【中学受験】古代の社会を整理しよう~奈良時代②

中大兄皇子による大化の改新を経て、日本では律令政治がおこなわれるようになりました。現代の日本でも、法律に基づいて政治がおこなわれていますよね。日本ではじめて法律に基づく政治がおこなわれたのが、前回まとめた奈良時代初期のことです。

奈良時代には、土地制度や税の制度も整備されてきて、日本も国家らしくなってきました。そして、天皇中心の政治がおこなわれていましたが、律令制度や役人登用制度によって、政治をおこなう役人(主に貴族)が力を持つようになってきたという経緯から、とくに藤原氏の力が強くなってきたのです。

そういう時代背景がある奈良時代の天皇のなかで、必ず押さえておきたい天皇は誰でしょうか。皆さんご存知だと思いますが、奈良時代の政治や文化を考えるうえで一番有名なのは聖武天皇でしょう。奈良時代の天皇といえばまず聖武天皇を思い起こすことが出来るようにしておきましょう。

聖武天皇は、奈良時代の政治や文化に特に大きな影響を与えた人物のひとりです。特に仏教を手厚く保護し、「仏教による政治」をおこなったことでも知られています。今回は、聖武天皇の時代を中心として、奈良時代で押さえておきたいポイントを押さえていきましょう。

聖武天皇は仏教の力を頼った天皇

聖武天皇といえば、のちほど説明する東大寺の大仏(奈良の大仏)を建立したことで有名ですね。聖武天皇は、仏教に対する信心が非常に強く、政治においても仏教の力を頼ったことで知られています。では、なぜ聖武天皇は仏教によって世の中をおさめようとしたのでしょうか。

その原因のひとつに、当時疫病が流行したり、地震などの天変地異など、不吉なことが相次いで起こったことが挙げられます。民は飢饉に苦しみ、たくさんの人が亡くなった時代でしたが、そういったことが起こる時代は、天皇に徳がないから、とその当時は思われていたのです。

聖武天皇の皇后は「光明皇后」(藤原不比等の娘)です。光明皇后は、天皇家以外から初めて皇后になったという意味でも重要な存在の女性です。その光明皇后の兄たち、藤原四兄弟とよばれていたのですが、4人とも相次いで疫病で亡くなるというできごとがありました。その原因となった疫病が「天然痘」(てんねんとう)です。天然痘は致死率が高く、大流行したので、当時の人口の5人にひとりが天然痘で亡くなったと言われています。

藤原四兄弟の相次ぐ死は、「長屋王」(ながやのおう)のたたりだともうわさされていました。長屋王は、天武天皇(大海人皇子)の孫で、非常に教養があり、徳の高い人物として尊敬を集めていましたが、藤原氏の政権奪取を狙った藤原四兄弟によって謀反の疑いをかけられ、自殺したと言われています。のちに無実だったのではないかと言われ、陥れた藤原四兄弟にとりついたため、相次いで天然痘にかかり亡くなったと言われることがあります。

自分の皇后の兄弟が4人も相次いで(1年の間に4人とも亡くなりました)亡くなったことで、彼らが独占していた朝廷の高官がくしの歯が抜けたような状態になり、世の中は混乱します。聖武天皇は非常に心優しく、政治家としては藤原氏に操られていた部分がありましたが、天然痘により乱れてしまった世の中を何とかしようと考えていました。

そこで聖武天皇が頼ったのが、仏教です。聖武天皇は、仏教の力によって天然痘の流行を押さえ、民心を取り戻して平和な世の中をっ実現したいという理想主義者でもあったのです。もっとも、聖武天皇は仏教に頼りすぎたため、生活に困った民の中には正式に仏門に入ることなく、勝手にお坊さんになったという人も少なくなかったので、実質的な政治として仏教に頼り過ぎた聖武天皇の評価は分かれるところです。このような状況も踏まえたうえで、聖武天皇は仏教頼みの政治をおこなったととらえておくと良いでしょう。

