今回はイスラーム世界がどのように形成されたのかを確認します。イスラーム世界の形成を学ぶには、アラビア半島のメッカという都市で7世紀初めに誕生したイスラーム教の成立から始めなくてはなりません。実際、その後のウマイヤ朝、アッバース朝、後ウマイヤ朝から続くイスラーム世界の発展は、普遍宗教としてのイスラーム教の広がりと共にありました。また、古来の西アジアの諸文明を継承して築かれたイスラ―ム文化は、あらゆる分野において極めて高度な水準を保ち、ヨーロッパ文明の形成にも多大な影響をもたらしました。一時、西はイベリア半島、東はインド北西部までに至る巨大な範囲を占め、長い歴史の中で文化的・政治的に東西各地域との関わり合いを通じて発展してきたイスラーム勢力は、現在でも世界各地に残り続けています。
イスラーム世界の形成と発展
Part1 イスラーム世界の形成とアッバース朝
1.イスラーム教の誕生
2.ウマイヤ朝の樹立
3.アッバース朝による「イスラーム帝国」の形成
4.アッバース朝の終焉とイスラーム帝国の分裂
Part2 トルコ系イスラーム王朝の樹立
1. 東方イスラーム世界の発展
2. シリア・エジプトの王朝
3. 北アフリカ・イベリア半島のイスラーム王朝
Part3 イスラーム文明と各地のイスラーム化
1.イスラーム世界の拡大
2.イスラーム文明
3.確認問題
Part1 イスラーム世界の形成とアッバース朝
Contents
イスラーム教の誕生
イスラーム教はアラビア半島西部のメッカという都市で誕生した。メッカは「オアシスの道」や「海の道」と呼ばれる東西の交易路が6世紀後半に途絶えたことによって、それに代わる東西の中継貿易地点として繁栄した都市であり、メッカの商人たちは交易の独占を通じて巨万の富を得ていた。
創始者ムハンマドの登場
イスラーム教の創始者は、ヒジャーズ地方のメッカを支配していたクライシュ族の商人、ムハンマドである。彼は610年、自らが唯一神アッラーの言葉を授けられた預言者だと自覚するようになり、厳格な一神教であるイスラーム教を開いたとされている。当時のアラブ人たちの間では偶像崇拝を認める多神教が中心であったが、ムハンマドは偶像崇拝を禁止し富の独占を批判した。
ムハンマドの出生地であるメッカは、商業の都市であるとともに多神教の参詣地でもあったため、彼は多くのアラブ人からの迫害を受けた。そこで622年、彼は少数の信者とともにメディナに移住して、そこにウンマという共同体を建設した。この移住をヒジュラ(聖遷)と呼ぶ。メディナ移住後、ムハンマドはメッカの軍勢を倒した後、カーバ神殿(メッカの中心をなす多神教の神殿)にある偶像を破壊し、ここをイスラーム教の聖殿とした。
こうしてムハンマドは強大な権威を持つと、アラブ諸部族は彼に従うようになり、アラビア半島はイスラーム教によって緩やかに統一された状態となった。
〔カーバ神殿〕
イスラーム教の聖典『コーラン』
『コーラン』は、ムハンマドの死後にアラビア語で編まれたイスラーム教の聖典である。預言者ムハンマドによって残された神の言葉を集成したもので、この中には「神の唯一性」と「神への絶対服従」が明確に示されている。
イスラーム教は民族に関係しない普遍宗教であり、すべてのイスラーム教徒は『コーラン』に記された信仰生活・政治的活動・社会的活動などに関するあらゆる教えを守らなくてはならない。
※六信五行…イスラーム教徒が信ずるべき六つの信条と実行すべき五つの義務のこと。
- 六信:神(アッラー)、天使、啓典、預言者、来世、神の予定
- 五行:信仰告白、礼拝、喜捨、断食、メッカ巡礼
〔コーランのイメージ〕
ウマイヤ朝の樹立
ムハンマド死後の指導者
ムハンマドに次ぐ指導者としてイスラーム教徒から選出されたのは、クライシュ族出身のアブー=バクルであった。後継者を意味する「カリフ」となったアブー=バクルはジハードを行い、ムハンマドの死後に離反した多くのアラブ諸部族を平定するとともに、シリア、イラク、イランへの征服活動を開始した。各征服地には軍営都市(ミスル)が建設され、多くのアラブ人が家族を伴って各地に移住した。
カリフの地位には、アブー=バクルに続いてウマル、ウスマーン、アリーが選出されたが、彼らの正統性については意見が分かれていた。イスラーム教徒の内で多数派であるスンナ派は4人のカリフの正統性を認め、アリーまでの4人を「正統カリフ」と呼んだ。一方で、少数であるシーア派の人々はアリーのみを正統とし、他の3人のカリフを認めない立場をとった。
ウマイヤ朝の成立
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ウマイヤ朝の領土拡大
- 4人目のカリフであるアリーが暗殺されると、7世紀半ばにシリア総督ムアーウィヤがカリフとなりダマスクスにウマイヤ朝を開いた。8世紀に入るとウマイヤ朝は、東はソグディアナやインド西北部まで、西は北アフリカを経てイベリア半島にまで征服を進めた。さらにフランク王国にも攻め入ったが、732年にはトゥール=ポワティエ間の戦いでカール=マルテルに敗れ、それ以上の征服は叶わなかった。ヨーロッパへの征服拡大は実現できなかったものの、領土拡大とともにカリフの権力は強大化した。
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アラブ人による征服地支配
- ウマイヤ朝が新たに得た広大な征服地では、各地のミスルに移住したアラブ人が現地の先住異民族を支配した。先住民にのみ、地租(ハラ―ジュ)と人頭税(ジズヤ)が課せられ、彼らにはイスラーム教への改宗が求められた。例外的に、キリスト教とユダヤ教、ゾロアスター教の信者は、イスラームの認める啓典を持つことから庇護民(ズィンミー)として貢納と引き換えに信仰の自由が認められていた。
