日本人なら知っておきたい文学作品!第二の勅撰和歌集『後撰和歌集』を徹底解説

後撰和歌集全20巻からなる『古今和歌集』に次ぐ第2の勅選和歌集です。天暦5年(951年)村上天皇の命により、昭陽舎[i](梨壺)に撰定所が設けられ撰定を行いました。昭陽舎(梨壺)の別当には藤原伊尹[ii]が任ぜられました別当とは、「平安時代以後、院・親王家・摂関家などの政所の長官」のことです。寄人には大中臣能宣[iii]、清原元輔[iv]、源順[v]、紀時文[vi]、坂上望城[vii]が任ぜられ、彼らは「梨壺の五人」と呼ばれました。「寄人とは「平安時代以後、朝廷の記録所や和歌所に配属された人々の名称」であり、配属される人は事務練達から選ばれ、庶務・執筆の任を任されました。以上のメンバーで『万葉集』の読解とともに、勅撰集の撰定を行いました。成立時期は未定ですが、天暦9年前後とする説が有力であり、歌数は伝本(現在に伝わっているもの)にもよりますがおおよそ1426首です。

部立(部門、分類ごとに分けること、分類すること)は春(上中下・1〜3巻)・夏(4巻)・秋(上中下・5〜7巻)・冬(8巻)・恋(9〜14巻)・雑(15〜18巻)・離別覊旅(19巻)・慶賀哀傷(20巻)の20巻になります。春夏秋冬はそれぞれ季節ごとの歌が収載され、恋は恋愛の歌、離別覊旅は旅に関する歌や、旅などによる別れの歌を指します。慶賀哀傷はめでたいこと、人の死に対する哀しみなどの歌が収載されています。雑は雑歌のことをさし、他の分類に属さない歌が収載されています。

『古今和歌集』と比べると簡素化された部立になっていますが、収載されている作者は220人と『古今和歌集』より多くなっています。上位入集者は紀貫之[viii](74首)、伊勢[ix](70首)、凡河内躬恒[x](23首)、藤原兼輔[xi](23首)、大輔(6首)、藤原時平[xii](14首)、藤原師輔[xiii](13首)、在原業平[xiv](10首)、藤原実頼[xv](10首)、敦忠[xvi](10首)、壬生忠岑[xvii](10首)となっており、古今歌人のほか、当代権門、女性など素人歌人も多く収載されています。

ここからは、上位入集者数人の和歌を紹介していきたいと思います。
※以下にあげる和歌は全て『新編 日本古典文学全集』から参照。

  1. 紀貫之

    秋風に霧とびわけてくるかりの千世にかはらぬ声きこゆなり
    (訳:秋風の中霧を飛び分けてくる雁の永遠に変わらない声が聞こえてくる)

  2. 伊勢

    をみなへし折りも折らずもいにしへをさらにかくべきものならなくに
    (訳:女郎花折っても折らなくても昔のことを思い出すものではないのに)

  3. 凡河内躬恒

    いづことも春の光はわかなくにまだみ吉野の山は雪ふる
    (訳:どこへでも春の光は照らすのにまだ吉野の山では雪が降っています)

  4. 藤原兼輔

    人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道にまどひぬるかな
    (訳:人の親の心は闇ではないというのに子供を思うと道に迷ったかのように混乱してしまう)

  5. 大輔

    わが身にもあらぬ我が身のかなしきに心もことになりやしにけむ
    (訳:私の身のことと思えない悲しさに心まで自分のものでなくなってしまったのだろうか)

  6. 藤原時平

    ひたすらに厭ひはてぬるものならば吉野の山にゆくへ知られじ
    (訳:ひたすらにあなたが厭い続けるのなら吉野の山に行って行方をくらましてしまおう)

  7. 藤原師輔

    葦鶴の沢辺に年は経ぬれども心は雲のうへにのみこそ
    (訳:葦原にすむ鶴のように年月は経っても心は雲の上にあるかのようにあなたのことばかりです)

