今回は、「内乱の1世紀」を経て帝政時代に入ったローマのその後の流れをまとめました。政治体制の変化や地理的拡大などの要点をしっかりと抑えて、古代ローマを得意分野にしましょう。
文化面では、古代ローマ人はギリシア人の文化を受け継いで実用的文化へと発展させました。特に古典古代の文化を代表する高度な建築や土木事業に関しては、現代の私たちをも驚かせるほどの技術力を誇りました。他にも古代ローマ世界では、文学・宗教など覚えるべきものがたくさんあるので、資料集なども使いながらしっかりと定着させるようにしましょう!
古代ローマの繁栄とキリスト教の成立
Contents
ローマ帝国
度重なる征服戦争の末、内乱状態となったローマを再びまとめ上げたのはオクタウィアヌスであった。彼によりローマの共和政が崩され、元首政が布かれるようになってからローマ市民は空前の平和を経験するが、その後3世紀にはまたもや危機的状態に陥ることとなる。ここではローマ世界分断前の古代ローマ最大の繁栄とその後を見ていく。
内乱の平定者、オクタウィアヌス
前31年に第2回三頭政治を率い、アクティウムの海戦でアントニウスを破ったオクタウィアヌスは翌年ローマに凱旋し、たちまちローマ世界の権力者となった。その後、前27年彼は元老院から「アウグストゥス(尊厳者)」という称号を与えられた。そんな彼が行った政治が元首政(プリンキパトゥス)である。
オクタウィアヌスは当初から共和政制度を尊重する立場をとり、「市民のなかの第一人者(プリンケプス)」すなわち元首と自称していた。しかし彼は政治上のほぼ全権を掌握しており、その実態は皇帝独裁であった。こうした政治の在り方を元首政という。彼の死後、その後を継いだティベリウス以降、以前のようなローマの共和政が戻ることはなくオクタウィアヌスが始めた帝政ローマを引き継ぐこととなった。
古代ローマの繁栄期―五賢帝時代
初代ローマ皇帝となったアウグストゥスの時代以降約200年間、古代ローマは空前の繁栄と平和の時代となる。(キリスト教徒大迫害を行ったネロ帝の時代のみ政治が乱れた。)この時代を「ローマの平和」(パクス=ロマーナ)と呼ぶ。その中でも最も繁栄した時代が五賢帝のころである。
<五賢帝時代(96-180)>
1.ネルウァ帝(位96-98)
2.トラヤヌス帝(位98-117)
- ドナウ川北方のダキア・メソポタミア・アッシリアなどを征服
→帝国領域が最大になる
3.ハドリアヌス帝(位117-138)
4.アントニヌス=ピウス(位138-161)
5.マルクス=アウレリウス=アントニヌス(位161-180)
- ストア派の哲人皇帝
- 中国では「大秦王安敦」と呼ばれた
〔ローマ世界地図〕
当時のローマ社会は自由人と奴隷からなっており、自由人の中でもローマ市民権を持つ上層市民と市民権を持たない下層市民がいた。しかし、次第にローマ市民権は拡大してゆき、212年カラカラ帝の時代には帝国の全自由人にローマ市民権が与えられた(アントニヌス勅令)。
また帝国の平和により商業活動も活発化し、属州経済ではスペイン・北アフリカ・ガリアとの交易により、そして遠隔地貿易では隊商貿易や季節風貿易により、世界各地の生産物が地中海世界に集まり、反対にローマの工芸などが世界に広まった。こうした商業活動の活発化は都市の繁栄をもたらし、そうして浸透したギリシア・ローマ風の都市文化は近代都市の形成の礎となった。
ローマ帝国の危機―軍人皇帝時代
- 軍人皇帝の時代
約200年間続いた「ローマの平和」も五賢帝最後の皇帝マルクス=アウレリウス=アントニヌスの時代から影を落とし始める。当時のローマは、北方にゲルマン人、西方にはパルティアという脅威が存在し、その上疫病も蔓延している状態であった。
そうした中で3世紀には帝国内が混乱状態となり、ローマは軍人皇帝時代に突入する。軍人皇帝時代には、短期間に多数の皇帝が即位しては殺された。さらに、西方ではゲルマン人の度重なる侵入により都市は崩壊し、東方ではウァレリアヌス帝がササン朝のシャープール1世に敗れて捕虜となった。 - 小作制(コロナトゥス)
ローマ帝国の衰退に伴って、農業生産の仕組みも変化した。ローマでは征服戦争以降、ラティフンディア(大規模奴隷制経営)という農業形態が採られていたが、征服が終わると奴隷の供給が減りラティフンディアでは立ち行かなくなっていった。そこでこれに代わって採用されたのが小作制(コロナトゥス)である。小作制とは、奴隷ではなく、都市の衰退に伴って貧困化し地方に逃げてきた下層市民を小作人(コロヌス)として働かせる方法であり、大所領での新たな農業生産形態となった。
専制ローマ帝国
