【中学受験】時代ごとに歴史を整理しよう~平安時代編②

前回は、平安時代その1として、桓武天皇を中心にした平安時代の幕開けについて、仏教との関係なども含めてまとめました。平安時代は、最初は天皇がリーダーシップをとることから始まりましたが、ときが経つにつれて実権を持つ階級が変わってきます。それが平安時代特有の「貴族政治」の幕開けです。

社会の歴史分野は苦手・・・という受験生の方も多いのではないでしょうか。なかには、歴史なんて昔のことなのに、なんで勉強しなきゃいけないの?とおっしゃる方もいらっしゃいます。

ですが、歴史の流れというのは現在のわたしたちの生活に密接にかかわるものです。たとえば、公民分野はまさに現代の社会について勉強する分野ですが、そこでは必ず「日本国憲法」について勉強しますよね。日本ではじめて憲法ができたのは聖徳太子の時代でした。その後大日本帝国憲法が制定され、最終的には今の日本国憲法に落ち着いています。

歴史を勉強することによって、たとえば憲法ひとつについてもその存在意義や、なぜ制定されているのか、ということを理解することができます。このように歴史の勉強をすることは単なる分野の勉強をするだけでなく、最近難関校でも出題される、時代横断的な問題や現代の日本について過去の歴史から考えさせるという問題にも対処できるようになるのでとても有用なのです。

たしかに、歴史分野は範囲が広いです。また、覚えなければいけない人名やできごと、場所など知識も多いです。しかも、勉強するのは5年生の後半の半年間と非常に短い期間で古代から現代までの歴史を駆け足で勉強することになります。そのため、毎回の授業で積み残してしまうことも少なくなく、弱点が増えることによって苦手意識を持ってしまう受験生の方は少なくないのです。

また、歴史の時代のなかには、〇〇時代とはっきり切れ目が分かれる時期もあれば、戦国時代や明治維新のように、いつがはじまりでいつが終わりなのかはっきりせず、混乱してしまうことが多いのも歴史を難しく感じさせる要因のひとつになっています。そして、そういった部分は差がつきやすいので、しっかり勉強できているかどうかによって合否の決め手になってしまうこともあります。

歴史に苦手意識を持たないためには、まずは「流れ」を意識することがとても大切です。細かい知識の暗記も必要ですが、どちらかというとその時代に起こったできごとの流れを把握し、それに関連する人物や場所を肉付けしながら覚えていくというイメージで学習を進めると覚えやすいですし定着しやすいです。

歴史で意識すべきなのは「5W1H」つまり、「いつ、だれが、どこで、なぜ、何のために、何をした」ということです。これが分かると流れをつかみやすくなるので、細かい知識ばかり覚えようとしなくても関連付けて理解することができます。そうすると、暗記の時間も効率よく使うことができ、また流れをつかんでいるので忘れにくくなります。時代と時代のつながりや境目の部分は少々厄介なところはありますが、なぜ新しい時代がはじまったのか、興味を持ちながら学習できると苦手意識を払拭できます

今回は、平安時代のなかでも、藤原氏による摂関政治、つまり貴族が実権を握った時期についてまとめてみます。平安時代は政治的にも文化の面でも日本が大きく変化した時代です。はじまりこそ桓武天皇による天皇主導の時代でしたが、上皇や貴族、武士など、さまざまな身分の人が力をつけて政治の中心になっていったという経緯があるので意識してみると良いでしょう。

藤原氏による摂関政治の幕開け

平安時代に強い権力を持った貴族と言えば、何といっても「藤原氏」です。藤原氏のはじまりは、天智天皇の側近として大化の改新を主導した中臣鎌足が、臨終間際に「藤原」の姓を天皇からたまわったことからです。つまり、平安時代に活躍した藤原氏は藤原鎌足の子孫なのです。

