【中学受験】社会・歴史〜仏教の伝来から聖徳太子、聖武天皇の布教、平安仏教〜

紀元前、インドのブッダ釈迦)が創始した仏教は、6世紀大陸から日本に伝来広まっていきました。今回は仏教の伝来から聖徳太子聖武天皇などにより広められていった過程と、平安仏教について詳しく説明していきたいと思います。

仏教伝来

インドブッダ釈迦)が創始した仏教は中国に伝わり、中国から朝鮮半島に伝えられました。日本にも百済[i]聖明王[ii]の使いにより伝わったと言われています。伝来の時期については以下の2つの説があります。

  • 『日本書紀[iii]』552年(欽明13年)
  • 『元興寺縁起』『上宮聖徳法王帝説[iv]』538年(宣化3年)

飛鳥時代 聖徳太子

日本には古来から神道が信仰されており、伝来当初はあまり仏教は広まりませんでした。しかし、推古天皇摂政になった聖徳太子が積極的に仏教を取り入れた政策を行い、仏教が次第に根付いていきました。具体的な方策についてみていきましょう。

聖徳太子は『三経義疏』という『法華経』『維摩経』『勝鬘経』の3つの経典注釈書を著しました。3つの経典の中でも特に『法華経』が広く読まれました。また、小野妹子を初めての遣隋使として派遣し、その後も積極的に遣隋使や留学生を派遣し仏教を学ばせました。

更に当時栄えた飛鳥文化は最初の仏教文化ともいうべき仏教が色濃く反映された文化でした。大王や豪族らは氏寺を建立し、有名な氏寺は蘇我氏の飛鳥寺法興寺)、聖徳太子の斑鳩寺法隆寺)、秦氏の広隆寺などです。仏像も多く作られ有名な仏像は法隆寺の百済観音像、広隆寺弥勒菩薩半跏思惟像などです。 

法隆寺

奈良時代 聖武天皇

聖武天皇が即位した時代は、藤原氏の台頭などによる政治不安で内乱が続き、更に遷都を繰り返し、安定しませんでした。仏教を厚く信仰していた聖武天皇は鎮護国家の思想のもと、平和で安定した社会を目指しました。

聖武天皇が打ち出した大きな政策が2つあります。1つは国分寺建立の詔でした。この詔に酔って国ごとに国分寺・国分尼寺を建てさせました。

もう1つは大仏建立の詔です。そして始まったのが東大寺の大仏の造立です。大仏造立には約10年の歳月がかかり、開眼供養の儀式が行われたのは聖武天皇の娘である孝謙天皇が上位し太上天皇になった頃でした。 

鑑真

唐招提寺

奈良時代の有名な僧が鑑真です。鑑真はの僧であり、幾度も来日を試みるも失敗し6度目にやっと日本に到来し、律宗の祖となりました。鑑真が建てた寺が唐招提寺です。

行基

奈良時代の僧。薬師寺で学んだ後各地に遊行し民衆に向けて教えを説きました。しかし、当時の朝廷は寺の敷地内以外での布教を禁じており、行基は法令に反しているとされました。一方で行基は朝廷の命により都の下水道の整備などに尽力しました。

平安時代

平安時代の代表的な僧が最澄空海です。共に唐に渡り仏教を学び、帰国してから最澄が天台宗、空海が真言宗という新たな仏教の宗派を開きました。それぞれの宗派について詳しくみていきたいと思います。 

最澄(伝教大師) 

宝亀11年(780年)に出家し、延暦4年(785年)東大寺戒壇で戒を受け僧となるも、比叡山に入山し修行。その後、空海とともに延暦23年804年入唐し、天台を学び、帰国後天台宗を開きます。比叡山延暦寺にて弟子の指導にあたりました。 

空海(弘法大師)

延暦23年(804年)入唐。真言密教を学び、大同元年(806年)帰国、高野山金剛峯寺を建立し、真言宗を開きました。綜芸種智院を設立して弟子の教育にもあたりました。主な著作は『三教指帰』『性霊集』です。 

末法思想

平安時代末期になると、釈迦の入滅後年月が経ち、仏法が衰え社会に混乱が起こると考えた末法思想が貴族を中心に広がりました。その背景には平安末期、武士が台頭しはじめ、政治不安などの混乱が影響していると考えられています。

[註]

  • [i] 古代,朝鮮半島南西部にあった国家(350ころ〜660)「ひゃくさい」とも読む。4世紀中ごろ馬韓50余国を統一して建国。百済は日本にとって大陸交通の要地にあたり,一方百済は,高句麗・新羅 (しらぎ) と対抗するために,軍事的援助を求めて日本に接近し,その間には密接な関係が保たれた。百済からは博士・僧侶・技術者などが日本に渡来し大陸の文物が伝わり,古代文化の形成に著しい影響を与えた。欽明朝(531〜571ころ)の仏教公伝などが有名。660年新羅・唐の連合軍に滅ぼされたのち,多くの人びとが日本に渡来した。(旺文社『日本史事典』) 
  • [ii] ?〜554 朝鮮の百済 (くだら) 王(在位523〜554)6世紀前期の朝鮮では百済・新羅 (しらぎ) ・高句麗 (こうくり) ・伽耶(加羅,任那 (みまな) )諸国および日本との国際関係が複雑で,その中にあって王は権謀術数に満ちた外交を行い,日本が百済に武力援助する見返りとして日本に仏教を伝えたりしたが,新羅との交戦中に敗死。(旺文社『日本史事典』) 
  • [iii] 奈良時代の歴史書。六国史の第1番目。もと『日本紀』といい,平安初期から『日本書紀』と称した。本文30巻,付録系図1巻(現存せず)。舎人 (とねり) 親王・太安万侶 (おおのやすまろ) らが編集にあたった。編纂の始期は不明であるが,720年完成。漢文編年体で,神代から持統天皇に至る天皇中心の国家の成立の歴史を記述しているが,特に神代巻にはかなりの作為や潤色がみられる。古代史研究の重要史料。(旺文社『日本史事典』) 
  • [iv] 平安初期に成立した聖徳太子の最古の伝記。7〜8世紀ころの史料を編集して成立。1巻。作者不詳。記紀にない異伝が多く,古代史研究の重要史料。仏教公伝の年も『日本書紀』の記載と違う。(旺文社『日本史事典』) 

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