【中学受験】古代の社会を整理しよう~飛鳥時代②

前回は、古代の社会の歴史について、飛鳥時代その1ということで、聖徳太子がおこなった政治についてまとめました。古代の歴史については、学習した時期がかなり前なので、忘れてしまっている受験生の皆さんも多いのではないでしょうか。

現在のところ、受験学年の皆さんは、受験カリキュラムを終え、総合問題の演習中心の授業を受けたり、自宅学習でも範囲の広い問題に取り組むことが多いでしょう。ですが、社会の場合、範囲が広い総合問題ということは、地理、歴史、公民という分野だけでなく歴史ならさまざまな時代から設問が出題される問題が多いということです。そういった問題を解くときに、基礎知識があやふやだと時間がかかるだけでなく正答率が下がってしまいます。

今年は小学校の夏休みも短く、塾の夏期講習もオンラインなど、通常の受験とは異なる態勢での夏の学習を進めていかなければなりません。そこで重要になるのが、弱点を克服し、いま、自分がやらなければいけないことはなになになのかを意識しながら学習することです。そのためには、これまでに学習してきた単元の理解を優先し、土台となる知識をしっかり理解し、定着させたうえで使いこなすことができるようにすることが必要です。

社会という教科は、「暗記で何とかなる」と思われがちです。そのため、直前期にまとめのテキストで詰め込もうという受験生は少なくありません。しかし、社会の範囲は広く、高い理解度が求められます。直前期に1問1答の問題集で知識を覚えて太刀打ちできるような入試問題はまず出ません。

特に歴史は1回のカリキュラムでひとつの時代を扱うことが多いため、授業を受けても突貫工事になりがちです。そうすると、知識の抜けであったり、なかなか覚えられないところ、できごととできごとの間の流れが理解できず、どの時代のできごとだったのか、それは誰によるものなのか、結果としてどうなったのか、ということを整理することができません。知識が整理されていないと実際の入試問題を解くのはかなりハードルが高くなるでしょう。

歴史の学習をする際には、入試で頻出の近代・現代史の問題に見えても、古代の時代からどのように発展してきたかということを問う問題も意識する必要があります。現代の日本をかたちづくる重要事項ももとはといえば古代に起源があることが多いからです。

このように重要な古代の歴史ですが、秋以降はなかなか振り返ることは時間が取れずに難しい可能性があります。ポイントを凝縮して、早いうちに理解を深め、知識を使えるようにしておきましょう。今回は、飛鳥時代その2として、大化の改新を中心として、中大兄皇子の活躍をまとめます。これを機会にキーマン2人を押さえて飛鳥時代を攻略しましょう。

中大兄皇子と中臣鎌足の最強タッグ

飛鳥時代前半のスターと言えば聖徳太子でした。ただし、聖徳太子は若くして亡くなってしまいます。そうすると、またもや蘇我氏が力を持つことになり、それを倒すために中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)が飛鳥時代の後半にスターとして活躍する、というのが大きな流れなので、まずはそこを押さえておきましょう。

蘇我氏の復活

推古天皇の摂政として活躍した聖徳太子が亡くなったあと、しばらくおさえこまれていた蘇我氏が再び台頭します。聖徳太子が政治をおこなう前は蘇我氏と物部氏の争いが激しかったですが、その後は蘇我氏が天皇家をないがしろにして権力を持ち、天皇はお飾りのような存在にされてしまったのです。

蘇我氏の中心は蘇我馬子(そがのうまこ)でしたが、聖徳太子の死後再び実権を握り、息子の蘇我蝦夷(そがのえみし)、孫の蘇我入鹿(そがのいるか)とともに、豪族が力をもち、天皇家をしのぐほどの権力を持つようになりました。

聖徳太子が目指した政治は「天皇中心」の政治でした。そのため、冠位十二階・憲法十七条・遣隋使の派遣など、さまざまな制度をつくったり外交関係を主導していったのです。しかし、その死後、豪族である蘇我氏が権力を握ったことによって、天皇中心の政治が実現できなくなっていたのです。

