中世西ヨーロッパ諸国の発展[たった15分で要点を総ざらい!受験に役立つ世界史ノート]

今回は12世紀半ばから15世紀頃にかけての西ヨーロッパ諸国について学びます。前回見たように中世の西ヨーロッパ全体の特徴としては、十字軍の遠征商業の発達都市の形成などを背景に領土拡大とともに、近代社会形成への歩みを進めつつあったことが挙げられますが、イングランドフランススペインポルトガルを始めとする西ヨーロッパ各国の内部はどのような状況だったのでしょうか。ここでは、特にイングランドとフランスの情勢に注目して整理したいと思います。それでは、みていきましょう。

中世ヨーロッパ世界
Part1 中世ヨーロッパ世界の形成
1.西ヨーロッパの形成
2.東ヨーロッパ世界の形成
Part2 十字軍と中世ヨーロッパの社会
1.十字軍による聖地回復運動
2.教皇権の衰退と教会大分裂
3.商業の発展と中世都市
Part3 中世西ヨーロッパ諸国の発展
.イングランド
.フランス
.スペイン・ポルトガル
.確認問題

 

Part3 中世西ヨーロッパ諸国の発展

イングランド

イングランドでは、1066年ヘースティングスの戦いノルマンディー公ウィリアムがアングロ=サクソン王朝を破ってノルマン朝を創始した。(ノルマン=コンクェスト(ノルマン人の征服))しかし、ノルマン朝は初代ウィリアム1世、その息子のヘンリ1世によるわずか1世紀ほどの統治で幕を閉じる。その後、ヘンリ2世を初代国王とするプランタジネット朝が成立したが、プランタジネット朝下のイングランドではフランスとの領土問題イギリス国内の議会と王権を巡る制度の問題などが巻き起こった。

12世紀以降のイングランド略年表

1154 ヘンリ2世プランタジネット朝初代国王に即位

 

  • ヘンリ1世の娘マティルダとランスのアンジュ―伯ジョフロワの間に生まれ、ヘンリ1世死去後の後継者となる。
  • 国王裁判の導入により王権を強化
    →新たな法体系であるコモン=ローの下、イングランド全土を統治。
  • 国王裁判権について大司教トマス=ベケットと対立。ベケットはヘンリの部下によって殺害された。
1189 リチャード1世即位

 

  • 即位と同時に第3回十字軍に参加し、サラディンとの戦いにおける雄姿によって獅子心王と呼ばれた。
  • フランス国内の領土を巡ってフィリップ2世と争い、戦死。(1199年)
1199 ジョン即位

 

  • フィリップ2世にフランス内の領土を没収される。(1202年)
  • カンタベリ大司教任免問題で教皇インノケンティウス3世に破門される。(1209年)
    14年にはブーヴィーヌの戦いでフランス軍に敗れ、イングランド国内では反乱が起こる。
  • 大憲章(マグナ=カルタ)」(1215年
1216 ジョンの子、ヘンリ3世即位

 

  • 貴族との合意を守らずに課税をし、貴族からの反発と内戦が起こる。
  • 貴族を率いたシモン=ド=モンフォールによって捕らえられ、実権を失う。シモンが65年に招集した議会には庶民を参加したが、これはイギリス議会の起源とも言われている。
1272 ヘンリの息子エドワード1世が即位、王位回復

 

  • 模範議会を招集。
1327 エドワード3世即位

 

  • 母がフランス王フィリップ4世の娘であることからフランス王位の継承を主張。
    百年戦争(1339~1453年)勃発。
  • ワット=タイラーの乱(1381年)
  • 百年戦争に敗北。(1453年)
1455 王位継承権をめぐってバラ戦争(1455~1285年)勃発。
1485 ヘンリ7世が即位し、テューダー朝を創始。

 

ランカスター家ヨーク家の間で対立は1461年、ヨーク家の勝利に終わったが、紆余曲折を経てテューダー家がヨーク朝を破り、1485年にテューダー朝が成立した。

プランタジネット朝とフランスの攻防

ヘンリ1世の死後、後継者争いの末、王位に指名されたヘンリ2世フランスのアンジュ―伯であった。そのためプランタジネット朝以降、イングランド王国はイギリス国内のみならず、フランス国内にも広大な領土を持つようになり、フランス王国との間で領土を巡って争いが繰り返されたが、リチャード1世ジョン王の時代には、フランス国王フィリップ2世に敗れて、多くの所領を失った。また、エドワード3世の時代には両国間の領土問題に加え、フランスの王位継承権を巡って1世紀にもわたる戦争が起こった。本来、国王間の対立を仲介する役割を担っていたはずの教皇が14世紀にはすでに権威を失いつつあったことを背景に勃発・長期化した百年戦争は、毛織物産業で栄えていたフランドル地方の領有権を巡る争いが両国の最大の対立要因であった。

