豊臣秀吉から徳川家康へ~天下統一の軌跡の「これだけは」をまとめよう【中学受験】

天下統一を目前にして本能寺の変で無念の死を遂げた織田信長。織田信長を討った明智光秀の天下は「三日天下」と呼ばれるほど短く、豊臣秀吉が次の権力者となります。

主君であった織田信長に代わって天下統一の夢の実現を目指した豊臣秀吉はもともとは下級武士の「足軽」出身で、決して身分の高い出身ではありませんでした。織田信長に「さる」と呼ばれていたことや、ほかの武将から「はげねずみ」と呼ばれるなどさんざんな言われようでしたが、天下統一を成し遂げるだけの能力を備えていたのです。

豊臣秀吉が織田信長のぞうりを懐で温めたというエピソードはあまりにも有名ですが、そこからは主君たる織田信長へのこまやかな心遣いが見て取れます。また、天下統一に向けては当然さまざまな合戦を行うわけですが、豊臣秀吉は戦いの場面でも一夜で城を築いたという逸話があるなど、才能をいかんなく発揮しました。そうした才能により、豊臣秀吉は織田信長の死後、天下統一にむけてさまざまな政策を打ち出していきます。

このように運にも才能にも恵まれていた豊臣秀吉ですが、豊臣家の時代は長くは続きませんでした。次に権力を握ったのは、豊臣秀吉の側近で合った徳川家康です。徳川家康は江戸幕府の初代将軍として、約260年間にもわたる江戸時代の礎を築きました。

徳川家康は三河地方(現在の静岡県)の弱小大名の家に生まれ、今川義元を輩出した今川家の人質として長く過ごした不遇の時代もありました。徳川家康のじわじわと権力を固めていく性格をうたった俳句として有名なのが「泣かぬなら 泣くまでまとう ホトトギス」です。織田信長、豊臣秀吉と並んで俳句で表されたなかで「なくまでまとう」という待ちの姿勢、用意周到さが徳川家康の持ち味だったのです。とても我慢強く待って待って、ついに江戸幕府を開くことになったのです。

権謀術数を張り巡らせたことや、腹の中が見えないことから「たぬきおやじ」と呼ばれていたという逸話もあります。ある意味ずるがしこい一面があったからこそ、長きにわたる江戸幕府の開祖となり、多くの改革を成し遂げていくことができたのでしょう。

今回は豊臣秀吉から徳川家康にかけて、どのように権力奪取がなされたのか、どのような政策を行ったのかをまとめます。現代日本の礎ともなったできごとがたくさんありますので、この機会にしっかり理解しておきましょう。

中学受験で必須!豊臣秀吉の4つの政策

豊臣秀吉の主君は織田信長でした。織田信長は1582年、本能寺の変で明智光秀に討ち取られてしまいます。そのとき豊臣秀吉は中国地方の毛利家との戦いに向かっていましたが、知らせを聞いて引き返し、あっという間に明智光秀を滅ぼします。

そして、織田信長の夢であった天下統一への道筋を受け継ぎ、1590年に、ついに天下統一を果たしたのです。豊臣秀吉は非常なアイデアマンでした。権力を確固としたものにするために、さまざまな政策を繰り出します。ここでは、中学入試で特に出題されやすい、豊臣秀吉にまつわる4つの政策とできごとを見ていきましょう。

1582年~太閤検地を行う

豊臣秀吉が行った政策のひとつとして必ず覚えておきたいのが「太閤検地」(たいこうけんち)です。

太閤検地とは、年貢をはかるための「ます」や「さお」の大きさを全国で統一のものにし、農地の広さや米の取れ高、農民の名前などを「検地帳」(けんちちょう)に記録する、という政策です。年貢の基準が定められ、この取り組みを全国津々浦々で行ったことにより、まちまちだった年貢の取れ高が安定することになったのです。

太閤検地が行われる前は、「荘園」(しょうえん)が多く残っていました。しかし、太閤検地を行った結果、荘園のほとんどは姿を消すことになったのです。それまでの荘園の存在がリセットされたわけですね。

こうした「検地」という取り組みはほかにも行われましたが、豊臣秀吉が行ったものを特に太閤検地と呼びます。太閤検地は、漢字指定で書きなさい、という問題がよく出題されるので、漢字を間違えないようにしておきましょう。

 

