日本人なら知っておきたい文学作品!出雲国に伝わる神話『出雲国風土記』

『出雲風土記』について説明する前にまず、風土記とは何か説明していきましょう。

大和時代、律令国家が形成されていく中、高まっていった国家意識の影響を受け、天武天皇の時代に国史編纂事業が始まりました。その後奈良時代になり、元明天皇の御代に712年に日本の神話や伝承を筆録した史書である『古事記』が出来ました。

しかし、『古事記』は勅選の史書ではなく、その後720年元正天皇の御代に、勅選の歴史書である『日本書紀』が出来ます。そういった国史編纂事業の一環で奈良時代、713年(和銅6年)元明天皇の詔で各国の産物や、山や河川の名前の由来などをまとめ、献上させた地誌[i]が『風土記』です。

諸国から集められた『風土記』のうち現存するのは常陸・出雲・播磨・豊後・肥前の5カ国のみです。それぞれ現在の地名に置き換えるおおよそ以下のようになります。

常陸 茨城県 出雲 島根県東部
播磨 兵庫県姫路市 豊後 大分県
肥前 佐賀・長崎県

また、現存する『風土記』の中でほぼ完全な形で残っているのが『出雲国風土記』です。

『出雲国風土記』の奥付[ii]には733年(天平5年)の記載があり、その年に完成したと考えられています。

何故ほぼ完全な形と考えられているかといいますと、平安時代に作られた三代式と言われる法典の一つ、“延喜式”[iii]に記載されている神社名の中に『出雲国風土記』にはない神社名があること。『出雲国風土記』の中に “朝酌下社”の記載があるのに“朝酌上社”の記載がないことなどいくつかの理由から欠陥があるのではと考えられているからです。

『出雲国風土記』の冒頭には出雲国が出来た「国引き」神話が描かれています。日本の国が出来た由来について『古事記』『日本書紀』にも記載がありますが、それら二つの神話と『出雲国風土記』に描かれた神話にはない『出雲風土記』独自の神話が「国引き」神話です

それらの神話について今記事では紹介したいと思います。

まず『古事記』『日本書紀』に描かれる神話について説明していきたいと思います。

国生み

日本の国を作ったのは、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)伊邪那美命(いざなみのみこと)という二人の神です。天にある高天ヶ原に様々な神が住んでおりその中から国を作るよう選ばれた二人の神は授けられた天の沼矛を使って水の中を掻き回し、於能凝呂島(おのごろじま)という島を作りました。

その後、淡路島、四国、隠岐島、九州、壱岐島、対島、佐渡島をつぎつぎと生み、最後に本州を生んだとされています。また二人は夫婦となり様々な神様を産んでいきます。

国引き」神話

八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)が国をつくるのに、出雲国は小さすぎるので各地から引いてきて継ぎ合わせて出来たのが出雲国(島根半島)です。

東端の「三穂(みほ)の埼」は北陸から、西端の「支豆支の御埼(きづきのみさき)」は朝鮮半島の新羅[iv]から、その間の「闇見(くらみ)の国」と「狭田(さだ)の国」はそれぞれ「北門(きたど)の良波(よなみ)国」、「北門の佐伎(さき)国」から引いて継ぎ足したとされています。

出雲国風土記』にある「国引き」神話によると八束水臣津野命が出雲国の創造神とされています。また、この神は『古事記』内にある須佐之男命の系譜に名前のある淤美豆奴神と同一神とされています。

その後『出雲国風土記』の記載によると、所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)と少彦名命(すくなひこな)の二神が出雲国の国土を造ったとあります。この所造天下大神は大穴持命(おおなむちのみこと)とも言われ、『古事記』においては大国主(おおくにぬし)と呼ばれる神と同じであるとされています。

このように『出雲国風土記』と『古事記』に描かれる神の呼称の表記が異なっていることがあります。神の呼称だけではなく、土地の名前や河川の名前などにも表記の違いがみられます。こういった違いは編纂者が異なるという点が勿論ありますが、朝廷の語り部であった稗田阿礼が語った内容を太安万侶が筆録した『古事記』に対し、『出雲国風土記』は諸国の伝承をまとめたと言う違いが大きく関係しているでしょう。

最後に、今まで語っていなかった『出雲国風土記』の編纂者について触れていきたいと思います。『出雲国風土記』の奥付によると、編纂に関わったのは出雲国造で意宇郡の郡司であった出雲臣広島をはじめ、在地の郡司でした。