- 『コーラン』では民族によらないすべてのイスラーム教徒の平等が説かれるが、ウマイヤ朝はアラブ人が権力を持つ強圧的な支配を布いた。次第に、こうした矛盾を批判するマワーリー(征服地の新改宗者)や一部のアラブ人は、ムハンマド一族を指導者とするべきであると主張するアッバース家を支持するようになった。
アッバース朝による「イスラーム帝国」の形成(750~1258年)
〔イスラーム帝国〕
(世界の歴史まっぷHPより)
アッバース朝の成立
アラブ人による強力な支配体制を布いていたウマイヤ朝を倒したのはアッバース朝であった。アッバース朝は750年にカリフとして即位したアブー=アルアッバースによって開かれ、751年にはタラス河畔の戦いで唐軍を破った。2代目カリフ、マンスールの時代には駅伝制と軍隊が整備され、アッバース朝の基礎が築かれた。彼はさらにティグリス川西岸に新都となる円形の都市、バクダードを建設した。バクダードは「オアシスの道」「海の道」を通じた交易の結節点として栄えた。
「イスラーム帝国」の形成
アッバース朝時代にはそれまでのアラブ人の特権を廃し、イスラーム教徒の平等が実現された。そのため、ウマイヤ朝が「アラブ帝国」と呼ばれるのに対し、アッバース朝は「イスラーム帝国」と呼ばれる。それまでイスラーム教徒であってもアラブ人以外には課されていた人頭税は、イスラーム教徒であれば課されることはなくなった。逆に、地租はアラブ人に対しても課されるようになった。また、アラビア語はイスラーム教徒の共通語となった。このような変革と共にアッバース朝ではイスラーム法に基づいて、イスラーム教という共同体に主眼を置いた政治が行われた。アッバース朝は、786年に即位したハールーン=アッラシードの時代に最盛期を迎え、バグダードの人口は100万人にまで上った。
〔ハールーン=アッラシード〕
アッバース朝の終焉とイスラーム帝国の分裂
8世紀半ばから、後ウマイヤ朝の樹立とアッバース朝の勢力衰退、各地の独立王朝樹立によってイスラーム帝国は分裂期を迎える。10世紀のファーティマ朝建国以降には、イスラーム世界に3人のカリフが同時に存在する政治的混乱状態となった。
後ウマイヤ朝の成立
アッバース朝の建国後、ウマイヤ家のアブド=アッラフマーンはイベリア半島に逃れて後ウマイヤ朝を建国した(756年)。アッバース朝とは対立関係にありながら、バグダードの文化は吸収し続け、首都コルドバを中心に高度なイスラーム文化を築いた。
最盛期を築いたアブド=アッラフマーン3世は北アフリカを征服すると、自らをカリフと称した。
〔アブド=アッラフマーン3世〕
アッバース朝の終焉
アッバース朝の黄金期を築いたハールーン=アッラシードの死後、帝国内の各地で独立王朝が樹立するようになる。イランではターヒル朝が、エジプトではトゥール―ン朝が、ソグディアナではサーマーン朝が樹立したが、これらの王朝では各地のアミール(将軍)がカリフの委任を受ける形で統治を行った。こうした流れの中でカリフの権力は衰退していた。また、10世紀初めに北アフリカに建国されたファーティマ朝(909~1171年)はアッバース朝に対立するカリフによって率いられた。ファーティマ朝は969年のエジプト征服に続いて首都カイロを建設したが、3人のカリフが並存するイスラーム世界において、次第にその中心はバクダードからカイロへと移っていった。
946年には、イランの独立王朝ブワイフ朝(932~1062年)がアッバース朝の首都バクダードに入城し、カリフから大アミール(将軍たちの第一人者)の称号を与えられた。これをもってアッバース朝が即座に滅亡したわけではないが、「イスラーム帝国」として性格づけられるアッバース朝は終焉を迎えた。
→続きはこちら トルコ系イスラーム王朝の樹立
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参考資料
- 木下康彦・木村靖二・吉田寅編『詳説世界史研究 改訂版』、山川出版社、2018年
- 浜島書店編集部編『ニューステージ世界史詳覧』、浜島書店、2011年
- 世界の歴史まっぷ
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- いらすとや
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- Droid.informer HP
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こんにちは。
私は現役大学生ライターとして中高生向けの学習関係の記事を書いています。大学では美術史を専攻し、主に20世紀前半の絵画を研究の対象としており、休みの日は美術展に行くことが好きです。趣味は古い洋楽を聴くことです。中学高校時代は中高一貫の女子校に通い、部活と勉強尽くしの6年間を送りました。中学入学当初は学年でも真ん中より少し上程度の学力でしたが、中学2年生の夏から勉強に真剣に向き合うようになり、そこから自分の勉強法を見直し、試行錯誤を重ねる中で勉強が好きになりました。そうした経験も踏まえ、効率的な勉強の仕方やモチベーションの保ち方などをみなさんにお伝えできると思います。また、記事ではテストに出る内容だけでなく知識として知っていると面白い内容もコラムとして載せています。みなさんが楽しく学習する手助けとなれれば幸いです。