中世以降の世界の形成と東西交易の発展[たった15分で要点を総ざらい!受験に役立つ世界史ノート]

今回は、7世紀から15世紀ごろにかけての東西交易の発展について学びます。

それまでヨーロッパ諸国によって築かれてきた地中海世界を中心とする商業の様相は、7世紀にはイスラーム世界の拡大とともに大きな変化を見せ始めます。それ以降の、イスラーム王朝を中心に東西へと広がる交易網・情報伝達網は人やモノの移動を容易にし、物質的豊かさだけでなく、技術や文化、学問の発展をも促しました。ここでは特に、東西交易において大きく貢献したと考えられているムスリム商人の存在、そしてモンゴル帝国による交通網の発展と東西交流の促進に焦点を当ててみていきたいと思います。

東西にまたがる交易の発展

東西の交易や文化的交流は中世以降のヨーロッパイスラーム世界アジアアフリカをはじめとする諸地域の形成と発展とともに盛んになっていった。とりわけ、7世紀にはウマイヤ朝が、西は北アフリカからイベリア半島まで、東は内陸アジアまでという広範囲にわたる王朝を築き、イスラーム世界を拡大したことで、古代より続く地中海世界の構造が大きく変化した。その後建てられたアッバース朝の時代には広範にわたる商業ネットワークが形成されるようになり、東アフリカや紅海、インド洋、地中海の諸都市を結ぶ海洋交易が盛んになった。7~8世紀頃には、このようにして帝国の拡大・貨幣経済の発展などを背景に主にムスリム商人による東西交流の幅が広がっていた。

11世紀から12世紀にかけては、民族移動の混乱の収まりやイスラーム勢力の後退、農業生産の増大、人口の増加などを背景に地中海の制海権はジェノヴァやピサ、ヴェネツィアといったイタリア諸都市に移行した。そうした中で、この時代はヨーロッパ商業の再興と都市の発展の時代(「商業ルネサンス」)となった。なお、11世紀~12世紀におけるヨーロッパの商人たちによる貿易の活発化とイスラーム世界との交流の発展には、11世紀末の十字軍遠征が影響している。

12世紀以降も、ムスリム商人の活躍により地中海からインド洋に至る東西交易は活発に行われた。さらに、10世紀頃から海上交易に乗り出した中国商人たちは12世紀の南宋時代、13世紀後半のの時代のインド洋・東南アジア方面への海上交易ネットワーク形成の中で、ジャンク船と呼ばれる大型船に乗ってより広い海域世界への進出を実現させた。アジアの東西交易については海上交易だけでなく、草原の道オアシスの道を通じた人の移動・文化や物の流通が盛んであり、13世紀以降のモンゴル帝国の時代には「タタールの平和(パクス=タタリカ)」による秩序と安定が実現され、ユーラシア大陸の統合と駅伝制の整備によって東西の交流は一層の発展を遂げた。

ムスリム商人の活躍

ムスリム商人とは商業に従事するイスラーム教徒を指し、イスラーム商人やアラビア商人とも呼ばれる。7世紀のイスラーム帝国の拡大とともに海陸両路で東西諸地域へと活動範囲を広げ、以降の東西交易および諸地域の商業の発展に欠かせない存在となった。また、彼らの活躍はイスラーム教の布教とイスラーム圏の拡大という側面も持ち、広い活動領域の中でアフリカや東南アジア諸国のイスラーム化の要因ともなった。

〔ムスリム商人の海上交易路〕
世界の歴史まっぷHPより引用)

ダウ船の使用

ムスリム商人たちはダウ船と呼ばれる、大きな三角帆を備えた大型の木造船を使用して海上交易活動に従事していた。インド洋の季節風を利用するダウ船は、特に10世紀~11世紀のインド洋交易で活躍し、広範囲にわたるムスリム商人の商業活動を可能にした。10世紀頃には中国商人も東南アジア・インド洋海域への進出を始めており、中国人が使用したジャンク船とは競合関係にあった。ただ、13世紀後半の元代にはムスリム商人は保護の対象となっており、元の海上交易進出にはムスリム商人も荷担していたのではないかと考えられる。

〔ダウ船のイメージ(ダウ船が描かれた1937年の切手)〕
(Wikimedia commonsより引用

様々な地域で活躍するムスリム商人

ムスリム商人の中でも、とりわけ11~13世紀の東西交易の発展に大きく貢献したのがカーリミー商人であった。これとムスリム商人との違いは曖昧になりやすいが、カーリミー商人はアッバース朝衰退後、バクダードからカイロへと交易の中心が移行した11世紀イスラーム世界で、紅海からインド洋にかけての貿易を担ったムスリム商人を指すと考えればよい。彼らは特にアイユーブ朝マムルーク朝の保護を受けて活躍し、香辛料砂糖などの東西交易を行ったことから「胡椒と香料の商人」とも呼ばれた。

