平安時代は権力者が入れ替わる!?貴族だけじゃない平安時代の4種類の権力者

平安時代と言うと、皆さんはどのようなイメージを持ちますか?十二単や百人一首など、平安時代の文化には貴族文化の香りがします。ですが、政治に目を向けてみると、平安時代は権力を握った人、そしてその人が属していた身分が目まぐるしく変わった時代だと言えます。

簡単に言うと、平安時代に活躍した人物で特に有名な人を政治制度から見てみると、天皇→貴族→上皇→武士と、身分が異なる人物ばかりです。権力者それぞれが政治について自分なりの考えを持ち、制度もさまざまです。それぞれ異なる身分だからこそ個性的な政治がおこなわれました。

平安時代の政治については、これら4つの権力者の時代に分けて流れを追っていくと理解しやすいです。今回は、目まぐるしく権力者が変わった平安時代の政治を中心に、流れをまとめます。できるだけイメージを膨らませて流れを理解し、覚えるべきところを押さえておきましょう。

天皇中心の時代~桓武天皇の政治

平安時代と言って皆さんが思い浮かべる天皇と言えば誰でしょうか?やはり最も忘れてはいけないのは「桓武天皇」(かんむてんのう)です。桓武天皇は、平安時代の最初の天皇です。また、桓武天皇と言えば都を奈良から京都に写した天皇としても知られています。

平安時代の幕開けとともに登場した桓武天皇は、平安時代の政治の礎を作った人物として必ず押さえておきたい天皇です。まずは平安時代最初の権力者、桓武天皇の政治を見ながら、天皇中心の政治の時代から平安時代がはじまったことを理解しましょう。

また、どの時代でも言えることですが、歴史の勉強をする際に、人物名や場所、できごとの固有名詞は漢字で書けるようにしておかなければなりません。近年の入試の傾向では、固有名詞は漢字指定で書かせる出題がほとんどです。線1本、点1つまちがえただけで0点になってしまうので気をつけましょう。

というのも、桓武天皇の名前の漢字を間違える受験生が意外と多いからです。桓武天皇の「桓」の字を「恒」と、へんを間違えて覚えてしまうケースが多いです。「桓」のほうが簡単そうなのですが、なぜかりっしんべんで覚えてしまう受験生が多いので、意識して固有名詞を漢字で書けるように勉強してくださいね。

桓武天皇が京都に都を移した理由とは

桓武天皇と言えば、朝廷のある都を奈良から京都に移したことで有名です。奈良の平城京は立派な都でしたから、そのままでもよさそうなものですが、なぜ桓武天皇は奈良から京都に都を移転したのでしょうか。その理由を考えてみましょう。歴史上のできごとにはかならず理由、因果関係があります。

奈良時代の天皇と言えば、まず「聖武天皇」(しょうむてんのう)が思い浮かぶかもしれませんね。聖武天皇をはじめとした、奈良時代の天皇・朝廷がどのような政治をおこなってきたのか、という点を考えてみると、桓武天皇が都を移した理由が見えてきます。

聖武天皇の在位期間には天然痘が流行し、ききんや災害があとを絶ちませんでした。そこで、聖武天皇は仏教を信じ、仏教の力でそうした混乱した世の中をなんとかしたいと考えました。国分寺や国分尼寺を全国に建立し、国分寺の総本山である東大寺には大きな大仏(廬舎那仏と呼ばれます)を建造しました。このことからも分かるように、奈良時代の政治は、仏教を深く信心し、仏教を手厚く保護する政治だったのです。

このように手厚く保護されると、人は調子に乗るものです。仏教を手厚く保護するということは、仏教にかかわる僧をも大切にするということです。聖武天皇の娘である「孝謙天皇」(こうけんてんのう:孝謙女帝とも呼ばれます)は、僧の「道鏡」(どうきょう)に政治のことを相談し、道鏡を法王という天皇と同格の位につけようとするなどしました。

道鏡が本当に自分から天皇の座を狙うなど政治にかかわろうとしたのかは説が分かれるところではありますが、僧が政治に介入した事実は事実なので、僧が自分たちの思い通りにできる、と調子に乗ってしまったと言われてもしかたない時代ではあったのです。