聖武天皇は妻の光明皇后と一緒に、仏教に関する事業を次々とおこないました。具体的に何をしたのかまとめておきましょう。

東大寺、国分寺・国分尼寺

聖武天皇は、奈良の都に東大寺を建立し、さらに国ごとに国分寺と国分尼寺(こくぶんにじ)を建立せよ、という命令を出しました。仏教を国中に広めるためには、まずは仏教の教えを先導するお坊さんが修行をする寺院が必要だと考えたのです。東大寺と国分尼寺には特徴があるので押さえておきましょう。

・東大寺:奈良の都に建立された、全国の国分寺・国分尼寺の中心となった寺院。全国にある国分寺・国分尼寺の総本山だったため、「総国分寺」とも呼ばています。
・国分尼寺:女性の僧(尼さん)が修行をする寺院。女性でも仏教の教えを伝えるために出家することがありました。

行基の力を借りて大仏を建立

東大寺には、いまでも当時に建てられた大きな大仏があります。「東大寺の大仏」として有名です。旅行などで見たことがあるという受験生の皆さんも多いのではないでしょうか。東大寺の大仏はその大きさもあり、多くの人でと長い期間を費やして建立されました。約260万人の人手を使い、じつに10年もの年月をかけて完成されたのです。

しかし、大仏を建立する当時、人手が必要だったにもかかわらず、農民のうち大仏づくりを手伝おうという人はほとんどいませんでした。日々の生活にも事欠くのに、重労働である大仏の建立にまで手が回らないのは当然と言えば当然でした。前回の記事でご紹介しました、当時、農民たちにかけられる税の負担は日所に大きいものでした。そのため、大仏づくりに協力する余裕はまったくなかったのです。ですが、大規模な工事には人手が足りません。

そこで活躍したのが、「行基」(ぎょうき)という僧です。仏教は、どちらかというと身分の高い人のものだった当時において、行基は農民の間に入って仏教の教えを伝える布教活動をしており、鋭い教えで非常に高い人気を得ていました。当時のスーパースターのひとりとして有名です。

農民の間で大きな支持と尊敬を集めていた行基なら、大仏建立のために協力するよう説得できるのではないかと考えられ、大仏を建立するために協力しようと呼びかける役割を託したのです。狙いはあたり、行基の頼みなら、という理由で協力してくれる農民が多く集まってきました。

実は行基は、勝手に辻説法(人が往来する中に出て行って仏教の教えを広めるここと)をおこなうとして、違法な布教をする、言うことを聞かない僧として政府から目の敵にされていたのです。ですが、聖武天皇が仏教の教えに頼り、大仏建立に執念を燃やしていたので、大仏建立のための人出を集めるために駆り出されたわけですね。行基は、このように東大寺の大仏を建立するのに大きく貢献したこともあり、のちに「大僧正」(仏教僧の中で最高の地位)を授けられました。

東大寺の正倉院

東大寺にある正倉院は、宝物殿です。正倉院には、聖武天皇が大切にしていた品々をはじめとして、約1万点もの歴史を感じさせる宝物がおさめられています。

また、正倉院について忘れてはいけないのがその建築様式です。正倉院のつくりは「校倉造」(あぜくらづくり)という建築様式となっているので、ことばとともにどういうつくりなのか押さえておきましょう。正倉院の外壁は三角形の木材のみを組み合わせてつくられているのです。今では何か建物を建てるときはくぎをつかいますよね。ところが正倉院は、くぎを1本も使わずにつくられているのに、現代まで残っているのです。くぎを使わず、木材を組み合わせてつくるという高い技術のため、崩れることなく当時のようすを伝えてくれています。

公地公民制の崩壊

奈良時代当時は、大宝律令による律令政治がおこなわれていました。律令政治のもとでは、当時の農民は、朝廷から口分田(6歳以上の男女に与えられる田んぼ)をもらって、稲作をおこない、収穫した稲のうち約3%を「租」という税としておさめていました。農民に課された税は「租」だけでなく、布を納めるという「庸」、地方の特産物を納めるという「調」もあり、いろいろな税を納めなければならなかったうえ、駆り出されて兵役や労働にもつかなければならなかったため、当時の農民の生活はとても苦しいものでした。