藤原氏は、奈良時代にも権力を握っていました。たとえば聖武天皇の皇后は藤原不比等の娘である光明皇后です。それまでは天皇家出身でなければ皇后になることはできませんでした。もし天皇が早くに亡くなり、子どもが小さい時には皇后が天皇の位につくこともあったからです。しかし、光明皇后は天皇家以外からはじめて皇后にのぼりつめた人です。そして娘である孝謙天皇は女性としてはじめて皇太子となり、そのまま天皇になりました。ですから、藤原氏は平安時代以前にも権力を握っており、財産も持っていたのです。

たとえば荘園といった土地をたくさん持っていた藤原氏は、寺院からの寄進を受けたりしてさらにその勢力を拡大し、平安時代においても強力な権力を持っていたのです。そして、聖武天皇の皇后が藤原氏出身であったことがさらなる勢力拡大につながり、藤原氏は自分の娘や親戚の娘を天皇と結婚させて、天皇の代わりに政治をおこなうようになっていったのです。

このような藤原氏による政治が「摂関政治」です。藤原氏出身の娘が天皇と結婚して子どもを産むと、その子は将来の天皇になる可能性がありました。そうすると、藤原氏は天皇の義理のお父さんやおじいさんになりますよね。そういった血縁関係を結ぶことによって、さらに権力が増大していったのです。

「摂関政治」は「摂政」あるいは「関白」として政治の実権を握るという政治手法です。藤原氏が摂政や関白という地位に就き、天皇の代わりに実際に政治をおkなったわけですね。

ここで、摂政と関白の違いについて見てみましょう。摂政は、天皇が子どもであったり女性のときに、代わりに政治をおこなう役職のことです。関白は、天皇は成人しているけれども、天皇の代わりに政治をおこなう役職のことです。

摂政は、実は今の日本国憲法にも定められています。天皇が病気などで職務遂行ができなくなったときに、皇太子が代わりに摂政をおこなうことになっています。実は平安時代から摂政という役職はあったのですね。

藤原氏はこの摂政や関白という地位を独占し、天皇を思うがままに操ることによって、政治の実権を握り続けました。また、ほかの貴族が天皇家との関係を深めることについても暗躍して蹴落としたりしたと言われています。これが平安時代の摂関政治の大きな特徴です。

ライバルは菅原道真

藤原氏は摂政や関白という地位を独占し、天皇家と婚姻関係を結ぶことによって勢力を伸ばしてきました。向かうところ敵なしで、ライバルの貴族を次々と蹴落として着々とトップ貴族としての地位を確立させていったのです。

なかでも藤原氏最大のライバルと言われたのが「菅原道真」(すがわらのみちざね)です。別名「菅公」(かんこう)と呼ばれることもあり、百人一首には菅公の名前で和歌を残しています。現代では、学問の神様として有名ですよね。全国に、菅原道真をまつった「天満宮」があり、受験生が学業成就のお守りをいただきに行くことも多いです。

菅原道真は、平安時代に、藤原氏とともに大活躍した貴族のひとりです。非常に勉強熱心で新しい政策を提案するなどしてめきめき頭角を現していきました。そうすると、朝廷のなかでもスピード出世していきます。藤原氏が独占していた政治でしたが、天皇やほかの貴族はそうした状態を良く思わないこともあったため、菅原道真の意見を取り入れることも少なくありませんでした。

菅原道真がおこなったことのひとつに、「遣唐使の停止」があります。894年のことです。ちょうど桓武天皇が都を平安京に移して平安時代がはじまってから100年なので覚えやすい年号ですね。遣唐使は日本と中国の文化交流のために重要な役割を果たしていましたが、船で往来するため難破してしまうことも少なくありませんでした。また、日本の国力も付いてきていたことも遣唐使の停止が提案された理由のひとつです。

遣唐使が停止されたことによって、唐(当時の中国)との交流が断たれるようになります。そうするとどうなると思いますか?唐の影響を受けなくなる、ということですよね。それまでは仏教についても空海の真言宗、最澄の天台宗も唐から持ち帰った密教と呼ばれるもので、唐の影響を強く受けてきました。遣唐使の停止によって文化的な影響を受けることがなくなったため、平安時代の日本の文化は「国風文化」と呼ばれます。時代と文化の名前は一致することも多いですが、この「国風文化」は試験でよく出題されます。平安とまったく違う名前なので混乱する受験生が多いところなので、しっかり押さえておきましょう。