そうしたこともあり、奈良時代の終わりごろの朝廷には、仏教に対する反感があったと言われています。朝廷としては、政治と仏教の関係を断ち切りたいという機運が盛り上がっていました。そこで登場したのが桓武天皇です。桓武天皇が仏教色の濃かった奈良から京都に都を移すことによって、仏教から距離を置こうとしたのです。

794年、平安京遷都

平安京に都が移されたのは794年です。ただし、すぐに平安京に移ったわけではありません。まず、10年前の784年に、都が「長岡京」(ながおかきょう)に移されました。しかし、長岡京に都を移すと、不吉なことがたてつづけに起こったのです。

決定的だったのは、長岡京の建設責任者であった藤原種継(ふじわらのたねつぐ)が暗殺されるという事件が起こったことです。建設責任者がいなくなったため、長岡京は完成しなかったとも言われています。現代の発掘調査で、長岡京は非常に広く、場所も良く、都として立派なものであったと推測されていますが、ながく「幻の都」と言われていました。

藤原種継を暗殺したと疑われた当時の皇太子は地方に流罪となったのですが、流刑地に向かう途中で亡くなるという事件も起こり、たたりではないかとうわさされたのです。当時は迷信深い人が多く、何か怖い事件が起こると「たたり」だと大騒ぎすることは少なくありませんでした。

このように人が死ぬ、しかも身分の高い人がたてつづけに亡くなるという事件が起こったため、長岡京から平安京に都を移すことにしたのです。794年、長岡京から都を移す際に、平和を願って都の名前を「平安京」と名付けた、と言われています。

平安京の特徴として、仏教の寺院が造られなかった、ということがあります。理由は、やはり仏教と政治の距離を遠ざけることですね。仏教の影響が強くなり過ぎたために都を移そうとしたのですから、当然といえば当然のことです。このように桓武天皇は、仏教と政治の関係を断ち切り、僧が政治に口を出すことを避けようとしたのです。

最澄・空海による「山岳仏教」は心のよりどころ

桓武天皇は、仏教勢力が政治に口出しすることを嫌って奈良から京都に都を移しました。しかし、仏教は心のよりどころという存在であったことはたしかなので、撲滅したわけではありません。政治に口を出す仏教はいやだけれども、政治にかかわりを持たない、人々の心のよりどころになる新しい仏教は必要だ、と考えていたのです。そこで、「政教分離政策」(政治と仏教がお互い干渉し合わないという政策)を打ち出しました

政教分離政策は、現在の日本国憲法にも定められています。日本国憲法における政教分離というのは、第二次世界大戦に、お国のために、神国日本のために、と命を落とした国民が多かったため、宗教が政治に口出すことを、また宗教を政治の理由にすることを禁じたものです。平安時代から政教分離というのは日本のテーマでもあったのですね。

桓武天皇の時代に戻り、当時、唐(中国)に留学していた「最澄」(さいちょう)と「空海」(くうかい:弘法大師とも呼ばれます)という2人の僧が日本に帰国しました。この2人は、桓武天皇による政教分離政策の方針にしたがって、平安京ではなく、京都から遠く離れた山奥でそれぞれ新しい仏教を開きます。

・最澄:比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)で天台宗を開く
・空海:高野山金剛峰寺(こうやさんこんごうぶじ)で真言宗を開く

比叡山延暦寺は滋賀県、高野山金剛峰寺は和歌山県にあります。京都から離れた山奥で開いた仏教なので、「山岳仏教」と呼ばれました。比叡山延暦寺は戦国時代、織田信長が僧兵を退けるために焼討ちをしたことで知られています。また、「叡」の字は少し難しく、受験生が間違えやすい漢字なので、正確に覚えておきましょう。

桓武天皇、蝦夷討伐命令を出す

桓武天皇と言えば平安京遷都と政教分離政策なのですが、桓武天皇がおこなった政策はこれだけではありません。特に覚えておきたいのは、蝦夷(えぞ)討伐です。都が京都にあった平安時代は、朝廷の勢力はまだ日本全国まで及んでいませんでした。蝦夷もその地方のひとつで、現在の東北地方にあたります。蝦夷ということばには、東北地方という場所と、そこに住む人々という意味も含まれます。

