【差をつける!】不平等条約はどうやって解消できた?~明治時代以降の外交史を理解して覚えよう!~

明治時代以降の外交史は非常に複雑で理解が難しいところです。しかし、難しいところであるがゆえに、得意になるとほかの受験生と差をつけることができます。年号を覚えないといけない出来事も多いですが、頑張って覚えていきましょう。

岩倉使節団

岩倉具視

明治時代初期、日本は大きな課題を抱えていました。それは、江戸時代末期に結んだ不平等な「日米修好通商条約」によって様々な不利益を被って(こうむって)いたことです。

日米修好通商条約には、海外から来た人が日本で罪を犯しても日本の法律で裁くことができない治外法権(ちがいほうけん)。そして、海外から輸入される物にかける関税の税率を日本が決めることができない、つまりは関税自主権を日本に認めないことが定められていました。

この日米修好通商条約には、明治5年以降であれば条約改定のための交渉ができるということも書かれていました。そこで、明治政府はアメリカに使節団を送ることにします。

この時に使節団の代表、全権大使を務めた人物が岩倉具視(いわくらともみ)です。そのことから、この使節団を岩倉使節団と呼びます。岩倉使節団には、岩倉具視のほかにも、伊藤博文(いとうひろぶみ)、木戸孝允(きどたかよし)など明治政府の中心的な人物が使節団に参加しました。この時、使節団と一緒に日本人として初めての女性留学生がアメリカに渡ったことも有名です。

結果的に岩倉使節団は日米修好通商条約についての交渉に失敗します。その後はアメリカからヨーロッパにわたり、イギリスやフランスなど10か国以上を訪問しました。ここで最新の技術や各国の政治体制の調査を積極的に行ったことは、その後の日本の発展に貢献しました。

ノルマントン号事件

1886年、日本の人々の日米修好通商条約のへの怒りが噴出する事件が起きます。それは、ノルマントン号事件です。

10月、ノルマントン号というイギリスの船が、紀州(現在の和歌山県)沖で沈没しました。この船にはイギリス人の船長、イギリスやドイツなどのヨーロッパの国出身の乗客、そして日本人の乗客25人が乗っていました。イギリス人の船長は日本人の乗客を見殺しにし、25人は亡くなってしまいます。

(なお、この時の乗客にはインドや中国出身の人もいましたが、その人たちも亡くなっています。日本人だから、というよりはヨーロッパの人・白人ではないからという理由で見殺しにされたと考えたほうが自然でしょう。)

イギリス人の船長は日本で裁判を受けることになりましたが、領事裁判権に基づいて裁れたため、無罪になります。このことが日本の国民からの反発を呼び、明治政府は不平等条約の改善に本格的に動き出すことになります。

不平等条約の解消

1894年、念願だった治外法権の撤廃が実現されます。この時に交渉役として活躍した人物が陸奥宗光(むつむねみつ)です。

陸奥宗光は、まずイギリスとの間で治外法権の撤廃をすることを目指しました。大国イギリスが改正してくれれば、ほかの国も同じ動きをするだろうと予想したのです。

結果、その予想は大当たり。イギリスと含め15の国との間で治外法権を撤廃することに成功しました。しかし関税自主権はまだ日本に回復していません。関税自主権が回復したのはそこからさらに20年あまりたった1911年です。

関税自主権の回復の交渉で活躍したのは小村寿太郎(こむらじゅたろう)です。当時は日露戦争の後で、日本の力をアメリカをはじめとした大国が認めるようになっていました。そのことが追い風になり、アメリカをはじめとした国々との間で50年以上にわたって続いてきた不平等条約を解消できたのです。

2つの戦争

明治時代を迎えた日本は、他国へと勢力を広げようとします。まずはじめに考えたのが朝鮮半島への進出でした。

今までの歴史でも学んできた通り、朝鮮は中国大陸にある国との結びつきが強く、当時も中国周辺を治めていた(しん)の影響下にありました。そのため、朝鮮半島への進出を狙う日本と、朝鮮に強い影響を与えている清とが対立することになります。

その対立が深まっておきたのが、日清戦争(にっしんせんそう)です。日清戦争は1894年にはじまり、8か月に及びました。日本はこの戦いに勝利し、清との間に講和条約を結びます。