1588年~刀狩令で武器を取り上げる

豊臣秀吉は、1588年、「刀狩令」(かたながりれい)を出します。これは、農民が持っていた刀などの武器を取り上げる、という命令です。刀狩を行った目的は、農民が一基を起こすことを防ぎ、農業に集中させて年貢をしっかり収めさせることでした。

しかし、面と向かって「お前たちが百姓一揆を起こしてはこまる。だから武器を出せ」といったところで、農民が武器をはいはいと言って渡してくれるわけもありません。そこで豊臣秀吉が考えた理由は、方広寺(ほうこうじ)の大仏を建立するための材料にするため、というものでした。ありがたい大仏を建立するためなら、ご利益があるかもしれない、と考えた農民たちは武器を差し出したといいます。個々にも豊臣秀吉のアイデアマンぶりが見て取れますね。

まったく大仏に使わないわけにはいかないので、農民から没収した武器は、実際にくぎなどに変えられて、大仏を建立する際に使われたとされています。

1590年~ついに天下統一へ

豊臣秀吉は、政治の拠点として大阪城を築きました。石山本願寺があった跡地に大阪城を築き、天下ににらみを利かせたのです。また、朝廷の権威を大いに借りたのも豊臣秀吉の賢かったところです。「天皇がこう言っているから」と言えば世の人々は何も言えませんよね。

1585年には関白となり、1586年には太政大臣(だいじょうだいじん)に任命されます。豊臣秀吉は関白太政大臣と言われますが、関白となった時期と太政大臣になった時期は異なるので気を付けましょう。関白、そして太政大臣というのは、天皇の政治を代わりに行う、武士の頂点の立場です。これ以上ない地に登ったわけですね。

天下統一の器はできました。あとは中身の総仕上げです。豊臣秀吉は、四国地方や九州地方の大名たちを次々と降伏させていきました。そして、戦国時代も終わりに差し掛かった1590年、ついに北条氏が陣取る小田原城を包囲します。北条氏は降伏し、これによって、豊臣秀吉はついに天下統一を成し遂げたのです。

1592年、1597年、二度の朝鮮出兵

ついに天下統一を果たした豊臣秀吉ですが、その権力欲は日本だけにはとどまりませんでした。日本一の次は世界へと飛び出そうとします。豊臣秀吉が目を付けたのは、当時の中国である「明」(みん)です。明を征服しようと考えた豊臣秀吉は、中間地点にある朝鮮に道案内を頼みますが、断られてしまいます。激怒した豊臣秀吉はほこ先を朝鮮に変え、朝鮮出兵を決意します。

朝鮮に一番近いのは九州北部なので、肥前(現在の佐賀県)に名護屋城を築き、朝鮮出兵の拠点としたのです。

1592年には1回目の出兵である「文禄の役」(ぶんろくのえき)、1597年には2回目の出兵である「慶長の役」(けいちょうのえき)を行いました。朝鮮出兵はこの2回なのですが、鎌倉時代の元寇(文永の役・弘安の役)と間違えやすいので、時代と「○○の役」はセットでしっかり覚えておきましょう。

<朝鮮出兵>
1回目:文禄の役
2回目:慶長の役

順調にいくかといざ朝鮮に向けて出兵した日本軍ですが、朝鮮は非常に強く、苦戦します。朝鮮は船が鉄の板でおおわれた「亀甲船」(きっこうせん)を持っており、朝鮮の武将である李舜臣(イ・スンシン)が率いる水軍に非常に悩まされました。非常に強い朝鮮の水軍は日本の水軍を撃破します。2回目の慶長の役の最中に豊臣秀吉が病気で亡くなったこともあって、日本軍は朝鮮から撤退し、朝鮮出兵はあえなく失敗に終わりました。

朝鮮出兵の際に、日本軍は敵を討ち取ったときの戦利品(手柄の証拠)として、その耳や鼻をそぎ落とし、塩漬けにして豊臣秀吉に送っていたと言われています。こういうこともあり、現在でも豊臣秀吉は朝鮮での不人気ナンバーワンです。たしかにあまりにも残虐ですよね。その後、このような目にあった人々を供養するために「耳塚」(みみづか)を全国各地につくり、耳や鼻のお墓としたのです。