桓武天皇は、「坂上田村麻呂」(さかのうえたむらまろ)を「征夷大将軍」(せいいたいしょうぐん)に任命し、蝦夷を討伐するよう命令を出しました。坂上田村麻呂は命令通りに進軍し、蝦夷を討伐しました。坂上田村麻呂は勇猛果敢な武将でしたが、非常に心優しい人物だったと言われています。一例として、蝦夷のリーダーであった「アテルイ」を処刑しないよう、桓武天皇を説得したとも言われているほどです。

坂上田村麻呂は蝦夷を征伐するように桓武天皇から命令を受け、征夷大将軍として活躍しました。この征夷大将軍ということばは、平安時代以降もさまざまな時代で出てきますよね。坂上田村麻呂が活躍した平安時代は、蝦「夷」を「征」伐する「大将軍」という意味で「征夷大将軍」という地位がありました。しかし、その後、鎌倉時代以降は、武家社会のトップの人物の役職として朝廷から「征夷大将軍」に任ぜられる、という形になったのです。征夷大将軍と一口に言っても、登場した当時とは意味合いが変わっていったので、この点も押さえておきましょう。

貴族中心の時代~藤原氏の「摂関政治」

藤原氏は、大化の改新のときに中大兄皇子(のちの天智天皇)を支えた中臣鎌足が亡くなる前に授けられた氏です。それ以降、貴族の代表格として藤原氏は栄えてきました。多くの荘園を持ち、奈良時代にはついに皇族以外の初めての皇后「光明皇后」(聖武天皇の皇后)を一族から出すなど繁栄していました。

藤原氏の繁栄は平安時代でも続き、強い権力を持っていました。光明皇后を皮切りに、藤原氏は一族の娘を天皇と結婚させ、天皇の代わりに政治をおこなう「摂関政治」をはじめました。娘を天皇と結婚させ、皇子が生まれて天皇に即位したら、藤原氏は天皇の義理の父や祖父になることができますよね。そうすると当然権力も強くなります。幼い天皇を即位させ、まだ政治ができないのでそれに代わって藤原氏は絶大な権力をふるうようになりました。

摂関政治の「摂関」とは「摂政」と「関白」のことです。摂政は、天皇が子ども、または女性のときに代わりに政治をおこなう役職のことです。関白は、天皇が成人しているけれども代わりに政治をおこなう役職です。藤原氏は摂政・関白の座を独占し、天皇の代わりに政治をおこなうようになりました。摂政と関白はワンセットで覚えますが、違いについてはしっかり理解しておきましょう。

ライバル・菅原道真を排除

藤原氏は、自分たちが権力を握るのに邪魔なライバルたちを次々と排除していきました。今ではライバルと言うと、お互いに切磋琢磨して実力を磨いていく存在ですが、当時政治上のライバルというのは、邪魔な存在でしかなかったのです。藤原氏はライバル貴族たちを次々に蹴落とし、トップに上り詰めていきます。その途上で蹴落とされたライバルとして有名なのが、「菅原道真」(すがわらのみちざね)です。学問の神様として有名で、全国の天満宮にまつられているので皆さんご存知でしょう。

菅原道真は、藤原氏と同じ平安時代に活躍した貴族です。学問の神様と言われるように、実際非常に勉強熱心で勤勉なエリートだったので、朝廷の中でどんどん出世していきました。894年には遣唐使の停止も提案しています。遣唐使の停止は、平安時代特有の文化を生み出します。遣唐使の派遣をやめることによって、当時の中国王朝の唐の文化の影響を受けることがなくなったため、日本特有の文化である「国風文化」が生まれたのです。

このように新しい意見をどんどん出し、スピード出世をとげていった菅原道真は、右大臣の位につきます。右大臣とは、朝廷で2番目にえらい役職ですから、大出世だったわけですね。

このような菅原道真の大出世を苦々しく思っていたのが権力を独占したい藤原氏です。そこで、当時の天皇に、「菅原道真が天皇の座を狙っている」とうその報告をします。天皇はそれに激怒し、藤原氏の言うことを聞いて菅原道真を九州の「大宰府」(だざいふ)に流刑とし、菅原道真はそこで一生を終えたのです。このようにして藤原氏は最大のライバルを蹴落とし、権力を独占し続けました。