  8. 在原業平

    暮れぬとて寝てゆくべくもあらなくにたどるたどるもかへるまされり
    (訳:日が暮れたとしても寝ていくことが出来るわけではないのに、辿り辿り帰った方がましです)

  9. 藤原実頼

    山里の物さびしさは荻の葉のなびくごとにぞ思ひやらるる
    (訳:山里の何とも言えない寂しさは萩の葉がなびく度に思いやられることです)

  10. 敦忠

    物思ふと過ぐる月日も知らぬまに今年は今日に果てぬとか聞く
    (訳:物思いをしていると過ぎていく月日も知らずに今年は今日で終わりだとか聞くことよ)

  11. 壬生忠岑

    夢よりもはかなきものは夏の夜の暁がたの別れなりけり
    (訳:夢でも逢瀬も儚いものだが、もっと儚いのは夏の夜が明けようとする頃の別れであるよ)

『古今和歌集』の後に補う形で作られた『後撰和歌集』ですが、その特徴は「明るくのびやかに日常を詠うものや、貴族の恋愛歌が多いこと」です。序文はありませんが全体を通して贈答歌が多く、詞書が長いことも特徴の一つです。その歌が詠まれた状況を詳しく説明し、物語化する傾向が強いと言われています。

贈答歌について更に詳しく説明します。贈答歌とは、文字通り「二人で和歌を贈り合うこと」ですが、その多くは男女間での恋の駆け引きで行われました。当時、身分の高い女性は人前に姿を表すことはありませんでした。そこで、男性は身分の高い女性に使える女房や女御という人々や貴族の男性間での噂話や姿を簾ごしに垣間見て、気になる女性に恋文として歌を贈ります。その歌に対し女性が返答し、歌のやりとりで恋の駆け引きなどを行います。当時はお互いの姿を見ることがなかったため、和歌の返しの上手さなどが恋の成就の決め手であったわけです。

最後に、『後撰和歌集』について簡単な問題を出したいと思います。
(わからなかった問題はしっかりと復習しておこう!)

  1. 『後撰和歌集』は誰の命によって編纂されましたか。
  2. 『後撰和歌集』の撰者5人を総称して何といいますか。
  3. 『後撰和歌集』編纂のため設けられた建物の名前は何といいますか。
  4. 旅に関する和歌が収載されている部立を何といいますか。
  5. 上位入集者を2人答えなさい。

→次回は大和物語について解説します!