この時に結ばれた講和条約が下関条約(しものせきじょうやく)です。下関条約によって、清は朝鮮の独立を認めることになります。さらに、清は多額の賠償金(ばいしょうきん)を日本に支払い、加えて台湾や遼東(りゃおとん)半島が日本の統治下にわたることになりました。

このように、下関条約によって、日本は大陸に支配の手を広げました。そこで焦ったのが、当時中国や朝鮮などの東アジアに勢力を拡大しようとしていた国々です。その代表格がロシアでした。ロシアはドイツとフランスと一緒に、遼東半島を清に返すことを日本に求めます。この要求を三国干渉(さんごくかんしょう)と呼びます。当時の大国がそろって要求してきたわけですから、日本としてはその通りにするしかありません。1895年、日本は遼東半島を清に返還します。

1902年になると、ロシアは中国の東北部を占領し、朝鮮半島にまで勢力を広げようとしていました。当然日本とロシアとの対立は一層激しくなり、いつ戦争が起こるか分からないような状態になってきました。ロシアは日本以外の国にとっても脅威的な存在で、中でもイギリスは、ロシアに対して強い警戒心を持っていました。

そこで、ロシアとの戦争が始まった場合に資金の援助をしてもらいたい日本と、より一層のロシアの東アジア進出を防ぐために日本に絶対に負けてほしくないイギリスとの間で日英同盟(にちえいどうめい)が結ばれることとなります。

日英同盟を結んでから2年がたった1904年、予想通り、日本とロシアは戦争をはじめます。

それが日露戦争(にちろせんそう)です。戦争が進み、戦況が不利になってきたロシアは、日本近海に当時世界最強と言われていたバルチック艦隊を送ります。

この世界最強の艦隊と戦ったのは、東郷平八郎(とうごうへいはちろう)が率いる艦隊でした。優れた戦術により、日本側は圧倒的な勝利を治め、ロシアの船のほとんどが水没しました。一方、日本の船にはほとんど被害が無く、その圧倒的な強さは世界における日本の位置づけをも変えました。

1905年、日露戦争の講和条約がアメリカのポーツマスというところで結ばれました。この講和条約は、場所の名前をとって、ポーツマス条約と呼ばれます。アメリカの大統領のセオドア=ルーズベルトが仲介し、日本の全権の小村寿太郎(こむらじゅたろう)とロシア全権のウィッテの間で調印されました。

日本が樺太(からふと・サハリン)の一部をロシアから譲り受け、朝鮮(主に韓国)に対して優越権(ゆうえつけん)を持つことが主な内容でした。しかし、ロシアから賠償金を受け取ることができなかったため、国民からは条約に反対する声も多く出ました。

ポーツマス条約で朝鮮に対する優先権を認められたことで、日本が朝鮮を保護国とすることが可能になりました。条約締結後すぐに明治政府は朝鮮を保護国にし、伊藤博文(いとうひろぶみ)を統監として送り込みます。そして韓国統監府(かんこくとうかんふ)を設置し、政治を代わりに行っていきます。当然、現地では反対運動が起こりましたが、明治政府は武力でこれをおさえつけます。

このようにして支配を強め、1910年には韓国併合(かんこくへいごう)を行って、勧告を植民地にします。朝鮮半島全土が日本の支配下に置かれたことになります。朝鮮半島を治めるために、韓国総督府の代わりに設置されたのが朝鮮総督府(ちょうせんそうとくふ)です。朝鮮半島の支配は1945年の第二次世界大戦終戦まで続きました。

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1995年生まれ。東京都出身。

中高一貫の女子校出身で、高校時代は部活動で部長を務める他、学外で学生団体を立ち上げるなど活動。活動歴を活かせるかもしれないと、高校2年生からAO入試を視野に入れる。同時に、一般入試では早稲田大学を目指して勉学に励む。受験期の国語の偏差値は70以上で、センター模試では現代文・古文は常に満点。AO入試で慶應義塾大学総合政策学部に入学後は、研究会活動のほか、大学受験予備校や書店でのアルバイトに励む。専門分野はジェンダー学、倫理学(主にケアの倫理)、労働法。大学卒業後はコンサルティングファームなどを経て独立し、現在は予備校講師やライター、個人コンサルタントとして活動中。書店と映画館と美術館と歌舞伎座をこよなく愛し、芸術文化全般に関心を持っている。