挑戦・平壌付近)の海のかなたに、倭人が100あまりの国に分かれて住んでいる」という記述があります。

この文を覚える必要はありませんが、ポイントを押さえましょう。この文書のポイントは「日本には当時100あまりの国があった」ということです。平壌は、現在の北朝鮮の首都ですが、当時、朝鮮半島は中国の漢が直接収めていたようです。また、「地理誌」という項目に書かれていることも合わせて覚えておきましょう。

「後漢書」東夷伝

次に書かれているのが、「後漢書」東夷伝(ごかんじょとういでん)です。「漢書」地理志が作られた漢王朝は紀元5年に滅ぼされましたが、、その後「後漢」という王朝が登場します。「漢」のあとにできたから「後漢」と呼ばれるわけですね。「漢書」地理志の漢を「前漢」と区別して呼ぶことは知っておくと良いでしょう。

後漢の時代に書かれた「後漢書」の「東夷伝」という項に、後漢と日本が交流していたことが記録されています。「1世紀の半ば(西暦57年)、倭の奴国(なこく)の王が後漢に使いを送ってきたので、皇帝が金印を授けた」という内容です。ここから、後漢のご機嫌窺いのために、倭の奴国の使いが貢物を持ってやってきた、それに対して後漢の皇帝が金印を与えた、というのがポイントです。

金印は、金でできたはんこのことです。そこには、「漢委奴国王」(かんのわのなのこくおう)と彫られていました。後漢の皇帝は、奴国の王に金印を渡して、「お前は漢の手下の奴国の王だってことを認めてやろう」と伝えた、というわけです。

この金印は、1784年に福岡県の志賀島(しかのしま)で発見されました。そのため、奴国は日本の北九州のあたりにあった国だとされています。また、よく受験生がやりがちな間違いが「倭」と「委」の漢字の間違いです。国は倭国ですが、金印に彫られていたのは「漢『委』奴国王」だということは確認しておきましょう。

「魏志」倭人伝

3つ目が、「魏志」倭人伝(ぎしわじんでん)です。3世紀ごろの中国は「魏」「呉」「蜀(しょく)」という3つの国に分かれており、「三国時代」と呼ばれていました。「三国志」という本で有名ですが、これはもともと、魏、呉、蜀のそれぞれの国で書かれた「魏志」「呉誌」「蜀誌」をまとめたものだったのです。

三国時代の覇者は「魏」でしたが、その時代に書かれたのが「魏志」です。「魏志」には、倭人のことが書いてある項があり、それが「倭人伝」と呼ばれ、日本の記録が残っています。「以前、倭には100あまりの国があった。現在は30あまりの国があり、女王がまとめている」という内容です。

ここで書かれている女王とは、有名な邪馬台国の卑弥呼です。卑弥呼は占いなど、神の力を後ろ盾にして国をまとめていましたが、その顔を見たことがある人はほとんどいなかったそうです。謎に包まれた女王だったこともあり、今でも邪馬台国がどこにあったのか、卑弥呼は実在したのか、ということが論争になることもあります。

卑弥呼は、魏に使いを送り、銅鏡100枚や金印をもらったとされています。このときもらった金印には、「親魏倭王」と彫られていました。「親魏倭王」というと難しいですが、要するに「あなたは、私たち魏と親しい倭の王様です」と認められた、と思えばわかりやすいですよね。

「魏志」倭人伝には記録はあるものの、現在も邪馬台国の場所ははっきりとわからず、金印も発見されていません。ときどき新聞などで邪馬台国は奈良県にあったのではないか、いや、佐賀県あたり、などと報道されていることがあるので、知っておきましょう。解明されるとまたひとつ興味がわきますね。

入試で出やすいポイントまとめ

弥生時代について、中学入試で出やすいポイントはやはり、3つの歴史書についてです。中学入試に備えて押さえておきたいポイントをまとめておきましょう。

  • 「漢書」地理誌:日本には当時100あまりの国があった
  • 「後漢書」東夷伝:日本の奴国の王が、漢の皇帝から「漢委奴国王」の金印をもらった
  • 「魏志」倭人伝:当時の日本には30あまりの国があり、その中に卑弥呼という女王がいて、占いなどで国(邪馬台国)をおさめていた。卑弥呼は魏の皇帝から「親魏倭王」という金印や銅鏡を100枚もらった

「倭」と「委」の漢字の間違いなどについては、克服しておきましょう。3つの地理書は、呪文のような漢字の文書ですが、意味を考えながら覚えると覚えやすいです。また、最近の社会の入試問題は漢字指定が尾いので、意味を考えながら漢字で書く習慣をつけておきましょう。

これら3つの歴史書は、歴史の勉強をはじめたときに最初に苦戦する漢字かもしれません。ですが、ここでお伝えしたそれぞれの時代のポイントを押さえながら、それぞれの文書の名前の意味を思い出して練習しましょう。

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一橋大学卒。 中学受験では、女子御三家の一角フェリス女学院に合格した実績を持ち、早稲田アカデミーにて長く教育業界に携わる。 得意科目の国語・社会はもちろん、自身の経験を活かした受験生を持つ保護者の心構えについても人気記事を連発。 現在は、高度な分析を必要とする学校別の対策記事を鋭意執筆中。