今回は古代ローマ帝国分裂後の中世東西ヨーロッパ世界の形成を学びます。4世紀に始まり約200年間に及んだゲルマン人の大移動以降、ヨーロッパ各地でゲルマン民族による建国が開始し、その発展の過程で西ローマ帝国は滅亡、中世ヨーロッパの新たな基礎が築かれた。一方、東方では395年の東西分裂以降東ローマ帝国(ビザンツ帝国)が勢力を広げていた。ビザンツ帝国はコンスタンティノープルを中心として西ローマやイスラーム勢力などの周辺国家との抗争の中で発展を遂げたが、第4回十字軍によるコンスタンティノープル占領、オスマン帝国の侵攻を経て15世紀半ばには滅亡した。
ここでは、カール大帝時代に西ヨーロッパで強大な国家となったフランク王国の変遷と、東方領におけるビザンツ帝国の発展に重点を置いて整理します。それでは、見ていきましょう!
中世ヨーロッパ世界
Part1 中世ヨーロッパ世界の形成
1.西ヨーロッパの形成
2.東ヨーロッパ世界の形成
Part2 十字軍と中世ヨーロッパの社会
1.十字軍による聖地回復運動
2.教皇権の衰退と教会大分裂
3.商業の発展と中世都市
Part3 中世西ヨーロッパ諸国の発展
1.イングランド
2.フランス
3.スペイン・ポルトガル
4.確認問題
Part1 中世ヨーロッパ世界の形成
Contents
西ヨーロッパの形成
西ヨーロッパ世界の様相
ローマ帝国の東西分裂、その後の西ローマ帝国滅亡を経てヨーロッパ世界は新たな時代を迎えることとなったが、それはゲルマン人の大移動に始まる。まず、375年に突如中央アジアから襲来した遊牧系騎馬民族フン人が黒海周辺地域のゴート人を西方へと追いやったことを発端に、ヨーロッパ各地では西ゴート王国、東ゴート王国、ヴァンダル王国、アングロ=サクソン王国、フランク王国、ランゴバルド王国、ブルグンド王国といった様々な王国がゲルマン系諸部族によって建国された。中でも、サリー族のクローヴィスが482年から王として治めたメロヴィング朝フランク王国は、後のカール大帝の時代のころまでに西ヨーロッパを統合するほどに強大な国へと発展し、彼の死後には分裂して現在のドイツ・フランス・イタリアの基礎となるなど、中世西ヨーロッパ世界において重要な位置を占める。また、フランク王国は496年に行われたクローヴィスの改宗によってローマ教会との結びつきを深めたが、この出来事は東方教会と対抗しえるローマ=カトリック世界形成の一つのきっかけとなったという歴史的意義を持つ。6世紀にはローマ教皇グレゴリウス1世がベネディクト派修道士の派遣などにより西ヨーロッパ各地でのキリスト教布教・教義や典礼の統一を行い、カトリック教会の基礎を築いた。
〔ゲルマン人の大移動〕
(世界の歴史まっぷより)
フランク王国の発展とその後
<メロヴィング朝フランク王国(481~751年)>
フランドルから勢力を伸ばしていた王クローヴィスが481年に開いたメロヴィング朝は、他部族がアリウス派キリスト教を信奉する中、アタナシウス派キリスト教(カトリック)への改宗(クローヴィスの改宗)を行い、領内のローマ人との良好な関係を結びつつ拡大していった。7世紀以降メロヴィング朝の行政・財政を担っていた宮宰(マヨル=ドムス)のカール=マルテルは土地および軍の再編によって国内統一を推し進めるとともに、732年にはイベリア半島からフランス南部へと侵攻してきたウマイヤ朝軍をトゥール=ポワティエ間の戦いで破るといった功績を挙げた。メロヴィング朝はマルテルの息子であるピピン3世(小ピピン)の宮廷革命によってカロリング朝に取って代わられた。
<カロリング朝(751~987年)>
- 「ピピンの寄進」(756年)