農民たちはこういった税負担などの苦しみに耐えきれなくなり、口分田を捨てて逃げだすようになります。税の負担がどれほど大きかったかがわかりますね。農民が放り出して逃げてしまった結果、口分田は荒れていくことになり、稲作どころか荒れ果ててしまいました。そうすると税収が亡くなってしまうので、朝廷の財政が立ち行かなくなってしまいますそこで、朝廷は法律を定め、対策を打つことにしたのです。

三世一身の法

朝廷が打ち出した対策のひとつめが、723年に定められた「三世一身の法」です。三世一身の法は、口分田の不足を補うためのルールとして定められたのです。ポイントは以下の通りです。

・耕地を新しく開墾した者には、3代まで土地の私有を認める
・荒れた田を整備した者には、1代に限って土地の私有を認める

三世一身の法がつくられたことによって、耕地を新しく開墾する、または荒れた田を整備した人には、何代まで認められるかに差はありますが、土地の私有が認められるようになったのです。当時、土地は国のものでしたから、開墾したり整備したりして土地を自分のものにできるということは画期的だったのです。

しかし、この画期的な考え方は、当時の農民にとってそれほど魅力的ではなかったのです。たとえばひとつめの「耕地を新しく開墾することで私有化できる」というルールにしたがって開墾した場合、3代まで私有地にできますが、1代目の人が長い年月をかけて苦労して新しい土地を開墾したとしても、そこから3代たったら、結局土地を返さなければなりません

結局召し上げられてしまうのでは、大きな石や雑草を取り除き、切り開くという苦労が水の泡になってしまいます。そのため、労力に見合わないと考えられたわけです。

また、当時の人々の平均寿命は現代から考えると比べ物にならないくらい低かったことも原因のひとつです。当時の農民の平均寿命は30歳前後だったと言われています。女性が子どもを産む年齢は、これも今ではあまり考えられませんが、10代半ばころが一般的だったのです。そういう短い平均寿命の中、3代のあいだ開墾した土地を私有化したとしても、100年、200年といった長い期間私有し続けることは現実的にできなかったのです。

苦労して新しい土地を開墾しても、短い期間私有化することが出来るだけで、朝廷に取り上げられてしまうのでは割が合わないと考えられても仕方ありませんよね。また、自分の口分田を耕しながら開墾もするというのは現実的ではありませんでした。そのため、当時の農民は積極的に新しい土地を開墾しようという気力がなかったと考えられています。

このような事情があったので、三世一身の法は、結局ほとんど効果をあげられませんでした。その結果、制定されてから20年後に廃止されます。ただし、まったく土地制度についてルールがなくなったわけではなく、三世一身の法に代わる新しいルールが作られました。それが墾田永年私財法です。

墾田永年私財法

三世一身の法の失敗から20年後、743年に制定されたのが「墾田永年私財法」です。墾田永年私財法とは、耕地を新しく開墾した者に対して、永久に開墾した土地を私有してよい、という内容の法律です。もし新しく耕地を開墾したらそこから3代までしか土地を私有化できなかった「三世一身の法」との違いとして押さえておきたいポイントは、「永久に」土地を私有物にできるという点です。

ただし、墾田永年私財法には致命的な抜け穴がありました。墾田永年私財法のもとでは、権力や身分によって耕地の開墾制限があったのです。そのため、身分の高い貴族や寺院が、農民を雇って新しい耕地を開墾しました。農民を安く雇って土地が自分のものになるのですから、財力のある貴族や寺院なら簡単にできますよね。こういった貴族や寺院のものとなった新しい耕地がどんどん増え、それらの土地は「荘園」(しょうえん)と呼ばれる私有地になったのです。結局得したのは貴族や寺院といったお金がある人たちだったわけですね。