蘇我氏を倒せ!中大兄皇子の天下への道と中臣鎌足

蘇我馬子は娘を天皇家に嫁がせるなどして、天皇家と姻戚関係にあったため、天皇家としてもなかなか抑え込めない存在でした。そのためさらに増長した蘇我氏は天皇家をしのぐ生活をしていたと言います。政治も蘇我氏が勝手にいろいろと決めていたので、不満を持つ者もたくさんいましたが、蘇我氏の権力の前になかなか声を上げることができませんでした。

そのような状況を苦々しく思っていたのが中大兄皇子です。中大兄皇子は当時の女性天皇である皇極天皇(こうぎょくてんのう)の皇太子でした。ちなみに皇極天応は舒明天皇(じょめいてんのう)の妻で、舒明天皇が亡くなった後に女性天皇として天皇の位についた人です。

皇極天皇が女性天皇だったことも、蘇我氏がやりたい放題する原因になっていたと言えるでしょう。しかし、皇太子である中大兄皇子は豪族中心の政治ではなく、天皇中心の政治に戻そうと、蘇我氏を倒すことにしたのです。

中大兄皇子の決断を助けたのが、中臣鎌足(なかとみのかまたり)です。亡くなるときに藤原姓をたまわり、藤原鎌足としても知られています。中大兄皇子は中臣鎌足、蘇我氏の一員でしたが蘇我氏の行状を苦々しく思っていた蘇我山田石川麻呂とともに蘇我氏を抑え、ふたたび天皇中心の政治を復活させるべく行動に移します。それが有名な645年の「大化の改新」です。

大化の改新は革命だった!蘇我氏を滅ぼした中大兄皇子

中大兄皇子と中臣鎌足は、朝鮮から日本に使いがきたときの儀式中に当時権力を誇っていた蘇我入鹿(蘇我馬子の孫)を暗殺することを計画し、実行に移します。蘇我入鹿は天皇の前に出ることを理由に剣を入り口で預けていたため丸越しだったので、抵抗することもできず殺されてしまいました。それを悲観した父の蘇我蝦夷は屋敷に火を放って自殺します。これにより、中大兄皇子は蘇我氏一族を滅ぼすことに成功しました。これは一種の革命と言っても良い事件でした。

中大兄皇子と中臣鎌足は蘇我氏を滅ぼし、そこから政治改革がおこなわれます。大化の改新=645年と覚えている人が多いかもしれませんが、大化の改新とは、蘇我氏を滅ぼし、翌年からおこなわれた政治改革までの一連の流れを指します。蘇我入鹿が殺されて、大化の改新が「始まった」のが645年ということなので、しっかり理解しておきましょう。

大化の改新の「大化」とは、元号、それも日本で初めての元号です。現在の元号は令和ですね。元号が代わったタイミングなので、元号に関する問題は中学入試で出題される可能性があります。しっかり押さえておきましょう。

646年に改新の詔を出す

大化の改新という一連の政治的流れののなかで重要なのは、蘇我氏滅亡の翌年646年に出された「改新の詔」(かいしんのみことのり)という宣言です。改新の詔は、中大兄皇子が実現しようとした政治改革の方針をまとめたものです。なかでも、以下の2つは非常に重要なので、内容とともに覚えておきましょう。

<「改新の詔」で示された主な政治改革
・公地公民
・班田収授法

公地公民

公地公民とは、天皇や豪族が持っていた土地や人民を、すべて公=国家のものとする、という意味です。蘇我氏がなぜ天皇家をしのぐほどの権力を持ったかというと、土地や人民(使用人など)をたくさん持っていたからです。財産があったので、兵力もあり、天皇家としても無視できない存在だったわけです。

蘇我氏が好き勝手をしたことを教訓として、今後蘇我氏のような力を持った豪族が現れないようにするために、天皇や豪族が土地や人民を個人的に持つことを禁止し、すべて国のものとする、というのが公地公民という制度です。

その後、私有地が認められていき、現代では国が持つ土地もありますが基本的に私たちが済んでいる家などは私有地ですよね。土地や人民をだれのものにするのか、という視点が初めて出てきたのが「公地公民」です。内容とともにしっかり覚えておきましょう。

班田収授法

また、誰がどこに住んでいるか、という登録名簿、つまり戸籍をつくり、それをもとに人民に「口分田」(くぶんでん)を与え、それぞれ稲作をさせることにしたのが班田収授法です。ここでの大きなポイントは、戸籍をつくったことと、6歳以上の男女に口分田という一定の面積の田んぼを与えた、ということです。