このようにいろいろな提案をしながら菅原道真は順調に出世していき、朝廷で2番目にえらい「右大臣」という役職に就きました。

このような菅原道真の大出世を見て焦ったのが藤原氏です。権力を独占したかった藤原氏は、菅原道真を蹴落とすために天皇に「菅原道真が天皇の位を狙っている」と、謀反の動きがあると吹き込みます。いくら将来有望な菅原道真であっても、天皇の怒りを買ってしまえばその地位を保つことができません。藤原氏の思惑通り菅原道真は位から転落し、九州の大宰府(だざいふ)に流刑となり、京の都に戻ることなく一生を終えたのです。藤原氏にとっては、目障りな実力は貴族である菅原道真を追いやることで、権力を握り続けることに成功したのです。

大宰府=太宰府天満宮ではないので注意

藤原氏による偽の謀反の告発によって、菅原道真は九州の大宰府に流されてしまいました。大宰府は、九州の役所のことを指します。今日の都に戻ることもできずに大宰府の地で亡くなった菅原道真ですが、その死後、都で不吉なできごとが次々と起こります。たとえば京の都に雷が落ちたり、藤原氏や関係する貴族たちが突然死するなどといったことがありました。

当時は迷信深い人が多かったので、そういった不吉なできごとを目の当たりにした人々は「菅原道真の呪いだ!」と、菅原道真が無念の死をとげたことによるたたりによって不吉なできごとが立て続けに起こったと考えたのです。

そこで、菅原道真の霊を鎮めるために建てたのが「太宰府天満宮」という神社です。ここで気をつけていただきたいのは、「太宰府天満宮」と九州の役所である「大宰府」の「太」と「大」の字が違う、ということです。藤原氏のウソの告発で九州に流され、無念の中亡くなった菅原道真をまつるためには、朝廷の役所の名前を付けるのはまずい、と考えられたため、役所名をそのままつけることはやめて「太宰府天満宮」という名前を付けたと言われています。

今では天満宮は京都にもありますし、日本全国にありますが、その発端は菅原道真をまつる神社だったのです。学問ができた優秀なエリート政治家であった菅原道真をまつっているので、学問の神様として今でも多くの人が訪れています

全盛期を迎えた摂関政治

邪魔なライバル貴族を続々と蹴落としていった藤原氏は、さらに強い権力を手にし、摂関政治は全盛期を迎えます。その中心人物は「藤原道長」です。この人物は非常に重要人物なのでしっかり覚えておきましょう。

藤原道長には娘が4人いましたが、全員を天皇と結婚させます。上の娘を当時の天皇と結婚させたり、その間に生まれた幼子の天皇と下の娘を結婚させたりと、血縁結婚を繰り返して権力を握り、1016年に摂政となって大活躍しました。政治の中心の位につき、ときの天皇の義理の父、祖父として権力をふるうことができたので、藤原道長は大変ご満悦で、あるとき宴会の場で詠んだ和歌が有名だとしてよく知られています。

「この世をば 我が世とぞ思う 望月の かけたることを なしと思えば」

この和歌の意味は、「この世のすべては、自分のの思い通りだなあ。満月が欠けずに真ん丸なように、何も足りないものはなくて大満足だ」ということです。かなり満足していたようですね。あまりにごう慢だという声も聞かれたようですが、ときの権力者ナンバーワンだったので、誰も天皇に失礼だ、などということは言えなかったようです。