ここで軽く当時の地方官の役職について説明していきます。

国造とは、大和時代朝廷から派遣された、もしくは朝廷が地方の豪族[v]に命じた地方官を指しました。しかし、大化改新[vi]後、律令制が整えられていく中で国造の役職は廃止されましたが、その後も神事を司る役人として残る、もしくは郡司としてその国を治める地域もありました。出雲国もその一つです。

出雲臣広島の“臣(おみ)”は大和時代、朝廷が地方を治めていた有力な豪族に授けた姓[vii]です。郡司とは大化改新以後に出来た役職であり、朝廷から派遣された国司[viii]の下で一郡を治める役職のことです。郡司の多くは以前国造としてその地域を治めていた豪族の系譜を引く豪族が世襲で担うことが多く、終身官でした。

そのような当時の地方官の制度から鑑みるに、『出雲国風土記』の編纂に関わった人々は大和時代から出雲地方を治めていた豪族の系譜を継ぐ人々だったと考えられます。故に、出雲地方独自の神話や伝承が『出雲国風土記』の中に色濃く現れているのでしょう。そのような独自の文化は今も根強く出雲市に残っていると言えます。

では、おさらいのため、『出雲国風土記』について簡単に問題を出します。

  1. 『出雲国風土記』の他に現存する『風土記』が伝わっている地域を4つ答えなさい。
  2. 『風土記』編纂を命じたのは何天皇ですか。
  3. 編纂の詔が出されたのは何年ですか。
  4. 出雲国はおおよそ現在の何県に当たりますか。
  5. 『出雲国風土記』以前に完成した勅選ではない歴史書を何といいますか。

→次回は万葉集について解説します!

(註)

  • [i] ある特定の地域の地理的特質についての研究。また、それを記した書物。『三省堂 大辞林 第三版』
  • [ii] 書籍・雑誌などの巻末にある、著者・書名・発行者・印刷者・発行日・定価などを記載した部分。(『三省堂 大辞林 第三版』)現代では先に述べた意味合いだが、古典文学や古代の文書においては、完成したもしくは出版した時・場所・刊行者などを記した刊記の意味合いが強い。
  • [iii] 平安中期の律令の施行細則。50巻。905年(延喜5)藤原時平らが醍醐天皇の命により編纂を始め、時平の死後藤原忠平らにより927年完成。施行は967年。弘仁式・貞観式を踏まえて編まれたもので、のちの律令政治の基本法となった。『三省堂 大辞林 第三版』
  • [iv] 慶州を都とした朝鮮最初の統一王朝(356~935)。四世紀中頃、斯盧(しら)国が半島東南部の辰韓一二国を統合して建国。七世紀には唐と結んで百済(くだら)・高句麗(こうくり)を滅ぼし半島の統一支配を確立、唐に倣(なら)い中央集権化をはかったが、高麗(こうらい)の太祖王建によって滅ぼされた。『三省堂 大辞林 第三版』
  • [v] ある地方に土着して富や勢力を持っている一族。地方の権勢家。『日本国語大辞典』
  • [vi] 645年(大化1)、中大兄皇子(のちの天智天皇)・中臣(藤原)鎌足らが蘇我氏を打倒して始めた古代政治史上の一大改革。蘇我蝦夷えみし・入鹿いるか父子を滅ぼした中大兄皇子は孝徳天皇を即位させ、自らは皇太子として実権を握った。翌年、公地公民制、地方行政組織の確立、戸籍・計帳の作成と班田収授法の施行、租・庸・調の統一的税制の実施を中心とした改新の詔みことのりを発布し、氏姓制度による皇族・豪族の支配を否定して、中央集権的支配の実現へと向かった。大化の新政。『三省堂 大辞林 第三版』
  • [vii] 古代の豪族が氏うじの下につけた称号。臣おみ・連むらじ・造みやつこ・直あたい・首おびと・史ふびと・吉士きしなど三十種余に及ぶ。古くは氏人が氏の長おさに付した尊称であったが、朝廷のもとに諸豪族が組織づけられるにつれて政治的・社会的な序列を示すものとなり、世襲されるようになった(氏姓制度)。684年、天武天皇が八色やくさの姓を定め、皇親を中心として再編成したが、氏よりも家いえに分裂する傾向が強まる中で自然消滅した。『三省堂 大辞林 第三版』
  • [viii] 律令制で、中央から派遣され、諸国の政務を管掌した地方官。守かみ・介すけ・掾じよう・目さかんの四等官と史生ししようを置いた。その役所を国衙こくが、国衙のあるところを国府といった。狭義には守(長官)のみをさす。国宰。くにづかさ。くにのつかさ。『三省堂 大辞林 第三版』

おすすめ記事

参考文献