また、日本軍は朝鮮出兵の際に、多くの職人を日本に連れ帰ってきました。この職人たちは朝鮮の文化を日本に伝えます。たとえば、有田焼(ありたやき)や萩焼(はぎやき)、唐津焼(からつやき)といった陶磁器を作る職人が代表的です。いずれも九州地方・四国地方の名がついた陶磁器です。現在でもよく使われる陶磁器ですが、実は朝鮮出兵のころから日本でも使われていたのです。

豪華絢爛な桃山文化が花開く

戦いばかりが行われていた血なまぐさいイメージのある戦国時代ですが、実は文化も発展を見せた時代でもあります。なかでも桃山文化は、戦国大名や商人たちが活躍した時代に花開いた、豪華で非常に雄大な文化でした。日本の文化というと仏教の影響を受けたものが多いですが、桃山文化の特徴は、仏教色があまりなく、逆に織田信長が好んだ南蛮文化の影響を受けていることです。たとえば「カステラ」や「金平糖」(こんぺいとう)などは現在も私たちの口に入るお菓子ですが、これらのことばは実はポルトガル語です。こうしたものも、当時行われていた南蛮貿易によって伝えられたので覚えておきましょう。

代表的な建築物は「城」

桃山文化のころには、多くの建築物が立てられましたが、なかでも代表的な建築物は「城」です。安土城、姫路城、大阪城などがとくに有名ですね。この当時、城はその象徴でもある「天守閣」(てんしゅかく)を持っていたのが特徴です。

安土城は建築された直後に焼けてしまったので、幻の城とも言われています。姫路城は、世界文化遺産にも登録されており、昭和の時代の太平洋戦争の被害からも逃れて、現在もほぼ当時の姿のまま残っています。姫路城の特徴はその白い城壁の美しさ。そのため、別名「白鷺城」(しらさぎじょう)とも呼ばれています。近年塗り替えが行われ、真っ白な姿を見せています。

ゴージャスなふすま絵(障壁画)

障壁画は、桃山時代に多く描かれました。特徴は、金の色使いです。おもに城のふすま絵として描かれることが多く、安土城や大阪城などのふすまにも描かれ、城をゴージャスに飾っていたのです。

有名な絵師として「狩野永徳」(かのうえいとく)がいますが、彼は障壁画の第一人者と言われています。豪華絢爛なふすま絵で有名です。狩野永徳を中心に、障壁画は主に狩野派の絵師たちが手掛けていました。有名な障壁画として資料集にも載っているのが「唐獅子図屏風」(からじしずびょうぶ)です。これは桃山文化の特徴を体現しているので、資料集で確認しておきましょう。

茶道が確立されたのもこの時代

現代でも茶道は多くの流派もあり、習っている人も多いですね。「茶の湯」とも呼ばれるこの茶道は、戦国時代のさなか、「千利休」(せんのりきゅう)によって確立されました。茶道はいろいろな作法を取り入れたもので、「わび・さび」を味わうのが特徴だとされています。

千利休は商人でしたが、茶の湯を愛していた織田信長に使えることになりました。織田信長が亡くなった後は、豊臣秀吉に使えました。ですが、豊臣秀吉は茶が嫌いだったと言われています。堅苦しさもある作法が大切とされる茶の湯のスタイルを気に入らなかった豊臣秀吉と千利休はあまり仲が良くなかったようです。最終的には千利休は豊臣秀吉から、商人であるにもかかわらず切腹を命ぜられ、その生涯を終えることになりました。千利休はミステリアスで、スパイだったといううわさもあったほどでした。いろいろな理由から豊臣秀吉は千利休に切腹を命じたのですが。これは大きな謎として現代でも語り継がれています。

日本が誇る伝統芸能・歌舞伎の誕生

受験生の皆さんはあまり見たことがないかもしれませんが、「歌舞伎」(かぶき)が誕生したのも桃山文化の時代です。歌舞伎は現代に脈々と伝えられており、「梨園」(りえん)とも言われるほど、歌舞伎役者の家族はスターとして注目を集めています。

歌舞伎と言うと、現代では男性だけの世界で、女性は歌舞伎役者になれないとされていますが、実ははじまりは女性が演じていたのです。「出雲阿国」(いずものおくに)という女性が踊りをはじめた芸能が、歌舞伎のはじまりだと言われています。女性がはじめたのに、現代では男性だけが演じるのは不思議ですよね。