国風文化も花開く

藤原道長が権力を握っていた時代は、文化も花開いた時代でもありました。平安時代の文化は「国風文化」です。遣唐使の停止が原因で、日本では国特有の文化が発展しました。

そこで活躍したのが紫式部と清少納言という2人の女性です。紫式部は藤原道長の娘で一条天皇の后であった「彰子」(しょうし)の家庭教師でした。日本独自の国風文化の追い風もあり、「源氏物語」という、光源氏を主人公にした大大河小説を書いたのがこの紫式部です。一説では、光源氏のモデルは藤原道長だったとも言われています。紫式部も藤原一族でしたが、当時、天皇の后になるような人の場合下の名前も残っていますが、それ以外の女性は貴族であっても「○○の母」「○○の娘」といった呼び方をされており、本名が不明という人も多かったのです。紫式部も当然本名ではなく、「式部」というのは役職のひとつでした。

また、もうひとり覚えておきたい清少納言は、藤原道長の兄である藤原道隆の娘の「定子」の家庭教師であり相談役でした。定子も彰子と同じく一条天皇の后でした。つまり、定子と彰子がライバル関係なら、清少納言と紫式部もライバル関係・・・という状態で、お互い仲が悪かったようです。清少納言はが著した書物として有名なのは「枕草子」です。春はあけぼの、という書き出しで有名ですね。清少納言の「少納言」も役職名のひとつでした。

紫式部や清少納言のような女流作家が活躍した時代でしたが、それだけ当時の貴族の女性は力を持っていたということが分かります。彼女たちを中心に、国風文化の特徴のひとつである「かな文字」が使われ始めたということも押さえておきましょう。かな文字は、それまでの文字の中心であった漢字を崩した日本独自の文字です。いまのひらがなのもとですね。遣唐使の停止によってことばも国風文化の影響を受け、日本独自のものができたのです。ただし、政治文書などはまだ漢字で書かれており、文学作品でかな文字が使われることがほとんどで、また女流作家が先んじて使ったため、「女文字」とも呼ばれていました。

摂関政治のおとろえ

藤原道長は、世の中が自分の思うとおりになって言うことはない、という和歌を詠んだほど、天皇の外戚(結婚を介して親戚となること)として権力をふるい、政治を思うがままに操りました。藤原道長の時代は藤原氏、ひいては摂関政治の全盛期だったのです。

しかし、おごれるものは久しからず、藤原道長の絶頂期を境に、摂関政治はだんだんおとろえていきます。藤原道長は4人の娘を天皇と結婚させ、天皇の祖父としても力をふるいましたが、藤原道長の息子である藤原頼通(ふじわらのよりみち)は関白として活躍していましたが、藤原頼通が天皇に輿入れさせた娘にはなかなか子ども、次の天皇になるべき息子が生まれなかったため、天皇家とのつながりが弱まってしまったのです。藤原頼通の時代を境に、藤原氏の権力はだんだん弱くなっていったのです。

藤原頼通は、「平等院鳳凰堂」(びょうどういんほうおうどう)を建立した人物として有名です。10円玉に描かれていますね。史料問題でもよく出題されるので、平等院鳳凰堂や立てた藤原頼通については漢字で書けるように練習しておきましょう。特に藤原頼通の「通」は間違えやすいので注意してくださいね。漢字指定が主流となっている現在の中学入試では、特に固有名詞は漢字で書くことが必須です。最初から漢字で書けるようにしておきましょう。

まとめ

794年に桓武天皇が京都に平安京を造ってから始まった平安時代。最初は天皇中心の政治でしたが、藤原氏の台頭によって摂関政治へと政治の形が変わっていき、実力者も変わっていきました。

特に藤原氏は自分の娘を天皇と結婚させることによって天皇の義理の父として、あるいは天皇の祖父として天皇の代わりに実質的に政治をおこなう摂政・関白として権力を握り、摂関政治をおこないました。それとともに、藤原氏以外のライバル貴族を続々と蹴落として、養殖を独占したのです。

一方で、文化発展には熱心だったので、平安時代は日本特有の国風文化が発展し、ほかの時代に類を見ないほど特徴のある文学作品や建物などが残されています。

藤原氏がどのように政治権力を握り、摂関政治をおこなったこと、最盛期、衰えのきっかけとその時期について、年表などでしっかり確認しておきましょう。人物とできごとをリンクさせて覚えると定着しやすいですよ。ぜひやってみてください。

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