(註)
  • [i] 平安京内裏の後宮五舎の一。紫宸殿の北東にあり、しばしば東宮御所となった。前庭に梨が植えられていたところから、梨壺ともよばれる。『大辞林 第三版』
  • [ii] 〔名は「これまさ」とも〕 (924~972) 平安中期の廷臣・歌人。師輔の長子。行成の祖父。一条摂政と呼ばれた。諡号は謙徳公。摂政・太政大臣。撰和歌所別当となり、「後撰和歌集」の撰進に関与。家集に「一条摂政御集(豊蔭)」がある。『大辞林 第三版』
  • [iii] (921~991) 平安中期の歌人。三十六歌仙の一人。四位祭主。梨壺の五人の一人。万葉集の訓釈および後撰集の撰進に参加。賀歌を得意とし、歌は拾遺集などにみえる。家集「能宣集」『大辞林 第三版』
  • [iv] (908~990) 平安中期の歌人。三十六歌仙の一人。深養父の孫。清少納言の父。肥後守。梨壺の五人の一人として万葉集の訓釈(古点)ならびに後撰和歌集の撰に参加。家集に「元輔集」がある。『大辞林 第三版』
  • [v] (911~983) 平安中期の学者・歌人。嵯峨源氏。三十六歌仙の一人。梨壺の五人の一人として万葉集の訓釈(古点)ならびに「後撰和歌集」の撰進に参加。漢詩文は「扶桑集」「本朝文粋」などに散見。著「倭名類聚鈔」、家集「源順集」『大辞林 第三版』
  • [vi] 平安中期の歌人。貫之の子。梨壺の五人の一人として万葉集の訓釈(古点)並びに後撰和歌集の撰進に参加。生没年未詳。『大辞林 第三版』
  • [vii] (?~975) 平安中期の歌人。是則の子。梨壺の五人の一人として万葉集の訓釈(古点)ならびに後撰集の撰進に参加。「天徳歌合」の詠者。『大辞林 第三版』
  • [viii] (866?~945?) 平安前期の歌人・歌学者。三十六歌仙の一人。御書所預・土佐守・木工権頭。官位・官職に関しては不遇であったが、歌は当代の第一人者で、歌風は理知的。古今和歌集の撰者の一人。その「仮名序」は彼の歌論として著名。著「土左日記」「新撰和歌集」「大堰川おおいがわ行幸和歌序」、家集「貫之集」『大辞林 第三版』
  • [ix] 平安前期の女流歌人。三十六歌仙の一人。伊勢守藤原継蔭の女。中務の母。宇多天皇の寵を得て、伊勢の御ごと呼ばれた。歌は古今集・後撰集などに見える。生没年未詳。家集「伊勢集」『大辞林 第三版』
  • [x] 平安前期の歌人。三十六歌仙の一人。紀貫之と並ぶ延喜朝歌壇の重鎮。古今和歌集の撰者の一人。生没年未詳。家集「躬恒集」『大辞林 第三版』
  • [xi] (877~933) 平安前期の歌人。三十六歌仙の一人。従三位中納言兼右衛門督。邸が賀茂川の堤近くにあったので堤中納言と呼ばれる。「古今和歌集」以下の勅撰集に五五首入集。著「聖徳太子伝暦」、家集「兼輔集」『大辞林 第三版』
  • [xii] (871~909) 平安前期の廷臣。基経の子。左大臣。通称、本院大臣・中御門左大臣。菅原道真を大宰権帥に左遷して藤原氏の地位を確保。最初の荘園整理令を発し、「三代実録」「延喜式」撰修に参画した。『大辞林 第三版』
  • [xiii] (908~960) 平安中期の廷臣。忠平の子。右大臣。通称、九条殿。娘安子が冷泉・円融両天皇を生み、兼通・兼家・道長にわたる摂関家の祖となった。有職故実に通じ、九条流の祖。著「九条年中行事」、日記「九暦」など。『大辞林 第三版』
  • [xiv] (825~880) 平安前期の歌人。六歌仙・三十六歌仙の一人。在五中将・在中将と称される。阿保親王の第五子。歌風は情熱的で、古今集仮名序に「心あまりて言葉たらず」と評された。「伊勢物語」の主人公とされる。色好みの典型として伝説化され、美女小野小町に対する美男の代表として後世の演劇・文芸類でもてはやされた。家集「業平集」『大辞林 第三版』
  • [xv] (900~970) 平安中期の廷臣。摂政・関白。忠平の子。小野宮殿と称。諡号、清慎公。安和の変によって左大臣源高明を失脚させ、藤原氏繁栄の基礎をつくった。有職小野宮流の祖。『大辞林 第三版』
  • [xvi] (906~943) 平安中期の歌人。三十六歌仙の一人。時平の子。従三位権中納言。恋歌を得意とし、管絃にも優れた。「後撰和歌集」以下の勅撰集に三〇首入集。家集「敦忠集」『大辞林 第三版』
  • [xvii] 平安中期の歌人・歌学者。三十六歌仙の一人。忠見の父。古今集の撰者の一人。著「和歌体十種(忠岑十体)」、家集「忠岑集」。生没年未詳。『大辞林 第三版』
  • アイキャッチは 私立米沢図書館デジタルライブラリー より引用。

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