ピピンは新しい王朝の王位戴冠に際し、教皇からの王位承認を受ける見返りとして、ランゴバルド王国を討伐し756年にラヴェンナ総督領を奪取して教皇に献納した。この出来事は「ピピンの寄進」と呼ばれ、これが教皇領の起源となったとされている。 - カール大帝(位768~814年)による支配圏拡大とカロリング=ルネサンス
ピピンの死後、息子のカール1世(カール大帝/シャルルマーニュ)が王位を継承してフランク王国の全方位への支配圏拡大に努め、彼の治世にはイベリア半島やブリテン島を除く現在の西ヨーロッパのほとんどの地域にまで勢力が及ぶほどの大国に成長した。
一方、国内では国内外の教養人が宮廷顧問として招致され、宮廷での文化運動が盛んになった。宮廷学校の校長であったイングランド出身のアルクインが指揮を執ったカール大帝の文化事業は「カロリング=ルネサンス」と呼ばれ、これによって聖職者の教育の質が向上し、国家の文化的・教育的基盤が構築された。 - カールの戴冠
8世紀後半にフランク王国がカール大帝の下で強大化すると、当時市民からの追放を受けた教皇レオ3世はカール大帝との提携を求め、800年のクリスマスにレオ3世は聖ピエトロ大聖堂でカール大帝にローマ皇帝としての帝冠を授けた。この出来事は「カールの戴冠」と呼ばれるが、これには726年聖画像禁止令以降の東西教会対立の中で当時の実力者カール大帝をビザンツ帝国(コンスタンティノープル教会)に対抗するためのキリスト教世界の保護者とするという教皇の狙いが込められていた。
〔カール大帝(742~814年)〕
<カール大帝死後のフランク王国分裂>
814年 | カール大帝死去 →ルートヴィヒ1世へ継承 |
〇父子間戦争勃発…ロタール・ルートヴィヒ・ピピンの間で激しい領土争いが起こる | |
843年 | ヴェルダン条約: 王国は3つに分割され、長男ロタールが中部王国を、次男ルートヴィヒ2世がライン川以東の東王国を、異母弟シャルル2世がライン川以西の西王国を獲得することとなった。 |
〇ロタール死去 | |
870年 | メルセン条約: 王国は2つに再分割され、ルートヴィヒは王国東部を、シャルルは王国西部を獲得した。これ以降、フランク王国は東フランク王国(843~911年)と西フランク王国(843~987年)という二つの独立国家に分裂することとなり、これをもって現代のイタリア・ドイツ・フランスの基礎が築かれた。 ※後にレヒフェルトの戦いでマジャール人を破った東フランク王国のオットー1世は962年、教皇から長い間空位であったローマ皇帝の帝冠を受け(オットーの戴冠)、ここにローマ=カトリック教会のキリスト教世界を守護する神聖ローマ帝国の土台が形成された。西フランク王国では987年にカロリング家が途絶えると、パリ伯のユーグ=カペーが王位継承者に選出され、14世紀初めまで続くカペー朝が創始された。 |
8世紀末以降、スカンディナビア半島に居を据えるノルマン人(ヴァイキング)による襲来がヨーロッパ各地に被害をもたらすようになった。ついには南下を進めるノルマン人はフランスにまで辿り着き、9世紀にはノルマンディー公領やキエフ公国など東西フランク王国周辺にノルマン人国家が建国されるようになるなどヨーロッパ世界は変容しつつあった。
中世西ヨーロッパの農業社会
<中世ヨーロッパ社会の荘園制>
初期の中世ヨーロッパ社会では農業生産が経済的基盤となっていた。主に、土地を所有する領主が耕地化した土地で農奴や農民に農作業を担わせる土地領主制(荘園制)が中世ヨーロッパの基本的な土地経営の在り方であったが、7世紀頃に始まる古典荘園制と呼ばれるこうした方法は10世紀頃には西ヨーロッパ全体へと広まったといわれている。領主直営地や農民保有地で領主の下、農業に従事する農民たちは耕地周辺の村落に集住することで、三圃制などのより効率的な農法を生み出すことができた。そんな中、領主には領内における独自の領主裁判権や、国家の役人の立ち入りと徴税を拒否する不輸不入権(インムニテート)などの特権が認められており、この時代にはさらなる社会の分権化が進んだ。
