隋・唐の社会と東アジア文化圏[たった15分で要点を総ざらい!受験に役立つ世界史ノート]

今回は中国、隋・唐の社会や制度を整理したいと思います。漢王朝の滅亡以降の小国分裂時代を経て、再び南北統一を果たしたはわずか2代、38年間で相次ぐ反乱と皇帝殺害により滅びることとなりましたが、その後1000年以上中国で受け継がれる科挙という官吏登用制度を整えるなど、後世に残した影響は少なくありません。唐代には、律令国家体制が整えられました。隋・唐の時代には周辺民族にその文化や制度が取り入れられましたが、そうした中国を中心とする地域を「東アジア文化圏」と呼びます。

隋・唐と東アジア文化圏の形成
Part1 隋・唐の社会と東アジア文化圏
1.隋の統一国家形成と滅亡
2.律令国家、唐の発展
3.東アジア文化圏の形成
Part2 「開元の治」から唐の滅亡へ
1.律令国家体制と唐の崩壊
2.唐代の社会・文化
3.確認問題

 

Part1 隋・唐の社会と東アジア文化圏

隋の統一国家形成と滅亡

は581年、北周の外戚楊堅によって建国された。当時の中国は五胡十六国時代に続く南北朝分裂状態にあったが、楊堅は文帝として皇帝に即位すると、589年には南朝のを滅ぼして中国を統一した。文帝は北朝の制度を引き継ぐ形で改革を進め、さらにその子煬帝が皇帝となると急進的な政策を推し進めたが、その結果国内の混乱を生み、親子二代で隋は滅びてしまった。

楊堅(文帝)による中国統一

文帝(位581~604年)は隋を建国すると、大興城を建設して都を北周時代の長安城から移すことで政治の刷新を示した。を滅ぼして中国統一を果たすと、均田制府兵制を基盤とする体制を整えた。

〔文帝(位581~604年)〕

均田制・府兵制とは?

  • 均田制
     南北朝時代の北魏で始まった土地制度。国家が人民に土地を分与して、そこで得た生産物の一部を国家に納めさせ、一定期間経つと土地を返却する制度。北魏から唐まで実施され、律令政治の柱となった。
     文帝はこれを改革し、官人永業田の制度(官位に応じて一定の土地の世襲を認める制度)を作った。
  • 府兵制
     南北朝時代の西魏に始まり、唐まで行われた軍事制度。兵農一致(※後の煬帝の改革による)の徴兵制であり、農民には交替で都や辺境での兵役が義務付けられた。
    その際、武器は自前で調達する必要があったため、農民は重い負担を負っていた。唐代に均田制が行き詰まると、それに応じて府兵制もままならなくなってゆき、唐の末には府兵制は完全に行われなくなった。

煬帝の政治と隋の滅亡

文帝の子、煬帝が皇帝に即位すると、制度改革やインフラの整備、周辺地域への遠征など精力的に政策を行い、新しい中国の体制を次々と整えた。しかし、それらはあまりに性急な進め方であるとともに、多大な人力と税金を要した。612年からの三度にわたる高句麗遠征が失敗に終わると、国内の混乱を抑えることもできないままに、618年に煬帝は側近に殺害され、隋は滅亡した。

<煬帝の政治>

  • 諸制度の改革
    役を庸で代納させる制度を整えた他、均田制租調庸制の改革、府兵制の改革などを行った。
  • 科挙の開始
    魏の曹丕(文帝)によって始められてから、魏晋南北朝時代を通じて長く採用されてきた九品中正を廃止し、科挙という新たな官吏登用制度を開始した。科挙は、科目試験によって人材を抜擢する制度であり、唐の時代に本格的に整備されて以降清代まで約1300年間にわたって採用された。(※元代に一時的な中断あり)
    科挙の導入は魏晋南北朝時代の地方分権体制から、中央集権的体制への移行をもたらした。
  • 大運河の建設
    大運河によって、軍部・政治の中心であった長安と経済が栄えていた江南を南北に結んだ。

〔大運河〕

  • 周辺諸国への遠征
     東突厥林邑に巡行し、隋の威力を示した。
  • 大索貌閲の実施
     煬帝による性急な政策のためには、人力や租税の確保が必須だった。そこで、609年には大策貌閲という厳しい戸口調査が実施され、この年には漢代の水準と同じ程度の人口が記録された。

 以上のような煬帝の政策は、人々の負担を増大させたため国内の反乱や犯罪を招いた。煬帝は反乱収束を待たずして618年に殺害され、わずか38年間で統一国家、隋は滅亡した。

 

