14世紀以降のトルコ・イラン世界の発展[たった15分で要点を総ざらい!受験に役立つ世界史ノート]

今回は、トルコ・イラン世界の発展について学びたいと思います。アナトリアから中央アジアにかけて広がる地域では、13,14世紀ごろから新たな大帝国が築かれます。まず、1299年にはアナトリア地方でオスマン帝国が建国されますが、この帝国は次第にシリア・パレスチナ、北アフリカ、バルカン半島にまで広がる大帝国へと成長し、4世紀近く存続することとなります。
一方、東方のイランから中央アジアにかけて地域では、モンゴル帝国のハン国分裂の混迷の中、ティムール朝が樹立しました。ここでは、オスマン帝国ティムール朝、そしてその後イランに帝国を築いたサファヴィー朝について学んでいきましょう。複数の宗教・民族が融合するトルコ・イラン世界の帝国の特徴をしっかりと捉えることがポイントの一つです。

ティムール朝(1370~1507年) ◎都:サマルカンド、ヘラート

ティムール朝とは

ティムール朝は14世紀後半から約140年もの間、中央アジアからメソポタミア地方まで広がる大帝国を築いた。1370年、モンゴル帝国支配下にあったハン国の分裂状態の中で頭角をあらわしたティムールが西チャガタイ=ハン国から自立する形で樹立したこの王朝は、サマルカンドを中心とする中央アジア最大の勢力となった。このように、ティムール朝はトルコ化・イスラーム化したモンゴル系部族によるイスラーム教国家であり、王朝の繁栄の背景にはトルコ=モンゴル系諸部族の軍事力と、ムスリム定住民の経済力の統合にあったと考えられている。

ティムールの治世にはイル=ハン国キプチャク=ハン国インドオスマン帝国など周辺諸地域を積極的に征服・侵入して勢力を拡大したが、各地に分立する王家メンバー間の内紛は絶えず、15世紀半ばに第4代君主ウルグ=ベクが暗殺されると帝国は衰退期に入り、1469年には帝国は完全に二分した。16世紀初めモンゴル系トルコ人の遊牧ウズベクによってティムール朝は滅亡、ウズベクは西トルキスタンに定住してシャイバニ朝を建てた。

〔ティムール像〕
世界の歴史まっぷHPより)

ティムール朝略年表

14世紀後半 チャガタイ=ハン国、東西分裂 →戦乱へ
1370年 ティムール(位1370~1405年)、ティムール朝を樹立。

  • イル=ハン国征服(1393年)
  • キプチャク=ハン国への攻撃(1395年)
  • デリー=スルタン朝への遠征(1398年)
  • アンカラの戦い(1402年)オスマン帝国を破り、バヤジット1世を捕虜とする。
1409年 第3代君主シャー=ルフ即位(位1409~47年)、ヘラートに遷都。
→明やオスマン帝国との関係修復、帝国支配の強化によりティムール朝の安定期を築く。
1447年 第4代君主ウルグ=ベク即位(位1447~49年)。
※君主であると同時に天文学者でもあったウルグ=ベクは、サマルカンドに天文台を建設したことで有名。
1507年 ウズベクの侵攻により、帝国は滅亡。
→王子バーブルがインドへ逃れ、ムガル帝国を建国。

ティムール朝の社会と文化

ティムール朝では、サマルカンドヘラートの二つの都市が繁栄した。これらの都市には、ワクフと呼ばれる寄進財で建設された多数のモスクマドラサ庭園病院、その他公共施設が集まり、世界有数の大都市となった。特に、ティムール廟などに見られる美しい建造物が立ち並ぶサマルカンドは、世界遺産に認定され、現在にその繁栄ぶりが伝えられている。
また、ティムール、シャー=ルフ、ウルグ=ベクなど歴代君主の時代を通じて、これらの都市ではトルコ=イスラーム文化が花開いた。ウルグ=ベクによる天文台や、ナヴァ―イーの詩作、細密画や、『バーブル=ナーマ』を代表とするチャガタイ文学の興隆などがよく知られている。

サファヴィー朝(1501~1736年) ◎都:タブリーズ、イスファハーン

サファヴィー朝とは

ティムール朝衰退期の同地域ではトルコ系の諸部族が連合国家を建てて対立していたが、そうした中で頭角をあらわしたのが神秘主義教団、サファヴィー教団の長イスマーイールであった。彼はアナトリア東部で挙兵すると、1501年にはタブリーズを占領してサファヴィー朝を開いた。その後も東方に支配を拡げ、ティムール朝に次ぐ大国となったサファヴィー朝はアッバース1世の時代に最盛期を迎えたが、集権化の緩みとキジルバシュの活動の活発化などにより次第に弱体化して、1722年にはアフガン族のマフムードに首都を占領され、滅亡した。

〔アッバース1世(1571~1629年)〕
世界の歴史まっぷHPより)

