今回は明の政治と社会について学びましょう。元末の動乱を経て1368年に樹立された明朝では、初代皇帝洪武帝の治世に行われた内政・軍制・人民の管理などに関するさまざま施策を通じて中国国内の安定が取り戻されると、永楽帝の時代には積極的な対外政策が行われるようになりました。しかし、明は北方からのモンゴル勢力侵入に加え、東アジア海域に横行する海賊という脅威に囲まれ、周辺諸地域とは緊張関係にあったと言えます。そうした背景の中で、海禁政策がとられていたのもこの時代の大きな特徴の一つです。ここでは、洪武帝の政治と、明の対外政策、明代の社会の三点に注目したいと思います。
Contents
元朝の衰退と明の樹立
東アジア世界は13世紀初めのチンギス=ハンの時代から14世紀前半までの約1世紀の間、モンゴル民族による支配下にあった。モンゴル帝国は西方のハン国も含めると、東アジアから南ロシア、西アジア方面にまで広がる広大な領域を占める強大な国へと発展したが、1330年頃になると帝室内での相続争いに加え、飢饉などの影響で弱体化していた。こうした動乱は東アジアのみの問題ではなく、異常気候、飢饉、ヨーロッパでのペストの流行といった状況が14世紀を取り巻く世界的な問題であった。
そうした中で、元朝支配下の中国では頭に赤い布を巻いた白蓮教徒たちが反乱を起こしたが、1351~66年に起きたこの反乱は紅巾の乱と呼ばれる。
※白蓮教:
仏教とマニ教、弥勒信仰が融合したもので、民衆中心の宗教結社の一つ。元代の飢饉に見舞われる社会の中で、白蓮教徒たちは弥勒菩薩の下生を信仰し、「釈迦入滅の五十六億七千万年後に菩薩がこの世に現れて衆生を救う」と唱えた。
紅巾の乱で頭角をあらわした朱元璋は1368年、応天府(現南京)で洪武帝(太祖)として即位し、明(1368~1644年)を樹立した。ここに元朝の東アジア支配は終焉することとなる。洪武帝は直ちに元を北方へと追いやり、中国のほぼ全域を支配下に置いた。ただし、朱元璋は紅巾の乱で頭角を現したが、即位後に白蓮教徒を迷信的邪教として弾圧していることに注意。
〔明代15世紀半ば〕
(世界の歴史まっぷより)
明朝樹立後の14世紀末から、東アジア世界は動乱の時期を抜けて新たな段階へと移行する。
15世紀のアジア世界を見ると、北方にはオイラトやタタールといったモンゴル系民族、東北部には女真族といった勢力が広がり、イラン・イラク方面ではティムール朝が巨大な王朝を築いた。16世紀になると、インドではムガル帝国が建国され、西方ではティムール朝に代わってサファヴィー朝・オスマン帝国が強大化したが、明王朝の時代は北方民族、朝鮮、日本といった周辺国家との関係も一つの鍵となった。
明朝(1368~1644年)略年表
1351~66年 | 紅巾の乱 |
1368年 | 朱元璋による明の建国。(洪武帝 位1368~98年) |
1398年 | 建文帝(位1398~1402年)即位。 |
1399~1402年 | 靖難の役 …洪武帝によって北方(北平)に封じられていた燕王(軍事的・他民族的な方針で北方を統治)が、南方を中心に据えて文人的・純漢文化的方針を取る建文帝に対抗して挙兵したという出来事。結果、燕王が南京を占領して新たに皇帝位に就いた。 →永楽帝(成祖,燕王 位1402~24年)即位。 |
1421年 | 永楽帝、北京に遷都。以降、明が北京、南京の二大都市を中心に繁栄。 |
1449年 | 土木の変 …明への侵入を繰り返していたオイラト軍に第6代皇帝である正統帝(位1435~49年)が土木堡で連れ去られ、エセン=ハンの捕虜となった事件。なお、正統帝は1457~64年に天順帝として再び帝位に即位している。 |