再び混乱状態に陥ったローマ帝国を革新的な制度の導入によりまとめ上げたのが、284年に即位したディオクレティアヌス帝であった。しかし、ローマの政治は彼により元首政から専制君主政へと移行し、一時の秩序回復が見られたものの、後のコンスタンティヌス大帝の改革も空しく、最終的に古代ローマ帝国は分裂に終わる。ここでは、ディオクレティアヌス帝による統治から西ローマ帝国滅亡までの政治の流れを見ていく。
専制君主政―ディオクレティアヌス帝の改革
284年にローマ皇帝として即位したディオクレティアヌス帝は、ローマ帝国を東西に分けて統治することで軍人皇帝時代の社会混乱を収めることに成功した。分割された東西それぞれの地域では正帝と副帝の2人が統治するため、この統治体制は四帝分治制(テトラルキア)と呼ばれる。
さらに、ディオクレティアヌス帝は自らを「ユピテル(ゼウス)の子」と称し、皇帝位を神聖化して、ローマの政治体制を元首政から東方的専制君主政(ドミナトゥス)に変えた。彼の統治下では、ローマ共和政的要素が消え去り、元老院議員が統治に参加することはなかった。また、彼は皇帝権の強化に宗教の力を利用するため伝統宗教の復興を目指し、303年、宮廷内教徒の処刑や教会封鎖などの「キリスト教大迫害」と呼ばれる弾圧を行った。
しかしディオクレティアヌス帝の退位後、四帝分治制(テトラルキア)は崩れた。324年に全土を統一ローマ帝国としてまとめ上げ、ローマ社会を再建したのがコンスタンティヌス帝である。
コンスタンティヌス帝の改革
コンスタンティヌス帝は様々な改革により帝国の再統一と安定を図った。一方で、統治制度に関してはディオクレティアヌス帝の専制君主政を推し進める姿勢を取っていたため、彼の改革によりローマ社会はより強力な専制支配下に置かれた。そこでは国民は皇帝に使える臣民という身分となり、厳格な専制支配の元で官僚制が布かれ官吏の力が強大になった。
<コンスタンティヌス帝の改革>
- キリスト教の公認
コンスタンティヌス帝は帝国統一のため、313年のミラノ勅令でそれまで迫害されていたキリスト教を公認した。
- 下層民(コロヌスなど)の身分世襲化による税収の安定化
- コンスタンティノープルへの遷都
330年、東西の交通の要衝であったビザンティウムに新たな首都を建設し、コンスタンティノープルと改称。 - ソリドゥス金貨の発行
貨幣経済の安定のため、国際的に信用の高いソリドゥス金貨を発行した。後の東ローマでも使用され、ビザンツ帝国ではノミスマと呼ばれた。
〔ソリドゥス金貨〕
結果的には、こうした統治体制や改革もローマの分裂を免れることはできなかった。当時のローマ国内に目を向けると、重税による反乱が各地で発生していただけでなく、国外では東ではササン朝の侵入、西では375年に始まったゲルマン人の大移動といったような周辺地域の勢力がローマを脅かしていた。
そうした中で、ローマ帝国は完全な東西分裂を迎えた。
ローマ帝国の東西分裂
392年にキリスト教を国教化したことでも知られるテオドシウス帝は395年、自身の死に際し、ローマ帝国を東西に分割して子のアルカディウスとホノリウスに分け与えた。これ以降ローマは、東ローマ帝国と西ローマ帝国に分かれ、統一帝国となることはなかった。
東ローマ帝国(ビザンツ帝国)はゲルマン人の侵入を受けることが少なく、軍事的にも経済的にも繁栄し1453年の滅亡まで専制国家体制を保った。首都コンスタンティノープルの他にも、アレクサンドリアやアンティオキアなどの都市が繁栄した。一方で西ローマ帝国においては首都ローマの衰退が著しく、皇帝権も弱体化していた。476年、まだ幼い皇帝ロムルスがゲルマン人傭兵隊長オドアケルによって退位させられ、西ローマ帝国は滅亡した。
キリスト教の成立と発展
キリスト教の成立
キリスト教は1世紀のパレスチナで成立した。当時、パレスチナはローマ帝国の支配下にあったが、貧困や重税に苦しむ民衆に対し、ユダヤ教の司祭やパリサイ派は彼らの声に耳を傾けることはなかった。そうした中で人々は新たな救世主を求めるようになるが、それがナザレの生まれたイエスである。イエスはパリサイ派や祭司たちの律法主義と堕落に反対し、彼らを形式主義として批判した。そして、貧富の差の区別なき神の絶対的な愛と隣人愛を説き、神の国の到来と最後の審判を約束する福音を述べて、貧しい民衆や病気の人、差別を受けている人や、女性などが救世主(キリスト)としてイエスに従うようになった。
イエスは祭司やパリサイ派に反対したため、総督ピラトによって十字架にかけられて処刑された。しかしその後イエスは弟子たちの間で復活し、ここからイエスの死は人間の罪を贖う行為であったという信仰、キリスト教が生まれた。これ以来、キリスト教はペテロやパウロといった使徒たちの伝道活動によってローマ帝国各地に布教され、3世紀頃には帝国全土に広まっていたといわれている。
