国際社会とのつながりの中で覚えていこう!日本の戦乱史【戦前〜戦後編】

今回の記事では日本の戦乱史について扱うシリーズの第三弾として,戦前から戦後の歴史について解説していきます。この近現代と呼ばれる時代は,世界規模で発生するイベントが増え,関係する国家や人物もそのスケールに合わせて多くなるので,なかなか覚えづらいでしょう。そのため早めのうちの対策のため,本記事を活用してみてください。

戦前

さてそれでは,前回の記事までで大正時代にかけての歴史について押さえましたので,ここからは太平洋戦争開戦前を指す戦前の歴史を確認していきましょう。ヨーロッパで第一次戦争が起こると,日本では武器などの輸出により好景気に突入しました。また日本の内部では,大正デモクラシーという運動が盛んになり,治安維持法とセットではあるものの普通選挙法の発布という実を結びました。ここまでが前回のおさらいになるのですが,大前提としてここで扱う戦前という時代は国際平和が大きなスローガンとなっていました。その背景には第一次世界大戦で引き起こされた甚大な被害があります。この悲劇を繰り返さないように国際連盟がつくられたり,軍備を縮小する条約が設けられたりと,さまざまな対策が施されました。

この流れが世界恐慌という出来事で一変してしまいます。世界恐慌とは,アメリカから始まった地球規模の不景気のことを指します。この不景気という課題に対し,植民地を持つ国々はブロック経済によって,発端となったアメリカはニューディール政策によって解決を試みます。それぞれの内容については別の記事や書籍で学んでいただくとして,植民地の少ない日本はこの不景気に苦しんでしまいます。そこで打った手が満州事変です。中国東北部の満州という土地は,鉄鉱石や石炭,つまりは重工業に必要な原料が採れる土地でした。そのため,日本はこの満州の権益を強めて資源を得ることによって景気を良くしていこうとしたのです。以上の考えによって,1931年関東軍という陸軍の部隊が中国東北地方の柳条湖にて南満州鉄道の線路をわざと爆破し,その爆破が中国によるものだと嘘をついた上で,中国へと攻撃を始め,満州を我がものにしようとします。これが柳条湖事件であり,この事件を発端として始まった一連の中国との対立のことを満州事変と言います。結果として日本は満州の植民地支配に成功するのですが,リットン調査団によって線路の爆破が自作自演だと分かると,満州の支配は認められず,その判断に反感を抱いた日本は国際連盟を抜けてしまうのでした。

そんな国際社会との関係とは裏腹に,日本国内では満州事変の成功などを背景に,軍部の政治への影響力が強まっていきます。この傾向により,政治を揺るがす大きな2つの事件が起きてしまいます。1つ目が1932年5月15日に発生した五・一五事件です。この事件では海軍将校らによって当時の主将である犬養毅が暗殺され,それまで続いていた政党政治が終わり,軍人や役人による政治が始まりました。2つ目が二・二六事件です。この事件では陸軍将校らによって首相や大臣が襲われてしまいます。結果的に反乱は失敗に終わり鎮圧されるものの,この事件を機に軍が国家権力を握るという構図が成立するきっかけとなってしまいました。

そして最後に見ていくのは日中戦争です。先ほど説明した満州事変以来,日本と中華民国の間では睨み合いが続いていました。そんな中1937年,北京郊外の盧溝橋という場所でついに日本と中国の軍隊が衝突してしまいます。この出来事を盧溝橋事件と呼ぶのですが,この事件を機に,通常宣言されるべきものである宣戦布告がないまま始まってしまったのが日中戦争になります。戦争が始まると戦域は中国中部や南部に拡大し,日本はやがて中国の首都であった南京を制圧し,このとき南京事件という多数の中国人が殺害される残虐な事件も起きてしまいます。しかし中国軍はこれに抗戦し,日中戦争は苦しい長期戦へともつれ込んでいくことになってしまうのでした。

戦中

ここからは戦中,つまり日中戦争の開始から太平洋戦争の終わりまでの歴史を追っていきましょう。日中戦争が長引いて苦しい戦いを強いられる中,日本は1938年に国家総動員法を定めたり,大政翼賛会に議員をまとめたりして,戦争に国の全ての力を注ぐための体制を整えるようになります。そんな中海外でも,日本と同じように植民地を持たないため不景気で苦しんでいたドイツイタリアも他国へと攻め込むようになり,そのせいでイギリス・フランスといった国から敵視されるようになります。その結果発生したのが第二次世界大戦です。日本は1940年にドイツ・イタリアと日独伊三国同盟を結んでいたため,枢軸国と呼ばれるドイツ・イタリアの側で大戦に関与することになるのでした。