1572年 | 万暦帝(位1572~1620年)即位。 |
1592~98年 | 豊臣秀吉による朝鮮侵略 |
1616年 | ヌルハチ(太祖 位1616~26年)、女真族を統一し、後金を建国。 ヌルハチの死後、帝位についたホンタイジによって国号は「大清」と改められた。 |
1631年 | 李自成の乱 …李自成が指導者となって明に対して起こした農民反乱。 李自成は44年に北京を占領し、これを以て明は滅亡。 |
明代の内政・対外政策
洪武帝による明朝の形成
洪武帝は帝位につくと、全国的な土地調査などを行って各地方の細かい現状把握を行うとともに、有力官僚の処刑・六部の皇帝直属化などといった皇帝への権力集中のための厳しい施策をとった。元朝が東西交易での繁栄などの商業を重視の立場を取り、富裕層や官僚中心の社会を形成していたのに対し、洪武帝は国家による農民の管理や保護政策を重視したことは彼の治世の特徴だと言えるが、こうした大地主や富豪・官吏への厳しい施策をとったのも、彼が貧農の家の生まれであったことが影響しているかもしれない。
〔朱元璋(1328~1398年)〕
(故宮博物院蔵 世界の歴史まっぷより)
<洪武帝の政治>
- 権力の皇帝集中
自らの地位を揺るがす有力貴族を処刑し、「胡惟庸の獄」の後には中書省を廃止。元々中書省に属していた六部を皇帝直属とする。 - 明の基本法典となる明律・明令を制定。(1397年)
- 賦役黄冊(租税台帳兼戸籍台帳)、魚鱗図冊(土地台帳)の作成
洪武帝は全国的な土地調査や人口調査を行い、農民一人一人の土地の把握や税の徴収に役立てた。賦役黄冊と魚鱗図冊は里甲制の導入とともに作成され用いられた。 - 六諭による教化
洪武帝は儒教の教えに則って六つの訓戒を作ったが、この訓戒は民衆の教化に役立てられた。 - 衛所制の開始
衛所制は明代の特徴的な軍事制度である。これは従来の徴兵制とも募兵制とも異なり、民戸とは別に世襲制の軍戸を設定し、彼らに兵役を担わせる制度であった。 - 「海禁政策」の開始
対外関係の発展と「海禁政策」
元朝が民間による自由な貿易活動で商業的発展を遂げたのに対し、明は民間の海上貿易を禁止し、朝貢貿易の一本化を行った。「海禁政策」と呼ばれるこの施策は洪武帝の時代に開始されたが、その背景には西日本の武士や商人らによる「倭寇」という東アジア海域の海賊の存在があった。「倭寇」の取り締まりと海上秩序の再建を目的に行われた「海禁」の下では、周辺国家との朝貢関係を結ぶことが重要であったが、明朝が積極的な対外政策に乗り出すのは第3代永楽帝の治世のことであった。
<永楽帝の対外政策>
永楽帝はまずモンゴル高原への遠征を行い北方の覇権争いに介入すると、続いて南方へはイスラム教徒の宦官である鄭和を南海遠征に向かわせた。鄭和によるマラッカを拠点とする南海遠征は7回にわたり、東南アジア、インド洋を経て東アフリカにまで至ったとされている。最終的には、朝鮮半島、琉球、日本、女真・モンゴル・オイラトといった多くの周辺諸国が明と朝貢関係を結び、双方が大きな経済的利益を得た。
※明の冊封を受けていた当時の日本は室町幕府であったが、第3代将軍の足利義満は1404年、初の勘合貿易(日明貿易)を行った。これは勘合と呼ばれる貿易証明書を用いるもので、倭寇や密貿易と区別するための施策であった。
〔永楽帝(1360~1424年)〕
(台北国立故宮博物院蔵 世界の歴史まっぷより)
しかし、明を上位に置くこのような朝貢関係に不満を抱くものもいた。その結果起きたのが、土木の変(1449年)である。土木の変は、明に不満を持つオイラト軍が第6代正統帝を捕まえて捕虜とした事件であるが、これ以降、明は北方に対する守備を重視するようになった。外敵の侵入を防ぐために「長城」が補修されたのもこの時であった。
