【社会・歴史】日本と中国・朝鮮半島の交流史をおさえよう①〜渡来人・古代王朝編〜 

日本と地理的に近い朝鮮半島は、歴史的にもつながりがありました。今回は日本と中国・朝鮮半島の交流史について、渡来人古代王朝編についてみていきましょう。

渡来人の影響 

古代の時代からみていきましょう。紀元前4世紀頃からはじまった弥生時代は、稲作中心の生活に変化していきました。そのほかでもない稲作を伝えたのが渡来人、すなわち朝鮮半島や中国大陸から移り住んできた人々でした。稲作技術のほか、須恵器[i]などの土器の製造法も伝えました。 

ヤマト政権下、渡来人らは技術者集団として組織化し、大王は彼らを各地に移り住ませました。そのことにより、渡来人の進んだ技術が各地に広まる結果となりました。 

渡来人は技術を伝えるだけでなく、漢字なども伝えました。6世紀には、百済[ii]から渡来した五経博士により儒教が伝えられ、仏教も伝えられました。 

中国の歴史書にみる古代王朝

弥生時代の日本の様子について、1世紀ごろ記された『漢書』地理志『後漢書』東夷伝に、記述があります。それらによるといくつかの集落を統合し、権力者が台頭し、各地で小国ができたと記述されています。 

また後漢[iii]の武帝[iv]から奴国王に贈られた金印が志賀島から出土したことなどからも交易の様子がうかがえます。 

後漢が滅んだのち、中国大陸は、北方の魏[v]、南方の呉、西方の蜀の三国時代[vi]に入ります。『三国志』のなかにある『魏志』倭人伝に当時の日本の倭国について詳細に書かれています。その記述によると、2世紀の終わり頃、倭国は小国が入り乱れ、争っていたといいます。そこで女王卑弥呼[vii]を立てて王としたところ、争いがおさまったといいます。 

卑弥呼は、魏の皇帝に使いをおくり、奴隷や織物を献上し、「親魏倭王」の称号金印紫綬、銅鏡などがおくられたといいます。 

【注】

[i] 古墳時代中期から鎌倉時代ころまで使用された陶質土器中国の灰陶 (かいとう) の技術が朝鮮を経て伝来。土師 (はじ) 器と異なり,轆轤 (ろくろ) を利用し,登窯 (のぼりがま) により,1200℃くらいの高温で焼成された。黒灰色の硬質の土器。(旺文社『日本史事典』)

[ii] 古代,朝鮮半島南西部にあった国家(350ころ〜660)「ひゃくさい」とも読む。4世紀中ごろ馬韓50余国を統一して建国。百済は日本にとって大陸交通の要地にあたり,一方百済は,高句麗・新羅 (しらぎ) と対抗するために,軍事的援助を求めて日本に接近し,その間には密接な関係が保たれた。百済からは博士・僧侶・技術者などが日本に渡来し大陸の文物が伝わり,古代文化の形成に著しい影響を与えた。欽明朝(531〜571ころ)の仏教公伝などが有名。660年新羅・唐の連合軍に滅ぼされたのち,多くの人びとが日本に渡来した。(旺文社『日本史事典』)

[iii] 25〜220 新の皇帝王莽 (おうもう) を倒して劉秀 (りゆうしゆう) (光武帝)が再興した漢王朝。東漢ともいう。都は洛陽。同時期,西方にはローマが存在しており,「パックス−ロマーナ」に象徴されるように東西両大国の成立によって東西交易が活性化した。しかし,2世紀から両国とも衰退しはじめ,後漢においては幼少の皇帝があいつぐなか,宦官・外戚が台頭し,政治は乱れた。184年より発生した黄巾の乱と,その討伐にあたった各豪族による乱後の建国・対立などでさらに混乱し,220年献帝が魏 (ぎ) の曹丕 (そうひ) (文帝)に位を奪われて滅んだ。(旺文社『日本史事典』)

[iv] [前156~前87]中国、前漢第7代の皇帝。在位、前141~前87。廟号びょうごう、世宗。名は劉徹。高祖劉邦の曽孫。儒教を公認し、中央集権体制を強化。外征を行って領域を拡大し、東西交渉を盛んにした。(小学館『大辞泉』)

[v] 三国の一つ。二二〇年、曹操の子丕(ひ)が後漢の献帝を廃してたてた国。首都は洛陽。華北を領し、呉、蜀と天下を三分したが、二六五年、臣下司馬氏の晉に代わった。(『日本国語大辞典』)

[vi] 中国で、後漢の滅亡後、魏・呉・蜀の三国が抗争した時代(二二〇‐二八〇)。大きく六朝時代の中に含められる。漢末の群雄の一人曹操が華北を統一、その嗣子曹丕(そうひ)は漢の献帝から帝位を譲られて魏を建国、都を洛陽に定めた。これに対して孫権は揚子江南を本拠に呉を建て、建業(南京)を都とし、一方、劉備は四川に拠って蜀を建て、成都を都としたために、天下を三分する鼎立時代となった。二六三年に蜀、二六五年に魏、二八〇年に呉が滅び、晉の武帝による天下統一がなされた。(『日本国語大辞典』)

[vii] 生没年不詳。3世紀前半,『魏志』倭人伝に記された邪馬台国 (やまたいこく) の女王。2世紀後半,男王統治の倭国に大乱がおこり,王に立てられた卑弥呼は,この内乱をしずめ30余国を統属した。呪術的宗教の巫女で夫をもたず,男弟の補佐でシャーマニズムの神権政治を行った。239年魏に朝貢し,親魏倭王の称号をうけた。3世紀中ごろ没し,径100余歩の墓に葬られ,奴婢 (ぬひ) 100余人を殉葬したという。(旺文社『日本史事典』)

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