また、モンゴル帝国が築かれた13~14世紀には、モンゴルの貴族や王族と契約を結び、ユーラシア規模での商売で多額の利益をあげる、オルトク商人と呼ばれるムスリム商人が現れた。彼らは、このようなオルトクという商業形態で西アジアの金襴織物をモンゴルの王侯貴族にもたらしてユーラシアの文化にも影響を与えたとされている。

モンゴル帝国時代の東西交流

元代における東西交流の促進

13世紀、モンゴル帝国が栄えた頃は、元のもたらした安定と各地での整備を通じて東西交易がより促進された時代であった。元からは染付という中国を代表する陶磁器羅針盤を始めとする発明品・技術が、東南アジアからは胡椒などの香辛料が、イスラーム諸王朝からは染付の原料となるコバルトなどが、東アフリカからはが輸出され、アジア・ヨーロッパ・アラビア半島・アフリカという広範囲にわたる文物や特産品のやり取りが行われた。こうした交易の発展を支えたのは、海上交易の拡大だけではない。

まず、モンゴル帝国ではムスリム商人が保護され、商人たちの遠距離交通の安全が保障されていた。さらに、大運河の改修駅伝制の整備によって旅行者にも帝国内での安全が与えられたことで陸路での交通や交易・流通が盛んになった。このようにして元は当時の東西交易の柱となったため、都である大都はユーラシア大陸の中心とも言える一大都市へと発展した。

駅伝制とは?

駅伝制ジャムチ(站赤)とも呼ばれる交通通信網を整備する仕組みであり、中国では古代から用いられていた。モンゴル帝国ではユーラシア大陸の広大な範囲に広がる領域で適用され、東西交易の活発化に大きく貢献した。駅伝制においては、数十キロおきにジャムと呼ばれる宿駅が置かれ、そこで人馬が提供された。また、駅伝を利用する人々は許可証として金や銀でできた牌符(パイザ)という通行手形を持っていた。このような東西交通網の発達の中で、三大陸周遊記(旅行記)』で知られるモロッコの旅行家イブン=バットゥータ(1304~68)や、世界の記述東方見聞録)』で知られるヴェネツィアの商人マルコ=ポーロ(1254~1324年)などが行った大旅行が可能となった。なお、マルコ=ポーロは1275年に上都に至り、フビライに仕えたことで知られる。

〔マルコ=ポーロ(1254~1324年)〕
世界の歴史まっぷHPより)

確認問題

  1. モンゴル帝国では駅伝制が整備されたが、そこで発達した通行手形を何と呼ぶか。
  2. ムスリム商人が使用した、大きな三角帆が特徴の木造大型船を何と呼ぶか。
  3. 11~13世紀、紅海からインド洋にかけての海上交易を担った商人を何と呼ぶか。
  4. 11世紀~12世紀ヨーロッパにおける商業の復興と都市の発展の動きを何というか。
  5. 中国各地での大旅行で得た見聞について、マルコ=ポーロの口述を基に著された書物は何か。

・・・・・・・・・

(解答)

  1. 牌符
  2. ダウ船
  3. カーリミー商人
  4. 商業ルネサンス
  5. 『世界の記述(東方見聞録)』

→続きはこちら 明朝の政治と東アジア世界

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参考資料

  • 木下康彦・木村靖二・吉田寅編『詳説世界史研究 改訂版』、山川出版社、2018年
  • 浜島書店編集部編『ニューステージ世界史詳覧』、浜島書店、2011年
  • 世界の歴史まっぷ
    • 最終閲覧日2020/8/31

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こんにちは。 私は現役大学生ライターとして中高生向けの学習関係の記事を書いています。大学では美術史を専攻し、主に20世紀前半の絵画を研究の対象としており、休みの日は美術展に行くことが好きです。趣味は古い洋楽を聴くことです。中学高校時代は中高一貫の女子校に通い、部活と勉強尽くしの6年間を送りました。中学入学当初は学年でも真ん中より少し上程度の学力でしたが、中学2年生の夏から勉強に真剣に向き合うようになり、そこから自分の勉強法を見直し、試行錯誤を重ねる中で勉強が好きになりました。そうした経験も踏まえ、効率的な勉強の仕方やモチベーションの保ち方などをみなさんにお伝えできると思います。また、記事ではテストに出る内容だけでなく知識として知っていると面白い内容もコラムとして載せています。みなさんが楽しく学習する手助けとなれれば幸いです。