<16世紀「北虜南倭」問題>
15世紀半ばに現れ始め、16世紀には明の抱える大きな問題となった存在が「北虜南倭」である。モンゴル系遊牧民たちによる北方からの侵攻(「北虜」)と東アジア海域の海賊である後期倭寇(「南倭」)という当時の明を襲った二つの脅威をまとめてこのように呼ぶが、北虜についてはモンゴルで勢力を伸ばしていたアルタン=ハンによる1550年の北京包囲以降、特に大きな脅威となった。倭寇が16世紀に活動を再び活発化させた背景には、明での銀不足と勘合貿易の廃止、それによる密貿易の横行があった。世界各地でたくさん流通するようになった銀は日本人のみならず、中国やポルトガルの商人らによって密貿易されていた。16世紀に東アジアで活動したこのような海賊は、14,5世紀に活動した倭寇と区別するため、しばしば「後期倭寇」と呼ばれる。
1570年頃になると、明は民間の海上貿易を認めるようになり、17世紀へ向けて対外貿易の活発化と商業の発展に拍車がかけられた。
明の社会と文化
- 一条鞭法の改革
明で取り入れられた一条鞭法という新しい税制は16世紀中ごろに始まり、万歴帝の時代には全国的に広まった。これは、15世紀以降の銀納化の流れを汲んで作られたものであるが、「各種の税や徭役を銀に一本化し、まとめて簡潔に納税する仕組み」であったことが重要である。この仕組みは、万暦帝を支える政治家であった張居正の改革を経て普及した。
※「湖広熟すれば天下足る」
銀納の広がりとともに、農民たちはアメリカや日本に輸出して銀収入を得ることのできる生糸や綿布を生産するようになった。宋代には水田の開発が進んでいた長江下流域の江浙や蘇湖といった地域を指して「江浙熟すれば天下足る」ということわざが生まれたが、銀納化に伴ってこれらの地域での綿花や桑の栽培が盛んになると、水田の中心は江浙から長江中流域に位置する湖広へと移った。こうした状況を示して明・清の時代に生まれた言葉が「湖広熟すれば天下足る」である。両者を混同しないように気を付けたい。〔ポトシ銀山〕
(世界遺産オンラインガイドHPより)※16世紀には、南アメリカのポトシ銀山や日本の石見銀山などで銀の生産が一挙に増加したが、これらの銀が密貿易という形で銀不足にあった中国へと流入していた。セロ・リコ(富める山)という銀の大鉱脈のあるボリビアのポトシ市街は1987年に世界遺産に登録され、先住民や奴隷の強制労働の歴史とともに語り継がれている。
- 会館・公所の登場
銀を中心とする明代の社会では、商人たちが多大な利益を得ていたが、山西商人や徽州(新安)商人はその代表である。彼らのような商人が活動を大きくしていくのに伴って、各都市で同郷出身者のための集会所として作ったのが会館や公所と呼ばれる場所であった。 - 木版印刷による出版の増加
明代後期には木版印刷による書物が多数出版された。小説としては、『三国志演義』や『水滸伝』、『西遊記』、『金瓶梅』などが人気を博した。また、科学技術書も多く出版された。代表的なものは、李時珍『本草綱目』、徐光啓『農政全書』、宋応星『天工開物』。 - 陽明学の登場
陽明学とは16世紀初めに王守仁(王陽明)によって始められた儒学の一派であるが、王陽明は「心即理」を主張して、それまで官学化されていた朱子学を批判した。朱子学が厳しい修養と深い学問を重視したのに対し、陽明学においては、生まれながらにそなわる良心ととともにその実践が重んじられた(「知行合一」)ため、明代後期は実用的な学問、特に科学技術を用いた社会問題の解決が目指された時代でもあった。 - キリスト教宣教師の布教