キリスト教の教典『新約聖書』はギリシア語のコイネーで書かれた。
ローマ帝国とキリスト教 (4~5世紀)
64年 |
ネロ帝による迫害 |
303年 |
ディオクレティアヌス帝による大迫害 …一神教であるキリスト教の信者は、当時のローマの慣習であった皇帝崇拝儀礼に参加しなかったため、反社会集団としてみなされ、ネロ帝による迫害からディオクレティアヌス帝による大迫害まで長い間国家からの迫害を受けていた。しかし、キリスト教の伝道が広まるにつれ帝国統治のためにキリスト教を認めざるを得なくなっていった。 |
313年 |
ミラノ勅令 …コンスタンティヌス帝がキリスト教を公認した。 |
325年 |
ニケ―ア公会議 …三位一体説を唱えるアタナシウス派が正統とされ、キリストを人間であるとするアリウス派は異端とされた。 |
361~363年 |
「背教者」ユリアヌス帝の治世 …古代の多神教の復活を唱え、ギリシアの伝統的宗教の復興を目指すも失敗。 |
392年 |
キリスト教国教化 …アタナシウス派キリスト教を国教化。 |
431年 |
エフェソス公会議 …キリストの神性と人性の両性論を唱えるネストリウス派が異端宣告される。ネストリウス派は後にササン朝・唐(中国)へ伝わり、景教と呼ばれた。 |
〔カタコンベ〕
当時のキリスト教徒たちは、ローマ市郊外にある地下墓地(カタコンベ)で迫害を逃れて礼拝していた。
実用的文化の発展
ローマ人はギリシアから様々な文化や知識を継承し、実用的文化として帝国支配に役立てた。さらにこうしたギリシア・ローマの「古典古代」の文化を地中海周辺の幅広い地域に広めたことはローマ人の文化面での最大の功績である。彼らの実用的文化において最も優れていたのが、建築・土木技術であり、そのいくつかが今日まで残り、文化遺産となっている。
〔ガール水道橋〕
都市には浴場・凱旋門・闘技場などの公共施設が揃い、高度な技術を用いて道路や水道橋が整備されていた。都市ローマではフォル(広場)を中心にして作られた、コロッセウム(円形闘技場/万神殿)や、カラカラ帝が作ったカラカラ浴場、コンスタンティヌスの凱旋門などが今もなお見られる。水道橋は、フランスのガール水道橋やスペインのセゴビアの水道橋が有名である。こういった建築物は、ローマ風の煉瓦や円形アーチを用いて作られたものが多く、技術力だけでなく古代ローマの情緒を現代に伝えている。
確認問題
- 共和政ローマにおいて、平民の権限拡大のため前367年に制定された法律は何か。
- 第二回ポエニ戦争の際のカルタゴの将軍は誰か。
- 内乱の一世紀の時代に、剣闘士を率いて大反乱を起こした人物は誰か。
- 第二回三頭政治を行った人物を全員答えよ。
- 各都市と個別に同盟を結び、それぞれと異なる権利と義務を与えるというローマの統治体制を何と呼ぶか。
- 五賢帝最初の皇帝は誰か。
- マルクス=アウレリウス=アントニヌスは中国では何と呼ばれていたか。
- コンスタンティヌス帝の治世に発行された金貨は何と呼ばれるか。
- キリスト教迫害時代にキリスト教徒たちが迫害を逃れて礼拝を行っていた場所を何と呼ぶか。
- ウァレリアヌス帝はササン朝との戦いに敗れて捕虜となった。この時のササン朝の皇帝は誰か。
・・・・・・・・
(解答)
- リキニウス・セクスティウス法
- ハンニバル
- スパルタクス
- アントニウス、レピドゥス、オクタウィアヌス
- 分割統治
- ネルウァ帝
- 大秦王安敦
- ソリドゥス金貨
- カタコンベ(地下墓地)
- シャープール1世
→続きはこちら 古代インド文明とは?
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参考資料
こんにちは。
私は現役大学生ライターとして中高生向けの学習関係の記事を書いています。大学では美術史を専攻し、主に20世紀前半の絵画を研究の対象としており、休みの日は美術展に行くことが好きです。趣味は古い洋楽を聴くことです。中学高校時代は中高一貫の女子校に通い、部活と勉強尽くしの6年間を送りました。中学入学当初は学年でも真ん中より少し上程度の学力でしたが、中学2年生の夏から勉強に真剣に向き合うようになり、そこから自分の勉強法を見直し、試行錯誤を重ねる中で勉強が好きになりました。そうした経験も踏まえ、効率的な勉強の仕方やモチベーションの保ち方などをみなさんにお伝えできると思います。また、記事ではテストに出る内容だけでなく知識として知っていると面白い内容もコラムとして載せています。みなさんが楽しく学習する手助けとなれれば幸いです。