大戦において日本は,欧米に代わってアジアを日本が制圧し共存共栄を主張する大東亜共栄圏というスローガンのもと,東南アジアへと進出していきました。この東南アジアはイギリスやフランスによって支配されていた植民地だったため当然反感を買い,日本は経済制裁を行なわれてしまいます。その中でもアメリカは,日本への石油の輸出を取り止めたり東南アジアや中国から撤退するように命じたりしたため,反感を買ってしまいました。こうして起こってしまったのが真珠湾攻撃と呼ばれる,ハワイ真珠湾にあるアメリカ軍基地への宣戦布告無しの奇襲です。この真珠湾攻撃をきっかけに,太平洋戦争が始まってしまうのでした。

この太平洋戦争は当初日本が優勢でしたが,1942年のミッドウェー海戦という戦いで敗れてからは,後退へと状況が変わってしまいました。ミッドウェー海戦が起こる前,日本兵は兵力でアメリカ軍を圧倒していました。その勢いで始まったのがミッドウェー海戦なのですが,この戦いで多くの戦艦やベテランのパイロットを失ってしまったので,敗戦への転換点となってしまったようです。

ミッドウェー海戦での敗戦後,アメリカ軍はいよいよ日本本土に攻め入ってきます。ここで,日本本土で起こった出来事として2つ覚えておきたいものがあります。1つ目が東京大空襲です。東京への爆撃自体は長い期間起こっていたのですが,特に1945年3月の爆撃は甚大な被害をもたらしました。2つ目が1945年4月の沖縄戦です。この沖縄戦は「ひめゆりの塔」などをはじめ多数の作品で取り上げられているほど,日本ひいては世界の歴史において重要なポイントです。これらの2つの出来事により多数の一般人が犠牲に遭い,このような被害から逃れるために小学生は集団で被害の少ない農村へと疎開したり,それまでは召集されなかった文化系の学生まで軍隊に召集する学徒出陣が行われたり,中国や朝鮮か多くの人を日本へと強制連行し日本人と同じように働かせたりしました。

そうして日本はどんどんアメリカ軍に押されていきます。第二次世界大戦についてもドイツやイタリアは降伏していたので,日本が降伏すれば戦争は終わるというところでアメリカ・イギリス・中国・ソ連がポツダム宣言を発表します。このポツダム宣言は日本の降伏条件が示されたものだったのですが,日本ははじめポツダム宣言を無視していました。しかし1945年8月6日広島8月9日長崎原子爆弾が落とされると,日本は無条件降伏を決め,8月15日に太平洋戦争は終戦しました。

戦後

では最後に現代史とも呼ばれる戦後の流れを確認していきましょう。戦後日本はGHQによって民主化が進められ,様々な改革が行われます。世界においても国際連盟の後釜となる国際連合が設立され,平和へと向かっていきました。そんな中起こったのがソ連アメリカとの間の冷戦です。この冷戦が深刻化していく中で,朝鮮戦争をはじめとしたソ連とアメリカの代理戦争が勃発します。日本もその影響で,GHQの指令により警察予備隊が作られたりしました。

この戦後という期間は,先ほど日本で起きた戦乱・戦争は特にないのですが,アメリカの水爆実験で日本の漁船が被ばくしてしまった第五福竜丸事件を発端とする原水爆禁止運動だったり,日米安全保障条約の改定に対する反対運動である安保闘争だったり,暴力は伴わないもののたくさんの運動が起きています。別のシリーズでその辺りは詳しく解説致しますので,よろしければ参考にしてみてください。

終わりに

本記事ではこれまで,戦前から戦後までの歴史について,戦乱や戦争といった観点から解説を行っていきました。はじめに触れたように,この単元はそれぞれの戦乱について関係する国家や人物が多いので,知識の定着に時間がかかるかもしれません。したがって以下のおすすめ記事や参考書籍を活用しながら更なる対策を進めていきましょう。本記事が今後の学習のお役に立てば幸いです。

(ライター:大舘)

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