戦いに秀で、天下統一成し遂げた豊臣秀吉

豊臣秀吉は、非常に戦いの巧者でした。意表を突く先方を使ったり、アイデアをさまざま繰り出し、ついには天下統一を果たしたのです。豊臣秀吉が生きたのは、戦国時代も終盤に差し掛かった頃でした。さまざまな戦乱を経て、ついに1590年に天下統一、日本一となったのです。

日本の頂点に上り詰めた豊臣秀吉は太閤検地や刀狩などの政策を繰り出し、ついには朝鮮出兵を行って世界デビューを果たします。評判の悪い朝鮮出兵ですが、天下統一とワンセットで世界にも目を向けていた人物としてとらえておきましょう。南蛮文化を積極的に取り入れた織田信長とは少し違い、武力で世界征服をもくろんだところに豊臣秀吉の戦い巧者ぶりが表れているとも言えるでしょう。

徳川家康と言えば!覚えておきたい5つのポイント

豊臣秀吉が亡くなった後、天下をとったのが徳川家康です。もともと大名の家の出身であった徳川家康は、豊臣秀吉を心の中では軽蔑していたとも言われています。最初のころは対立関係にありましたが、後に和睦(わぼく)し、徳川家康は豊臣秀吉を支えていくことになります。豊臣秀吉が1590年に天下統一を果たしたときの拠点は大阪城でした。徳川家康は江戸城に入り、北条氏がそれまで治めていた関東の地を治めることになったのです。

豊臣秀吉が天下統一したといっても、最後まで豊臣秀吉を悩ませた北条氏の残党は関東にまだまだ残っていたため、徳川家康はそんな関東を治めることにあまり乗り気でなかったと言われています。しかし、徳川家康は江戸城を中心に勢力をのばし、最終的には豊臣氏を滅ぼして江戸幕府を開くことになるのです。

関東地方を治めていた徳川家康は、豊臣秀吉が朝鮮出兵を行ったときも、関東を守らなければいけないということを理由に日本に残り、朝鮮に兵を出さなくて済みました。これも体力温存のために効果的だったと言えるでしょう。2回の朝鮮出兵は失敗に終わり、豊臣の軍は朝鮮からボロボロの状態で戻ってきましたが、徳川家康は兵力や財力を消耗せずに済んだのです。だからこそ天下統一を果たすことができたといっても過言ではありません。

豊臣秀吉は、側室である茶々(浅井長政の娘・浅井三姉妹の長女)との間に、息子の豊臣秀頼をもうけていました。正室であるねね(高台院)との間には息子はいなかったのです。年を取ってから生まれた秀頼をそれはそれは可愛がっていた豊臣秀吉は、自分の死期を悟ると、重臣たちに「なにとぞ息子の秀頼を頼む」と何度も頼み込んだと言われています。

その重臣のひとりが徳川家康でした。豊臣秀吉の重臣には、徳川家康や前田利家(まえだとしいえ)など五大老、そして石田三成(いしだみつなり)などの五奉行がいました。豊臣秀吉はまだ年若い息子の秀頼を差し置いて重臣たちが政権を奪取するのではないかと心配でたまらなかったようです。何度も何度も秀頼と豊臣の行く末を頼んだのですが、徳川家康にとっては秀頼が後を継ぐということはこの上ないチャンスだったのです。「なくまでまとう」の俳句通り、ついに徳川家康が天下取りをする機会がやってきた、そのタイミングが豊臣秀吉の死だったのです。

1600年~関ヶ原の戦い

朝鮮出兵に失敗し、ボロボロになって返ってきた豊臣方に対し、徳川家康は日本にいたため準備万端でした。そこで、徳川家康は自分が天下を取ろうと目論み、徐々に勢力を拡大させていったのです。

その際に目の上のたんこぶだった存在がいました。家康の天下統一を食い止め、豊臣の政権を守ろうとする五奉行のひとり、それが石田三成だったのです。徳川家康と石田三成の対立は次第に表面化するようになり、ついに1600年、「関ケ原の戦い」が起こります天下分け目の関ヶ原、と言われるように、まさに風向きが徳川家康のほうに変わった戦いでした。

関ヶ原の戦いでは、徳川家康率いる東軍と、石田三成が実質的に総大将を務めていた西軍の激突となりました。合戦がはじまった当初は、東軍より石田三成率いる西軍のほうが兵も多く、有利な状況にあったと言われています。徳川家康が率いていた東軍は不利な状況に追い込まれていましたが、ここで西軍の有力な大名が次々と東軍側に寝返るというできごとがありました。