カロリング朝以降、王からの諸特権を得て領主としての権限を世襲し大土地所有者として台頭した貴族たちは、その土地の一部を封土として自由人に与える代わりに忠誠や軍事奉仕を求める封建的主従関係を彼らと結んだ。このような主君と家臣の間の双務的契約の仕組みを封建制と呼ぶ。
東ヨーロッパ世界の形成
コンスタンティノープルという都市
東西分割後の東方ヨーロッパ世界は、ヘレニズム王国時代の文化活動の伝統とローマ帝国時代に築かれた古代都市間の流通を引き継ぐ形で繁栄した。コンスタンティヌス帝の遷都以来、ヨーロッパの東方世界において多くの人が集まる海・陸路の要衝であり、文化や物資の集まる中心的な都市となったコンスタンティノープルは中世の東方世界において重要な都市であるが、この都市にかつて存在した古代都市ビュザンティオンにちなんで、中世ヨーロッパの東方領はビザンツ帝国と呼ばれている。ユスティニアヌス1世(位527~565年)がコンスタンティノープルに建てたビザンツ様式の大聖堂、ハギア=ソフィア聖堂はキリスト教世界の信仰と政治の中心として位置付けられ、コンスタンティノープル総主教座もここに置かれた。
ビザンツ帝国の発展
ビザンツ帝国は四方からの異民族の圧力の中、国内でのテマ制度の整備や貨幣制度の改革などを行うとともに外交戦略によって勢力の拡大を進めた。しかし、セルジューク朝との間のマンジケルトの戦い(1071年)で敗北し、十字軍の派遣のもたらす混乱の中でその勢いも失われていった。1204年の第4回十字軍の際には、西ヨーロッパ諸侯によってコンスタンティノープルにラテン帝国が建国された。後のミカエル8世の時代にラテン帝国から首都を奪還すると、ビザンツ帝国は再び文化的発展を遂げ、オスマン帝国を始めとする周辺諸国の勢力との対立の中で独自の文化の意識を高めていった。
※テマ制: 軍事と行政、司法の権限を与えられた将軍に管区(テマ)の統治権限を委ねる制度。これはビザンツ帝国中期(7~11世紀頃)のヘラクレイオス1世の治世に取り入れられた軍事的な仕組みで、軍管区制とも呼ばれる。 |
〔モザイク壁画〕
※《ユスティニアヌス1世と随臣のモザイク》というビザンツ様式を代表するモザイク画。ラヴェンナにあるサン=ヴィターレ聖堂にはこの他にも数々のビザンツ様式の美しいモザイク画が残っている。
→続きはこちら 十字軍と中世ヨーロッパの社会
おすすめ記事
参考資料
- 木下康彦・木村靖二・吉田寅編『詳説世界史研究 改訂版』、山川出版社、2018年
- 浜島書店編集部編『ニューステージ世界史詳覧』、浜島書店、2011年
- 世界の歴史まっぷ
- 最終閲覧日2020/7/30
こんにちは。
私は現役大学生ライターとして中高生向けの学習関係の記事を書いています。大学では美術史を専攻し、主に20世紀前半の絵画を研究の対象としており、休みの日は美術展に行くことが好きです。趣味は古い洋楽を聴くことです。中学高校時代は中高一貫の女子校に通い、部活と勉強尽くしの6年間を送りました。中学入学当初は学年でも真ん中より少し上程度の学力でしたが、中学2年生の夏から勉強に真剣に向き合うようになり、そこから自分の勉強法を見直し、試行錯誤を重ねる中で勉強が好きになりました。そうした経験も踏まえ、効率的な勉強の仕方やモチベーションの保ち方などをみなさんにお伝えできると思います。また、記事ではテストに出る内容だけでなく知識として知っていると面白い内容もコラムとして載せています。みなさんが楽しく学習する手助けとなれれば幸いです。