太宰府天満宮と大宰府の違い

菅原道真が流された「大宰府」は「大」という文字を使っています。一方、九州で合格祈願のスポットと言えば「太宰府天満宮」で、その最初の字は「太」です。そのため、間違える受験生も多いです。なぜ大宰府にあるのに太宰府天満宮なのでしょうか。

藤原氏のうその訴えにより大宰府に流され、亡くなった菅原道真でしたが、その死後に不吉なできごとがたくさん起こります。たとえば、都に雷が落ちる、藤原氏やその関係者が突然死するなどです。迷信深い人々はこうした不吉なできごとについて「菅原道真のたたりだ」「菅原道真の怨霊がこうしている」とうわさします。

そこで、菅原道真の霊をしずめようと、太宰府天満宮という神社を建てることにしたのです。ウソの告発で地方に流され、無念のうちに亡くなってしまった菅原道真をまつるわけですから、神社の名前は考慮しなければなりませんでした。いわば朝廷によって無念の死をとげたわけですから、朝廷の役所のひとつである「大宰府」と同じ文字を使うのはやめようと考えたのです。そこで、天満宮とそれがある地名には、役所の「大宰府」ではなく「太」の字を使い、「太宰府天満宮」としたわけです。

摂関政治の全盛期は藤原道真の時代

ライバルたちを次々蹴落として権力を握り、摂関政治をおこなった藤原氏ですが、摂関政治の全盛期はいつごろだったのでしょうか。ここで必ず押さえておきたい人物が「藤原道長」(ふじわらのみちなが)です。藤原道長は自分の4人の娘を次々と天皇と結婚させ、天皇の義理の父、祖父として権力をふるいます。1016年には摂政となり、幼い天皇の祖父として活躍しました。

天皇の代わりに政治をおこない、怖いものはなにもない、世の中は自分の思う通りに動くと思ったのか、ある宴会で藤原道長は「この世をば 我が世とぞ思う 望月の かけたることを なしと思えば」という和歌を詠みます。この歌の意味は、「この世のすべては自分の思う通りだなあ。満月が欠けないで真ん丸であるように、何も足りないものはない(ので大満足)」という意味です。まさに自分の思う通りにならないことは何一つなく、位を極め、政治も自分が動かしている、このような歌も詠みたくなるように栄華を極めていたわけですね。

藤原道長は娘を次々と天皇の妻にしますが、一条天皇の皇后となった「彰子」(しょうし)の家庭教師になったのは「紫式部」です。紫式部の記した「源氏物語」は、日本独自の文化である国風文化最高傑作と言われていますが、その主人公の光源氏は藤原道長だという説もあります。

一方、藤原道長の兄である藤原道隆の娘「定子」(ていし)もまた一条天皇のきさきでした。定子の家庭教師だったのが紫式部のライバル「清少納言」です。製法納言は「枕草子」を記したことで有名ですね。「春はあけぼの~」という枕草子の書き出しは、知らない人はいないかもしれません。

紫式部の「式部」や清少納言の「少納言」は宮中の女官の官職です。本名はべつにあります。どちらも女流作家として有名ですが、この2人以外にも歌人や小説を書いた有名な女性が何人もいます。もちろん男性も和歌の読み手や文章を残すなど活躍しましたが、平安時代は女流作家が多かったのです。

当時政治などで使われていた文字は漢字でしたが、漢字は「男文字」と言われていました。これに対して、女流作家を中心に漢字を崩した文字である「かな文字」が使われはじめましたかな文字は「女文字」とも呼ばれました。こうした日本独自の文字が使われはじめたということからも、日本独自の国風文化が非常に栄えていたことがわかるでしょう。

摂関政治のおとろえ

藤原道長は我が世の春を謳歌しましたが、その息子である「藤原頼通」(ふじわらのよりみち)も関白として活躍します。しかし、藤原道長と頼通の違いは、頼通が天皇と結婚させた娘になかなか皇子が生まれず、天皇の祖父として権力をふるうことができなかった点にあります。そうすると、天皇と藤原氏のつながりが弱まってしまいますよね。これをきっかけに、藤原頼通以降、藤原氏の権力はだんだんと弱まっていったのです。

藤原頼通に関して覚えておいていただきたいのは、彼が「平等院鳳凰堂」(びょうどういんほうおうどう)を建立した人物だということです。平等院鳳凰堂は、10円玉に描かれていることで有名ですね。また、藤原頼通の「通」という字は「道」と間違えやすいので、人名はきちんと確認しておきましょう。平安時代は藤原氏がたくさん登場するので、漢字も含めて整理してください。