当時「荘園」と呼ばれた私有地は、貴族や寺院が開墾した土地のほか、そこにある建物なども含まれています。荘園ということばは、土地制度の変遷を聞くような問題で良く出題されるので、意味とともに押さえておきましょう。

結果的に公地公民制が崩れた

墾田永年私財法が制定されたことによって、朝廷の力はだんだん弱くなっていきました。本来、律令制度では土地はすべて国、すなわち朝廷のものでした。しかし、三世一身の法、墾田永年私財法の制定によって、朝廷のものだった口分田が減っていき一方で、貴族や寺院が荘園として私有地を増やしていったからです。持っている土地の広さは権力の象徴でした。

奈良時代の最初のルールであった「土地と人は中央の朝廷のもの」という公地公民制は、墾田永年私財法が引き金となって根本から崩れてしまいました。また、聖武天皇以来、仏教を保護する流れができていたため、農民の苦しい生活から抜け出すために正式な儀式を受けず、勝手に僧になる人も増え、土地を耕す農民も減っていったのです。

奈良時代の終わり

代々天皇は男子であり、女性天皇は皇族のなかから、皇子が大きくなるまでのつなぎとして政権を率いることがありましたが、最初から女性天皇になると決まっていた人はそれまでありませんでした。ところが、聖武天皇には息子がいませんでした。生まれたのですが早くなくなってしまったのです。聖武天皇と光明皇后の間にはひとり娘がいました。皇后との間に皇子がいなかったため、その娘が「皇太子」となり、孝謙天皇として即位します。皇后が天皇になったケースはありましたが、皇太子となって天皇になった女性としては孝謙天皇がはじめてです。

孝謙天皇といえば、聖武天皇の娘であるということ以外に、非常に有名な人物が何人もいたことで知られています。たとえば、教育係だったのは吉備真備(きびのまきび)で、この人は遣唐使としても派遣され、孝謙天皇の信頼を得ていました。そして、藤原仲麻呂は孝謙天皇を操り、権力を握って恵美押勝(えみのおしかつ)という名をもらいましたが、天皇にとって代わろうとして反乱を起こし、結局は成敗されてしまいます。

そして何より有名なのは、「道鏡」(どうきょう)という僧の存在です。孝謙天皇は43歳ごろに病気になってしまい、一時危険な状態になりました。そのとき、道鏡という僧が命じられて孝謙天皇の病状回復につくしたのです。それをきっかけに、孝謙天皇は道鏡に対して大きな信頼を置くようになります。孝謙天皇は道鏡が僧であったのに政治に参加させるようになり、権力を与え、道鏡の一族も力を握ります。道鏡は悪僧であるという説が強いですが、天皇が信頼を寄せる人格者だったという説もあり、なぞに包まれています。

ただし、僧が政治に口出ししたことは事実だったので、奈良時代最後の天皇となった桓武天皇は、都を移すことを決意しました。平城京から移された都は「平安京」と呼ばれ、また新たな時代の都となります。桓武天皇が都を移した理由としては、政治に口出しするまでに力を持ってしまった仏教の存在が、天皇中心の政治という基本からすると受け入れがたかったからということが挙げられます。

まとめ

奈良時代は、律令政治がおこなわれるなかで、聖武天皇の行動がきっかけで必要以上に仏教を保護し、政治にまで口を出す僧が現れた時代でした。仏教に頼ること時代は悪いことではなかったのでしょうが、政治の根幹を揺るがすほどだったので、行き過ぎだったことがわかります。

飛鳥時代からの歴史の流れとポイントをしっかり押さえておきましょう。奈良時代の次は平安時代となり、藤原道長など藤原氏の天下となります。また、奈良時代は文化も華開く時代の始まりでもありました。歴史の学習ではできごとの流れとそこに登場する人物をイメージできるかどうかがカギになります。ぜひ、奈良時代がどういう制度のもと政治がおこなわれていたのか、仏教に頼り切ったことが文化にも表れていることなどをイメージし、次の平安時代につなげていきましょう。

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