サファヴィー朝略年表

1501年 イスマーイール1世、サファヴィー朝建国。

  • タブリーズを都とし、自らをシャー(イラン人の王)と名乗る。
  • ウズベクのシャイバーン朝を破り、イラン全域へと支配を拡げる。
  • 十二イマーム派の採用。
  • チャルディランの戦い(1514年)…イラン遠征に来たオスマン帝国のセリム1世に完敗し、帝国は一時的な危機に陥る。
1587年 アッバース1世、即位。(位1587~1629年)

  • イスファハーンへの遷都(1597年)
  • 集権化・領土奪還などを経て帝国を立て直す。
1736年 マフムードの侵攻により滅亡。

サファヴィー朝の社会

  • キジルバシュの形成と十二イマーム派
    サファヴィー朝では、武装化したトルコ系遊牧民族の騎馬集団キジルバシュが軍事の中核を担った。特に、イスマーイール1世には彼らの力を用いた領土拡大が盛んに行われてキジルバシュは周辺国家の脅威となったが、次第に特権的な勢力となっていった彼らに対し、アッバース1世は抑圧的な政策を取った。
    また、キジルバシュが極端なシーア派信仰者であったことも重要である。領土拡大で獲得したイランでは、住民のほとんどがスンナ派であったが、キジルバシュはイスマーイールをイマームの再来として崇拝し、一方でスンナ派に対抗する姿勢を見せた。そうした中、イスマーイールはシーア派の中でも穏健派にあたる十二イマーム派を採用し、シーア派化政策を進めた。
  • イスファハーンの繁栄
    アッバース1がタブリーズから遷都したイスファハーンは空前の繁栄を遂げたことで知られるが、その様は「イスファハーンは世界の半分」という言葉が生まれるほどであった。この都市は、アッバース1世が重視した交易のネットワークの中で、ヨーロッパ諸国との通商の要所として栄えただけでなく、「王のモスク」をはじめとする優美で均整の取れたドームを持つ宗教建築や、宮殿、庭園などの華やかな建造物で彩られたため、優れた芸術の都市として知られるようになった。

オスマン帝国(1299~1922年) ◎都:ブルサ、アドリアノープル、イスタンブル

オスマン帝国の成立

オスマン帝国は14世紀から20世紀初めまで続くイスラーム教の大帝国である。オスマン帝国の前身となったのは、セルジューク朝の地方政権ルーム=セルジューク朝の下、自立して戦士集団を率いた君侯(ベイ)であるオスマンが建てた君侯国であったが、そもそもオスマン帝国のようにアナトリアからその先へのトルコ人の流入が可能になった背景には、トルコ系民族による王朝のセルジューク朝がビザンツ軍を破ったマラズギルト(マンジケルト)の戦い(1071年)があった。ルーム=セルジューク朝の弱体化に乗じて、1299年にオスマン1世がアナトリア西北部に建国したオスマン帝国は、後のメフメト2世やセリム1世時代に領土を広げ、1520年に即位したスレイマン1世の治世には最盛期を迎えた。

〔オスマン1世(1258~1326年)〕
世界の歴史まっぷHPより)

オスマン帝国略年表(成立~全盛期まで)

1299年 オスマン1世(1299~1326年)、オスマン帝国建国。
ブルサを都とし、バルカン半島に進出。
1366年 ムラト1世、アドリアノープル(現エディルネ)に遷都。
1389年 バヤジット1世(位1389~1402年)、即位。

  • ニコポリスの戦い(1396年)…ハンガリー王ジギスムント率いるキリスト教軍を撃破。
  • アンカラの戦い(1402年)ティムール軍に敗れ、オスマン帝国は一時崩壊状態となる。
1453年 メフメト2世(位1444~46,1451~81年)、コンスタンティノープルを征服。

  • コンスタンティノープルを征服し、ビザンツ帝国を滅亡させる。
    →オスマン帝国再興。これより、コンスタンティノープルはイスタンブルと呼ばれるようになる。
  • 黒海制海権を得るとともに、バルカン半島での領土拡大も進める。

〔コンスタンティノープルの陥落(1453年)〕
世界の歴史まっぷHPより)

1512年 セリム1世(位1512~20年)、即位。

  • サファヴィー朝を破る。(1514年)
  • マムルーク朝を破り、エジプトを併合。(1517年)
    メッカ・メディナ両聖都の保護権を獲得すると、オスマン帝国のスルタンはスンナ派イスラーム世界の中心となる。
1520年 スレイマン1世(位1520~66年)、即位。

  • オスマン帝国の最盛期を築く。
  • 第一回ウィーン包囲の実施。(1529年)
  • プレヴェザの海戦(1538年)…スペイン・ヴェネツィア連合軍を破り、地中海制海権を獲得。
1517年 セリム2世、レパントの海戦でスペインの連合艦隊に敗れる。

オスマン帝国の社会と文化

  • 軍事制度・官吏登用法などの諸制度
    オスマン帝国はスルタンを中心とする専制君主制の帝国であったが、ここでは独自の軍事・官僚制度が整えられていた。以下の制度は内容までしっかりと覚えておきたい。