公地公民という制度をとり、土地を国のものにしたとしても、有効活用しなければただの土、草が生えっぱなしの荒れた土地になってしまいかねません。それでは国の財産と言えないので、人民に稲作をおこなわせ、国のものにした土地を活用しようとしたのです。

ただし、人民にとっては口分田が与えられると言ってもあまりいい話ではなかったのです。普通は、田んぼをもらって稲を作っていいよ、と言われれば、自分たちの食料も確保できるので喜びそうなものですが、班田収授法は人民に優しいばかりではありませんでした。与えられた口分田で稲を育てても、収穫した稲を税として納めなければならなかったのです。

また、戸籍は6年ごとに更新される仕組みだったので、口分田は6年たつと国に返さなければいけませんでした。土地を押し付けられて稲作を強要され、しかも収穫されたら税として取られてしまう・・・ラッキーとは言えませんよね。

公地公民、班田収授法などが改新の詔の2本の柱でしたが、税制などの仕組みが正式にルールとなったのは、701年に「大宝律令」(たいほうりつりょう)が制定されてからなので、大化の改新から50年以上たってからだったのです。大宝律令が制定されてから、日本は法治国家(法律に基づいた政治)となったわけです。律令政治と言われるので、この流れについても押さえておきましょう。

白村江の戦いで国外に進出!?

大化の改新以後、日本は天皇中心の政治を取り戻そうと政治改革をおこなっていましたが、日本は朝鮮や中国から文化を取り入れていたので、外交も重要でした。特に親密だったのは朝鮮半島ですが、当時の朝鮮半島は百済、新羅、高句麗といったようにいくつかの国に分かれていましたが、その国どうしの関係が悪化していたのです。百済は日本に仏教を伝えたと言われる信心深い国でしたが、新羅は武力に優れ、中国の唐と協力関係にあったため、力を伸ばし、百済を滅ぼしてしまいます。百済から日本に生き延びてきた人々からの嘆願もあり、中大兄皇子は、唐と新羅の連合軍と戦うことになったのです。これが663年に起こった「白村江の戦い」(はくすきのえのたたかい)です。この戦いは、朝鮮半島の白村江(はくすきのえ)という土地で起こったので、白村江の戦いと呼ばれています。

中大兄皇子は、もし唐や新羅との連合軍に勝つことができれば、日本が世界にその名をとどろかせることができたと考えたのか、出兵しましたが、武力に優れた新羅と、建国間もなく、大帝国として力を持っていた唐の連合軍は非常に強く、中大兄皇子は負けてしまったのです。

国を守ることを重視する政策に

唐と新羅の軍に負けてしまった中大兄皇子は、国外の戦力の強さを目の当たりにします。もしかすると逆に日本に攻め込まれてしまうかもしれない恐れもあったので、朝鮮半島にはそれ以上進行せず、国内の守りを固めることを政策の中心とします。まだ新しい時代の政治が始まったばかりだったうえ、兵士の統率もうまく取れていなかったので、そういったことをまずは固めて、国力をつけようとしました。

まずおこなったのが、北九州の「大宰府」(だざいふ)の守りを固めたことです。唐や新羅が模試攻めてくるとしたら、距離が近く、船で上陸しやすいところを突いてくるはずです。それが大宰府だったわけです。大宰府とは、当時の役所のことで、各地にありましたが、時代が進んで奈良時代になり、律令政治が敷かれると、北九州の身に置かれたという経緯があります。ですから、ここで中大兄皇子がおこなったのは「北九州の太宰府」の守りを固めた、ということです。

大宰府を守ったのは「防人」(さきもり)という、専門の防衛軍です。山上憶良が読んだ「防人の歌」で有名ですね。また、大宰府のさらに北には「水城」(みずき)を造りました。水城とは、敵の侵入を防ぐための堤防です。

都を移して守りを固めた

北九州の守りを固めた中大兄皇子は、667年に、都を近江国(現在の滋賀県)の大津宮(おおつのみや)に移します。大津宮は山奥に位置していました。都に攻め込まれないように、また政治に集中するために山奥に都を移したと言われています。唐や新羅といった軍が攻めてきたとしても、山奥であれば攻めにくいですよね。