律令国家、唐の発展

唐の建国

国内の混乱状態にあった隋で頭角を現したのが李淵であった。李淵は隋の官僚たちの支持を得て長安に入ると、煬帝の死去後、高祖として皇帝に即位してを建国した。次にその息子の一人である李世民太宗として皇帝位を継ぎ、周辺諸国との外交で危機を乗り越え、次の高宗の時代にかけて、唐はこれまでにないほどの大帝国にまで発展を遂げた。ここでは唐の初期三代皇帝、高祖太宗高宗の政治を整理する。

<高祖(位618~626年)>

  • 唐の建国(618年)
  • 律令の施行
    律令の法典を完成させ、中央官制や均田制を整備した。

<太宗(位626~649年)>

  • 李世民の皇帝即位(626年)
    唐初期は巨大帝国とはならず、まだ各地で群雄が割拠していたが、李世民はその中で唐の最大敵対勢力であった洛陽の王世充を下した。続いて、玄武門の変(626年)を起こして兄の皇太子を倒すと、626年に太宗として皇帝に即位した。
  • 周辺諸国との抗争
    即位後、東突厥の頡利可汗が攻め入り、一時的に危機を迎えるが、盟約を交わして難を逃れた。630年には弱体化した東突厥を滅ぼし「天可汗」という称号が与えられた。さらに、西方の高昌国を滅ぼし、唐の領土拡大に貢献した。

<高宗(位649~683年)>

  • 最大版図に達する
    西方では西突厥を、東方では新羅と協力して百済と高句麗を滅ぼし、唐の最大版図に達する。
  • 羈縻政策の実施
    周辺の異民族に対しては、羈縻体制と呼ばれる間接的な統治体制をとった。羈縻体制の下では800前後もの数の羈縻州が置かれた。これらの州では皇帝に選ばれた長官による自治が認められたが、安西・北庭・安北・単于・安東・安南の6か所に設置された六都護府によって監督された。この統御体制は唐代まで引き継がれる。

〔高祖(位618~626年)〕

唐の律令国家体制

唐王朝最大の特徴は律令の整備である。唐の時代には律令の法典が完成され、律令国家体制と呼ばれる支配体制が布かれたが、こうした唐の体制は東アジア諸国の国家形成の手本となり、唐代の官僚制度はこうした法律に基づいて細かく運用された。

律令国家体制とは?

律(刑罰に関する規定)令(行政に関する規定)に基づく、国家統治制度。唐代には、律令を補う格(補足改正)式(施行細則)も同時に整備され、律・令・格・式の法体系が整えられた。一般に律令制の最盛期は唐に位置付けられ、日本をはじめとする東アジア諸国でもこうした体制が摂取されたが、唐代末の皇帝、玄宗の時代には律令体制を取り巻く諸制度が崩れだし、ついに律令制も消滅した。

<中央官庁の制度>

中央官庁は三省六部九寺一台で構成され、それぞれが政治の役割を担った。皇帝の下には、これらの官僚機構を取りまとめる宰相が置かれた。

三省・六部・九寺・一台とは?

  • 三省:
    中書省(皇帝が出す命令の草案作成・文書化)門下省(命令書の審議)尚書省(命令を実施)の三省からなる。門下省は中書省による草案を差し戻す権限(封駁)が与えられていた。
    尚書省の下には、六部が置かれ、それぞれの分野に分かれて詔勅を実施した。
  • 六部:
     吏部(人事)、刑部(司法)、兵部(軍事)、礼部(祭祀・教育)、戸部(財政)、工部(土木建築)の六つの部署から成る。
  • 九寺: 六部の下で行政の実務を行う機関。
  • 一台: 御史台のこと。官僚の不正行為や監察を行う。

<地方行政の制度>

州県制
唐では、隋で行われた州ごとの統治を継続して採用した。全国に広がる350の州と1560の県では皇帝が任命した役人に各地の統治が任された。方法自体は郡県制とほぼ変わらないが、唐代には全国が10の道に分けられ、道が州を管轄する道州県制がとられるようになった。(※玄宗の時代に15道に増えた。)

<その他・唐の諸制度>

  • 均田制
    北魏から行われてきた均田制だが、唐代になると、丁男(21歳以上60歳までの男性)に口分田80畝と永業田20畝が給付された。永業田とは世襲が許された土地を指すが、隋代以降官位や身分に基づく永業田の給付が行われ、唐代には官人永業田の給付によって均田制は身分的な大土地所有制度としても機能していた。
  • 租調庸制
    均田制のもと、農民には租(粟)調(絹や綿、布、麻など)庸(労役)といった納税が課された。均田制や租調庸制は、3年に1度作り直される戸籍に基づいて一人一人に徴発される個別人身支配の制度であった。租調庸制は唐末の均田制の崩壊とともに消滅し、両税法に取って代わられた。
  • 府兵制
    西魏の時代に始まった軍事制度で、全国の軍府を中央直属とする仕組み。唐代に折衝府と呼ばれるようになった軍府は全国に600ほど設置されていた。3人に1人の割合で選ばれた府兵は、衛士として都の警備や、防人として辺境防備にあたる義務が与えられた。