    • ティマール
      オスマン帝国の軍事封土制。
      地方のトルコ人騎士たちはスルタンに直属し、軍事奉仕の代わりにティマールと呼ばれる封土を与えられた。ティマール制はイクタ―制のように徴税権を与えるものであったが、このようにティマール(土地の所有権)を与えられたトルコ人騎士のことをシパーヒーという。
    • デヴシルメ
      オスマン帝国の特徴的な人材登用法(奴隷・官僚徴収制度)。キリスト教徒の臣民から強制的に男子を徴用し、イスラームへの改宗、教育と訓練を行わせた後、その能力に応じて官僚や常備軍、イェニチェリ軍団に採用する制度。
      この制度は強制徴用という形ではあるものの、当時のヨーロッパのような身分制社会とは大きく異なる、実力による優秀な人材の登用という側面を持っている。
    • ミレット制
      メフメト2世の時代に始まった宗教政策。「ミレット」とは、ギリシア正教、アルメニア=キリスト教、ユダヤ教などの宗教共同体を指すが、オスマン帝国では、彼らはイスラーム法の下での庇護民として貢納の義務と引き換えに自治が認められた。こうした宗教的な寛容さは、多岐に亘る宗教や民族を支配下に置いたオスマン帝国の支配において欠かせないものだった。
  • カピチュレーションの公認
    オスマン帝国では、スレイマン1世がフランス王フランソワ1世との同盟を結んだ16世紀半ばから、フランス商人の領内での居住と通商の自由が認められていたが、この特権のことをカピチュレーションと呼ぶ。スレイマン1世の治世には、この特権は慣習的なものであったが、これを正式に公認したのがその次のセリム2世である。カピチュレーションは、その後形を変えながら20世紀前半まで続いた。
  • イスタンブルの繁栄
    オスマン帝国の首都イスタンブルは、アジアとヨーロッパの中間に位置する文明の十字路として古くから栄えてきた。オスマン帝国の時代には、特に黒海と地中海の海上交易を結ぶ、流通の中心として繁栄しただけでなく、モスクを中心として公共施設が集まる華やかな帝都でもあった。イスタンブルには、イスラーム教モスク、アヤ=ソフィアとして転用されたビザンツ帝国時代のハギア=ソフィア聖堂があるほか、1557年にスレイマン1世の命により建造されたスレイマン=モスクが世界遺産として残り、現在に当時のイスタンブルの繁栄を伝えている。

〔スレイマン=モスク〕
Wikimedia Commonsより)

練習問題

  1. オスマン帝国内で、庇護民として自治が認められていた宗教別共同体は何と呼ばれるか。
  2. 1396年、ニコポリスの戦いでハンガリー王ジギスムント率いるキリスト教軍を撃破した時のスルタンは誰か。
  3. サファヴィー朝で国教とされた、穏健なシーア派を何派というか。
  4. スレイマン1世の時代から認められるようになったフランス商人への居住と通商の自由を何というか。
  5. ティムール朝がオスマン帝国を破ったのは何年のことか。
  6. サマルカンドに天文台を建設したことで有名なティムール朝第3代君主は誰か。
  7. メフメト2世がコンスタンティノープルを征服したのは何年のことか。
  8. ティムール朝滅亡後、インドに逃れた王子バーブルが建国した帝国は何か。
  9. 1514年、オスマン帝国のセリム2世がチャルディランの戦いで破ったサファヴィー朝の王は誰か。
  10. サファヴィー朝の全盛期を築いたのは誰の時代か。

・・・・・・・

(解答)

  1. ミッレト
  2. バヤジット1世
  3. 十二イマーム派
  4. カピチュレーション
  5. 1402年
  6. ウルグ=ベク
  7. 1453年
  8. ムガル帝国
  9. イスマーイール1世
  10. アッバース1世

→続きはこちら ムガル帝国の成立とインド=イスラーム文化

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参考資料

  • 木下康彦・木村靖二・吉田寅編『詳説世界史研究 改訂版』、山川出版社、2018年
  • 浜島書店編集部編『ニューステージ世界史詳覧』、浜島書店、2011年
  • 世界の歴史まっぷ
    • 最終閲覧日2020/9/23
  • Wikimedia Commons
    • 最終閲覧日2020/9/23

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こんにちは。 私は現役大学生ライターとして中高生向けの学習関係の記事を書いています。大学では美術史を専攻し、主に20世紀前半の絵画を研究の対象としており、休みの日は美術展に行くことが好きです。趣味は古い洋楽を聴くことです。中学高校時代は中高一貫の女子校に通い、部活と勉強尽くしの6年間を送りました。中学入学当初は学年でも真ん中より少し上程度の学力でしたが、中学2年生の夏から勉強に真剣に向き合うようになり、そこから自分の勉強法を見直し、試行錯誤を重ねる中で勉強が好きになりました。そうした経験も踏まえ、効率的な勉強の仕方やモチベーションの保ち方などをみなさんにお伝えできると思います。また、記事ではテストに出る内容だけでなく知識として知っていると面白い内容もコラムとして載せています。みなさんが楽しく学習する手助けとなれれば幸いです。