上皇中心の時代~貴族時代の終わりへ

平安時代3種類目の権力者は、上皇です。上皇は、天皇を退位した人のことを言います。なぜ、貴族中心の政治から上皇中心の政治へと変化したのでしょうか。流れを理解するためにも貴族中心の時代をざっと復習しておきましょう。

貴族時代の終わり

平安時代のなかごろ、政治の実権を握っていたのは貴族たちでした。特に大きな権力を持っていたのが藤原氏です。藤原氏は一族の娘を天皇と結婚させ、天皇の外戚(母方の親族)として、幼い天皇を即位させ、その祖父として絶大な権力をふるったのです。天皇の代わりに政治をおこない、できないことはなかったほどです。

平安時代のはじまりは、桓武天皇など天皇中心の政治でした。しかし、藤原氏の登場によっていつの間にか貴族中心の政治に移っていったわけです。いわば天皇中心の政治を、藤原氏が横取りしたのと同じです。こうした状況が長く続いたため、天皇や藤原氏以外の朝廷は不満を持つようになりました。天皇は立場は貴族よりも上です。また、天皇のほうが若く、貴族は年の離れた義理の父、祖父です。藤原氏の権力の陰りをきっかけに、天皇中心の政治を再び、とチャンスをうかがっていたのです。

白河上皇の院政

長く藤原氏が繁栄していましたが、藤原頼通の娘と天皇の間に皇子が生まれなかったため、藤原氏の血筋とは遠い天皇が即位するようになっていきます。天皇中心の政治を取り戻すためには今がチャンス、と考えた朝廷は、政治の実権を貴族から奪還します。当時の「白河天皇」(しらかわてんのう)は、1086年に天皇の座を息子に譲り、自分は「上皇」(じょうこう:後継者に地位を譲った天皇のこと)となったのです。

上皇は「院」という場所で政治をおこないました。そのため、上皇がおこなう政治のことを「院政」と言います。院の周りには守備のための「武士」が配置されていました。上皇の近くで活躍したため目立った存在となっていき、院政とともに武士の力も強くなっていったのです。

天皇と上皇が対立するように

院政がはじまり、藤原氏から政治の権力を取り戻したわけですが、もともと朝廷は天皇中心の政治を復活しようとしていたわけですよね。ですが、白河上皇は天皇をやめた人です。本来天皇が政治をおこなうはずなのに、なぜ上皇が天皇退位後も政治をおこない、権力をふるうのか、これでは天皇の立場がない・・・と考える天皇が出てきても不思議ではありませんよね。

そこで1156年、当時の天皇であった「後白河天皇」(ごしらかわてんのう)と、「崇徳上皇」(すとくじょうこう)との間に政治権力をめぐる争いが勃発しました。これが「保元の乱」(ほうげんのらん)です。重要な事件なので年号と内容をしっかり理解しておきましょう。

後白河天皇と崇徳上皇は、実の兄弟でした。兄弟が権力をめぐって争った保元の乱は、後白河天皇側が勝利します。このとき、後白河天皇側について大活躍した武士が、有名な「平清盛」(たいらのきよもり)と、源義朝(みなもとのよしとも)です。平清盛は平氏、源頼朝は源氏です。武士の活躍によって乱がおさまったので、武士は一躍注目を集めることになります。

保元の乱では、平清盛と源義朝が同じように大活躍しましたが、平清盛のほうがより多くほうびをもらったと言われています。そうすると、源義朝やその家来たちは不満に思いますよね。そこで、平氏と源氏の対立がはじまります。保元の乱がおさまったと思った3年後の1159年、今度は「平治の乱」(へいじのらん)が起こります。これはいわば武士の中の真のナンバーワンを決める争いでもありました。このとき、平清盛と源頼朝は敵方となり、勝利したのは平清盛のほうだったのです。負けた側の源義朝は処刑されてしまいました。

武士中心の時代~そして鎌倉時代へ

保元の乱、平治の乱を経て、武士が大きな力を持つようになります。天皇や上皇は武芸に秀でているわけではないので、武力を持つ武士が権力を握るようになっていきます。政治の中心も上皇から武士に移り変わっていき、平安時代も終わりを迎える時期となっていきます。その時期に権力を握った武士こそ平清盛です。ここでは、今後の武家政治のはじまりともなった、平清盛による武士中心の政治を整理しておきましょう。