東アジア文化圏の形成

隋や唐の建国は中国の周辺諸民族に多大な影響を与えた。日本渤海をはじめとする東アジアの国や民族は隋唐と同じような中央集権的な仕組みの国家を形成し、その過程で中国の文化も摂取した。このようにして、東アジア諸地域は隋や唐を中心とする東アジア文化圏と呼ばれるものを形成した。

<隋・唐周辺諸民族>

〔7~9世紀の東アジア文化圏〕
(世界の歴史まっぷHPより)

  • 突厥(552~745):
    東突厥は隋の太宗によって一度滅ぼされ、それ以来中国王朝に服属していたが、682年に羈縻支配から抜け出して突厥第二可汗国が建国された。再び自立した突厥は8世紀半ば、ウイグルに攻め入られるまで、唐と父子関係を結んだ。ソグド文字を発展させて突厥文字を生み出し、北方遊牧民の文字文化を築いた。
  • ウイグル帝国(744~840):
    ウイグルは8世紀半ば、それまで北方で勢力を誇っていた同じくトルコ系遊牧民の突厥を破り、これに代わって中国北部から中央ユーラシアに広がる地域に強大な勢力を誇った。ウイグル帝国は唐の臣下でありながら、絹馬交易で莫大な利益を得たり、交易の中心であったソグド人を介してマニ教を取り入れるなどによって独自の豊かな文化を築いた。また、ソグド文字を発展させてウイグル文字を生み出した。
  • 新羅
    朝鮮半島では、6,7世紀以降新羅が勢力を伸ばした。高句麗や百済と対立関係にある新羅は唐と同盟を結び、百済を下した。その後唐が高句麗を滅ぼすと朝鮮半島の覇権を握ったが、その際に百済や高句麗の人々を治めるために骨品制という身分制度が作られた。唐から朝鮮半島領有権を奪取した後も、新羅は唐との冊封関係のもとで交流を続け、唐の文化や仏教を自国に取り入れた。
  • 吐蕃(7世紀~9世紀):
    7世紀前半、ソンツェン=ガンポの時代にチベット高原を統一する王国、吐蕃が建国された。王室の婚姻などにより唐の文化を積極的に取り入れた一方、インドの文化も摂取することでチベット仏教チベット文字などの独自の文化を築いた。
    8世紀には最大の支配力を持ったが、9世紀には内乱により弱体化。チベットの文化は8世紀半ば~9世紀にかけて雲南省に興った南詔に影響を与えた。
  • 渤海(698~926年):
    朝鮮半島の東北部一帯に大祚栄が建てた王国。唐の冊封を受け、制度面でも唐から多くを摂取した。特に渤海の都、上京竜泉府は唐の長安を真似たものとして知られている。
  • 日本
    日本では遣隋使や遣唐使が派遣され、7世紀以降には隋唐の制度を取り入れた国家の仕組みが形成された。663年の白村江の戦いでは一度唐と新羅の連合軍に敗れるも、その後の唐との関係性は穏やかであった。当初より、唐の土地制度や税制は日本にあった制度に組み替えられながら摂取されたが、8世紀以降は遣唐使による中国文化の流入が目立つようになり、唐の文化から影響を受けた天平文化が栄えた。

→続きはこちら 「開元の治」から唐の滅亡へ

 

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参考資料

  • 木下康彦・木村靖二・吉田寅編『詳説世界史研究 改訂版』、山川出版社、2018年
  • 浜島書店編集部編『ニューステージ世界史詳覧』、浜島書店、2011年
  • 世界の歴史まっぷ https://sekainorekisi.com/
    • 最終閲覧日2020/5/25

 

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こんにちは。 私は現役大学生ライターとして中高生向けの学習関係の記事を書いています。大学では美術史を専攻し、主に20世紀前半の絵画を研究の対象としており、休みの日は美術展に行くことが好きです。趣味は古い洋楽を聴くことです。中学高校時代は中高一貫の女子校に通い、部活と勉強尽くしの6年間を送りました。中学入学当初は学年でも真ん中より少し上程度の学力でしたが、中学2年生の夏から勉強に真剣に向き合うようになり、そこから自分の勉強法を見直し、試行錯誤を重ねる中で勉強が好きになりました。そうした経験も踏まえ、効率的な勉強の仕方やモチベーションの保ち方などをみなさんにお伝えできると思います。また、記事ではテストに出る内容だけでなく知識として知っていると面白い内容もコラムとして載せています。みなさんが楽しく学習する手助けとなれれば幸いです。