イングランド国内では14世紀半ばのペストの拡大農民反乱の発生などが起こり、最終的には、カレーを除くフランス内のほぼすべてのイングランド所領は失われ、イギリスの敗北に終わったが、百年戦争中の封建領主の没落によって王権が強化したという側面がある。

イギリス議会制度の始まり

  • 大憲章(マグナ=カルタ)」(1215年)

ジョン王は教皇からの破門、フランス内の領土を失うといった悪政によって貴族の不満を招いた。その結果、1215年に貴族たちがジョン王に認めさせたのが、貴族の慣習的義務と権利を定義した大憲章(マグナ=カルタ)である。大憲章では、慣習的に認められてきた諸侯たちの権利や市民の自由を国王に認めさせるとともに、王権の制限を示されており、「王が法の下にあること」を認めさせたことに大きな意義があった。また、大憲章の中では議会の承認なく従来の慣習を破ることができない、すなわち議会政治の原則が定められたが、次に即位したヘンリ3世はこれを破って課税したことで貴族の反乱を招いた。

〔ジョン王〕

  • 模範議会の招集

シモン=ド=モンフォールはヘンリ3世に代わって支配者となると、議会を招集した。ここでは、聖職者や貴族のみならず都市住民も統治に参加することができた。これを基に、次の国王エドワード1世が招集した議会を模範議会と呼ぶ。模範議会は聖職者と貴族、騎士と市民の代表が集まる身分制議会であったが、こうしたイギリス独自の議会の形式は、後に上院/下院の二院制議会へと引き継がれていった。

フランス

カロリング朝断絶後の987年ユーグ=カペーカペー朝を創始して以来、14世紀初頭まではカペー朝、その後はヴァロワ朝の下で中世のフランスが形成された。12世紀頃、ルイ6世の治世下で王権を伸長していたカペー朝であったが、彼を継いだフィリップ2世第3回十字軍への参加、イングランドとの戦いなどを経て領土を拡大に成功し、強力な権力を持った支配者となった。その後のフランスでは、イングランドとの領土・後継者争いや、教皇との対立などがありながら、百年戦争後までに一層多くの領土と強大な王権を獲得するに至った。

12世紀以降のフランス略年表

1180 フィリップ2世、フランス国王に即位

 

  • 第3回十字軍に参加。(1189年)
  • プランタジネット朝ジョン王からノルマンディー、アンジュ―伯などフランス内のイギリス領を没収。1214年にはブーヴィーヌの戦いでジョン王を破り、フランス国内のほとんどのイギリス領を奪還し、カペー朝の王権を強固なものとした。
  • アルビジョワ十字軍(1209年)の開始
1226 ルイ9世が即位

 

  • アルビジョワ派を撲滅する。
  • 第6・7回十字軍を率いるも、遠征中にチュニスで死亡。
1285 フィリップ4世が即位

 

  • 対立関係にあった教皇ボニファティウス8世に対して、自らの立場を正当化し、知らしめるために、聖職者と貴族、都市住民をパリに招集。※これは三部会の起源であると考えられている。
  • アナーニ事件(1303年)
  • 「教皇のバビロン捕囚」
1337 ヴァロワ朝初代国王にフィリップ6世が即位

 

  • フランス国内に残るイングランド所領であったギュイエンヌを没収。
  • 百年戦争勃発。(1339~1453年)
  • ジャクリーの乱(1358年)
1422 シャルル7世が即位

 

  • 百年戦争に勝利。(1453年)

アルビジョワ十字軍

中世ヨーロッパで形成された十字軍は、聖地奪還を目的にしてヨーロッパの外へ遠征するものだけではなかった。例えば、アルビジョワ十字軍はヨーロッパ内で初めて、異端者殲滅を目的として戦った十字軍である。南仏に広がるキリスト教一派のアルビジョワ派(カタリ派)は異端とされており1209年フィリップ2世の時代に教皇インノケンティウス3世の要請によって、討伐の対象となった。ルイ9世の時代にはアルビジョワ派は完全に殲滅され、アルビジョワ十字軍は勝利を収めた。アルビジョワ十字軍参加者には、聖地十字軍と同じだけの恩恵が教皇によって与えられたという。

〔アルビジョワ十字軍〕(大英図書館蔵)

百年戦争の勝利

百年戦争は、イングランド王エドワード3世によるフランス国王継承権の主張をきっかけに約1世紀の間続いた。戦争の初めのうちはクレシーの戦い(1346年)、ポワティエの戦い(1356年)、アザンクールの戦い(1415年)でのイングランド軍の勝利、フランス国内での内乱などにより、イングランド王優勢の状態が続いたが、こうした戦況を逆転させ、フランスを勝利に導いたのがジャンヌ=ダルクである。幻視によって導かれてフランス軍に従軍し、オルレアンの包囲を解いた、16歳の少女ジャンヌ=ダルクはその後、シャルル7世の戴冠に貢献したが、1431年にはイギリス軍に捕らえられて弱冠19歳で火刑となった。