平清盛が武士として初の太政大臣に

平清盛は源義朝を蹴落とし、1167年には武士としてはじめての「太政大臣」(だいじょうだいじん)となります。太政大臣は朝廷で一番の権力者です。この1167年をきっかけに、長く続く武家政治、武士の世の中がはじまることになりました。「太政大臣」は「だいじょうだいじん」と読みます。「だじょうだいじん」と覚えている受験生もいるのですが、間違えないようにしっかり覚えておきましょう。

平清盛がおこなった政治は、藤原氏がおこなった摂関政治と似ているところがあります。たとえば、以下の点などは共通していますので整理しておきましょう。

・娘を天皇と結婚させて、朝廷とのつながりを強くした
・ライバルを追放した(源義朝を処刑し、義朝の息子の源頼朝を伊豆に流した)
・多くの荘園を所有した

この3点は非常に藤原氏の政治に似ていますね。また、平清盛は「平氏にあらずんば人にあらず」(平氏でなければ人間ではない)という発言をするなど、権力をほしいままにしていました。藤原道長となんだか似ています。しかし、このようなごう慢な態度は、やはり周囲の反感を買っていたのも事実でした。

日宋貿易と港の整備

平清盛にかかわる知識として必ず覚えておきたいのが「大輪田泊」(おおわだのとまり)の整備です。大輪田泊とは、現在の神戸港あたりにあった貿易港のことを言います。大輪田泊を築いたのは、奈良時代に東大寺の大仏建立に尽力した僧の「行基」(ぎょうき)だとされています。そのため、もともとあった港を平清盛は使えるように整備したわけです。

大輪田泊を中心として、当時の中国王朝である「宋」(そう)との貿易が盛んにおこなわれました。この貿易の名前もしっかり憶えておきましょう。「日宋貿易」です。また、平清盛ゆかりの地と言えば広島県にある「厳島神社」(いつくしまじんじゃ)も有名ですが、平清盛が厳島神社の保護をおこなったのは、日宋貿易が安全におこなわれることを祈ったからだと言われています。

源頼朝の逆襲から源氏の天下へ

平清盛はこのように政治、貿易とさまざまな政策を出した有能な政治家でもありました。しかし、平氏の天下は平清盛の時代だけと言っても過言ではありません。なぜかというと、平治の乱で処刑した源義朝の息子「源頼朝」(みなもとのよりとも)が反撃し、平氏を滅ぼしてしまうからです。

源義朝が処刑された際、息子である源頼朝も処刑されるところでした。しかし、平清盛の母が、まだ幼い頼朝の命は助けるようにと進言したため、伊豆に流すにとどめていたのです。青年となった源頼朝は、北条氏の力を借り、弟の源義経(みなもとのよしつね)の活躍もあって、ついに1185年の「壇ノ浦の戦い」でついに平氏を滅ぼします。このとき、平清盛の孫でまだ幼かった安徳天皇は壇ノ浦に身を投げました。そしてここから、本格的な武家政権、幕府を開いておこなう武家政治がはじまっていくのです。

まとめ

平安時代は、実に4つの政治権力が存在した時代です。ひとつの権力から次の権力に移り変わるのにも必ずそのときどきの理由がありました。桓武天皇、藤原道長、白河上皇、平清盛は中でも有名ですから、おこなったこと、かかわる年号などについてはしっかり理解しておきましょう。

上皇の時代に武士が力をつけ、いよいよ本格的な武家政治がはじまります。なぜ権力者がこうも移り変わったのか、イメージできるようにしておくと次の時代の理解も深まります。歴史はできごととその原因をセットで理解すると整理しやすいです。そして時代の移り変わりのきっかけについても一緒に理解しておきましょう。

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一橋大学卒。 中学受験では、女子御三家の一角フェリス女学院に合格した実績を持ち、一橋セイシン会にて長く教育業界に携わる。 得意科目の国語・社会はもちろん、自身の経験を活かした受験生を持つ保護者の心構えについても人気記事を連発。 現在は、高度な分析を必要とする学校別の対策記事を鋭意執筆中。