中大兄皇子、ついに天智天皇になる

中大兄皇子は、それまで母である皇極天皇(一度退位してもう一度斉明天皇となりました)を天皇の座につけ、自分は皇太子という身分のまま、政治の実権を握っていました。天皇の崩御もあり、668年に中大兄皇子はついに天皇の位にのぼり、「天智天皇」(てんじてんのう)となったのです。史上最強の天皇の誕生と言っても良いでしょう。

中大兄皇子が天皇となった翌年の669年には、大化の改新から志をともにした中臣鎌足が亡くなります。政治を変え、制度を変えたこの時代に貢献した中臣鎌足が亡くなったことを痛んで、天智天皇は亡くなる間際に最高の位を与え、さらに「藤原」という「氏」(うじ)を授けました。現在では、藤原鎌足と呼ばれることが多いですが、藤原氏のもとは中臣鎌足だったのですね。そして、その2年後の671年に天智天皇も亡くなります。そこから次の天皇の座をめぐって天皇家の中で争いが始まります。

蘇我氏の滅亡から公地公民、班田収授法などの大化の改新の流れと、白村江の戦いで敗北したことによって国内の政治に力を入れて、ついには自分が天皇になった、それが天智天皇だ、という一連のできごとと重要人物をしっかり押さえておきましょう。

次の天皇は誰だ!壬申の乱

絶対的権力者であった天智天皇が671年に亡くなったことによって、後継ぎの天皇にだれがなるかという争いが起こりました。これが672年に起こった「壬申の乱」(じんしんのらん)です。

壬申の乱のキーパーソンは2人です。

・大海人皇子:天智天皇の弟。のちの天武天皇(てんむてんのう)

・大友皇子:天智天皇の息子

当時、天皇になることができるのは、天皇の子であり、母も天皇家出身でなければいけない、という決まりがありました。大海人皇子は天智天皇と父も母も同じで、両親とも天皇だったので血筋に全く問題はありませんでした。大友皇子は父は天智天皇でしたが、母は天皇家出身ではなく豪族の娘でした。ですから、それまでの決まりに従えば、大友皇子は天皇になる資格がなかったので、大海人皇子が後を継ぐのは当然とされていたのです。

しかし、天智天皇はわが子可愛さもあり、大友皇子に跡を継がせたいという考えを持つようになったと言われています。そこで、次の天皇として見込まれ、重要な役職についていた大天野皇子が邪魔になったため、天智天皇は大海人皇子ではなく大友皇子を重要な役職に就けたのです。一度は奈良の吉野に引っ込んだ大海人皇子でしたが、兄である天智天皇が亡くなり、大友皇子が大海人皇子を攻めようとしているという情報が入り、大友皇子と戦うことになったのです。これが壬申の乱です。

結果として大海人皇子が大友皇子に勝利し、天皇の座に就きました。これが「天武天皇」です。ちなみに、天武天皇の妻は後の持統天皇(女性天皇)です。百人一首にも歌を残しているので一緒に押さえておきましょう。

もう一人のスター、中大兄皇子にまつわるできごとを整理しよう

聖徳太子が飛鳥時代前半のスターなら、後半のスターは間違いなく中大兄皇子(天智天皇)です。飛鳥時代の後半は、中大兄の皇子にまつわるできごとを理由づけも含めて整理することが理解を深めるためには大切です。以下の点を整理しておきましょう。

・645年、蘇我氏を滅ぼして大化の改新をおこない、公地公民、班田収授法を定める

・白村江の戦いで唐と新羅連合軍に負け、北九州の守りを固め、都を移して国内政治を固める

・天智天皇死後の壬申の乱で弟と息子が争い、弟の大海人皇子が天武天皇になる

この3点を、年号と、重要人物とともに押さえておけば大丈夫です。ただし、ぶつ切りの知識で覚えるのではなく、なぜそのようなできごとがおこったのか、中大兄皇子は何を目指したのか、といった「理由」を説明できるように理解し、整理することが大切です。覚えること自体は多くはありません。ただし、正確な知識が求められるので、早めに押さえておきましょう。

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