16世紀末にはマテオ=リッチらのイエズス会宣教師が入国し、キリスト教の布教を行った。マテオ=リッチらイエズス会宣教師は中国で儒学を学んで士大夫層の支持を得、徐光啓や李之藻といったキリスト教改宗者らの協力を得て、いくつもの書物を出版した。- マテオ=リッチ 『幾何原本』(1607年)…徐光啓の協力により、「ユークリッド幾何学」を漢訳したもの。
- マテオ=リッチによる中国初の世界地図 『坤輿万国全図』(1602年)
※『坤輿万国全図』は明の万暦帝の時代に、李之藻の協力の下作成された世界地図。
(補足)清の康熙帝の時代にブーヴェによって『皇輿全覧図』という中国本土の実測図が作成されたが、時代も内容も異なるものなので混同しないように。 - 徐光啓 『崇禎暦書』…イエズス会員アダム=シャールから西洋暦法を学び、刊行。
確認問題
- 1449年、正統帝がオイラトのエセン=ハンによって捕らえられた事件を何というか。
- 永楽帝の命により、7回にわたる南海遠征に赴いた人物は誰か。
- 康熙帝時代に定められた、中国人の海外渡航と民間貿易を禁ずる施策を何と呼ぶか。
- 明代の大都市に、同郷や同業の商人が親睦や互助のために集まる場所として設立されたのは何か。
- 明代には長江中流域で稲作が盛んになった。この状況を示したことわざを答えよ。
- 永楽帝の死後、明はモンゴルの侵入と倭寇に悩まされた。これらを何と呼ぶか。
- 前期倭寇に対抗するため、洪武帝と室町幕府の間で行われた貿易を何というか。
- 洪武帝が公布し、民衆教化に用いられた儒学に基づく6か条を何というか。
- 民戸と別に軍戸を設定する、洪武帝時代に採用された軍事制度は何か。
- マテオ=リッチが作成した中国初の全世界地図を何と呼ぶか。
・・・・・・・・
(解答)
- 土木の変
- 鄭和
- 海禁
- 会館・公所
- 「湖広熟すれば天下足る」
- 北虜南倭
- 勘合貿易
- 六諭
- 衛所制
- 『坤輿万国全図』
→続きはこちら 清朝支配下、17~18世紀の中国
おすすめ記事
- 14世紀以降のトルコ・イラン世界の発展
- ムガル帝国の成立とインド=イスラーム文化
- 中学受験・歴史 戦争の時代~明治から昭和初期の戦争 その1
- 中学受験・歴史 戦争の時代~明治から昭和初期の戦争 その2
参考資料
- 木下康彦・木村靖二・吉田寅編『詳説世界史研究 改訂版』、山川出版社、2018年
- 浜島書店編集部編『ニューステージ世界史詳覧』、浜島書店、2011年
- 湯浅邦弘編『中国思想基本用語集』、ミネルヴァ書房、2020年
- 世界遺産オンラインガイド
- 最終閲覧日2020/9/9
- 世界の歴史まっぷ
- 最終閲覧日2020/9/9
こんにちは。
私は現役大学生ライターとして中高生向けの学習関係の記事を書いています。大学では美術史を専攻し、主に20世紀前半の絵画を研究の対象としており、休みの日は美術展に行くことが好きです。趣味は古い洋楽を聴くことです。中学高校時代は中高一貫の女子校に通い、部活と勉強尽くしの6年間を送りました。中学入学当初は学年でも真ん中より少し上程度の学力でしたが、中学2年生の夏から勉強に真剣に向き合うようになり、そこから自分の勉強法を見直し、試行錯誤を重ねる中で勉強が好きになりました。そうした経験も踏まえ、効率的な勉強の仕方やモチベーションの保ち方などをみなさんにお伝えできると思います。また、記事ではテストに出る内容だけでなく知識として知っていると面白い内容もコラムとして載せています。みなさんが楽しく学習する手助けとなれれば幸いです。