なお、フランス、イングランドの両国では戦時中の重税と荒廃に不満を持った庶民たちの反乱が起こり、国内は混乱状態にあった。フランスではジャクリーと呼ばれていた農民たちによる反乱が、イングランドでは聖職者ジョン=ボールによって率いられた農民たちによる反乱(ワット=タイラーの乱)が起こった。

スペイン・ポルトガル

12世紀以降のイベリア半島

12世紀のイベリア半島は、南部にイスラーム王朝が進出しており、北部から中部にかけてはキリスト教王国が勢力を保っている状態であった。イベリア半島の北側を占めるキリスト教国家は、東部のアラゴン王国(1035~1137年)、中部のカスティリャ王国(1035~1479年)、南西部のポルトガル王国という三国に分かれていたが、1469年にはカスティリャ王国の女王イサベルとアラゴン王国の王子フェルナンドの結婚によって両国は統合され、スペイン王国とポルトガル王国という現在の形になった。両国はともに、堅固な王政の確立と中央集権に努め、ポルトガルではさらにエンリケ航海王子らによる積極的な海外進出が行われた。

レコンキスタ(国土回復運動)

イベリア半島のキリスト教国家である三国は、半島に侵入してきたイスラーム勢力に対し、11世紀頃から活発な反撃運動を始めた。これをレコンキスタ(スペイン語で「再征服」の意。)と呼ぶ。こうした国土回復運動は、この地域にイスラーム支配が及び始めた8世紀初めに始まったが、1031年の後ウマイヤ朝滅亡を機に活発化した。

ポルトガル・アラゴン・カスティリャの王は互いに領土争いを進めながら、イスラーム勢力を南へと追い詰め、1212年、カスティリャ王とアラゴン王はムワッヒド朝に対する決定的な勝利を収めた。13世紀には、僅かに残るイスラーム支配地域にナスル朝が創始されたが、1492年グラナダ陥落によって滅亡した。これをもってレコンキスタも終了を告げた。

〔レコンキスタ 地図〕
世界の歴史まっぷHPより引用)

確認問題

  1. 756年、「ピピンの寄進」によって教皇の所領となった地域はどこか。
  2. ロタール1世の死後、870年にフランク王国の再分裂が定められた条約を何と呼ぶか。
  3. ヘラクレイオス1世の時代のビザンツ帝国で採用された、地方防衛システムは何か。
  4. 12世紀以降、ヨーロッパの商業において地中海とバルト海の両商業圏を結ぶ中継地として栄え、大規模な定期市などで知られる地方はどこか。
  5. 百年戦争勃発時のイングランド王とフランス王の名を答えよ。
  6. フィリップ4世が聖職者と貴族、平民の三身分の代表を招集した議会を何と呼ぶか。
  7. 中世都市において、手工業者からなる同職ギルドが市政参加を求めて起こしたのは何か。
  8. 中世封建社会では、封建領主は国王の役人の立ち入りや徴税を拒否する権利を持っていたが、これを何と呼ぶか。
  9. 百年戦争中のイングランドで起きた農民反乱ワット=タイラーの乱を率いた人物は誰か。
  10. 1303年、アナーニ事件でフィリップ4世に捕らえられて憤死した教皇は誰か。

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(解答)

  1. ラヴェンナ地方
  2. メルセン条約
  3. テマ制(軍管区制)
  4. シャンパーニュ地方
  5. エドワード3世、フィリップ6世
  6. 三部会
  7. ツンフト闘争
  8. 不輸不入権
  9. ジョン=ボール
  10. ボニファティウス8世

→続きはこちら 宋代の社会と東アジア世界

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参考資料

  • 木下康彦・木村靖二・吉田寅編『詳説世界史研究 改訂版』、山川出版社、2018年
  • 浜島書店編集部編『ニューステージ世界史詳覧』、浜島書店、2011年
  • 世界の歴史まっぷ
    • 最終閲覧日2020/8/12

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こんにちは。 私は現役大学生ライターとして中高生向けの学習関係の記事を書いています。大学では美術史を専攻し、主に20世紀前半の絵画を研究の対象としており、休みの日は美術展に行くことが好きです。趣味は古い洋楽を聴くことです。中学高校時代は中高一貫の女子校に通い、部活と勉強尽くしの6年間を送りました。中学入学当初は学年でも真ん中より少し上程度の学力でしたが、中学2年生の夏から勉強に真剣に向き合うようになり、そこから自分の勉強法を見直し、試行錯誤を重ねる中で勉強が好きになりました。そうした経験も踏まえ、効率的な勉強の仕方やモチベーションの保ち方などをみなさんにお伝えできると思います。また、記事ではテストに出る内容だけでなく知識として知っていると面白い内容もコラムとして載せています。みなさんが楽しく学習する手助けとなれれば幸いです。