たとえば、西軍の有力武将であった「毛利輝元」(もうりてるもと)は関ヶ原の戦いにいろいろ理由をつけて参加しませんでしたし、西軍の「小早川秀秋」(こばやかわひであき)は最後の最後に東軍に寝返ります。こうしたこともあり、あっという間に西軍は態勢が崩れてしまい、結果的に徳川家康の東軍が勝利したのです。天下分け目の関ヶ原の戦いを制した徳川家康は、天下の第一人者となりました。

関ヶ原の戦いのこぼれ話として、最初徳川家康率いる東軍が劣勢だったのは、兵が少なかったからで、その原因は徳川家康の息子の徳川秀忠(とくがわひでただ)が大遅刻したからだと言われています。徳川秀忠は大軍を率いていたのですが、最初合流できなかったので、東軍が劣勢になったのです。徳川家康の軍は東海道を通って関ヶ原に向かいましたが、徳川秀忠は中山道(なかせんどう)を通り、真田昌幸(さなだまさゆき)の城を攻め落とそうとしていました。

しかし、真田家は西軍きっての戦い上手。結局真田の城を落とすことができず、関ケ原の戦いの決着がついたあとにようやく徳川秀忠は関ヶ原に到着しました。結局合戦に参加していないので、大遅刻どころか欠席に近かったわけです。

家康、江戸幕府を開く

関ヶ原の戦いで大勝利した徳川家康は、1603年に朝廷から征夷大将軍に任命され、江戸幕府を開き、初代将軍の座につきます。待ちに待った徳川家康が江戸幕府を開いたのは60歳過ぎでした。そして、その2年後、徳川家康は将軍の座を息子の徳川秀忠に譲ります。しかしまだまだ元気いっぱいだった徳川家康は、うしろから秀忠を操り、実験を握っていました。それならばまだ将軍の座に就いていてもよさそうなものですが、なぜ譲ったのでしょうか。

ただでは譲らない徳川家康、やはりそこには政治的な理由がありました。当時の政治は、豊臣秀吉の息子である豊臣秀頼を担いで行われていました。豊臣方の人々は、徳川家康の次の将軍は当然豊臣秀頼、と期待していたと言われています。豊臣秀吉が死の床で、なんども秀頼を頼む、と言っており、徳川家康を含めた重臣たちはそれを約束したわけですから、当然次は豊臣家の天下、と期待されていたのです。

しかし、徳川家康は息子の徳川秀忠に将軍の座を譲り、「将軍の職は代々徳川家が継いでいくものだ」ということを天下にアピールしたのです。徳川家の権力はもはや無視できない強大なものになっていたので、豊臣方の人物が将軍になることをあきらめさせることに成功し、徳川の世の基盤が定まったのです。まさに「たぬきおやじ」の面目や駆除ですね。

大阪冬の陣・大坂夏の陣で豊臣家滅亡

徳川家康が息子の秀忠に将軍職を譲りましたが、大阪城には豊臣秀頼がおり、財力も十分持っていました。そこで、徳川家康はできるだけ早く豊臣家の力を奪おうと考えます。そこで目を付けたのが、豊臣秀吉が刀狩の際に大仏を建立すると理由を付けた「方広寺」です。当時の方広寺は、自然災害で壊れていました。そこで、徳川家康はその修繕を豊臣家にさせて持ち金を使わせようとしたのです。

そして、徳川家康が豊臣方にケチをつけるチャンスが訪れます。修繕が終わった方広寺の鐘に刻まれていた文字に目を付けたのです。鐘には「国家安康 君臣豊楽」と記されていました。徳川家康は「家と康を区切って、豊臣が繁栄するようにと刻むとは何事だ!」と激怒してみせます。言いがかり以外の何物でもありませんが、さすがはたぬきおやじと呼ばれた徳川家康、ちょっとしたきっかけで豊臣家を滅ぼすきっかけを探していたのです。

このなんくせ事件は方広寺鐘銘事件(ほうこうじしょうめいじけん)とも呼ばれ、結果的にこれがきっかけとなって二度にわたる「大坂の陣」がはじまりました。

1回目の「大坂冬の陣」は1614年にはじまります。大阪城(大坂城)は守りが鉄壁と言われており、簡単には攻め落とせない城でした。そこで、徳川家康は豊臣家に和睦を申し出ます。和睦の条件として、大阪城の外堀を埋めることを提案し、豊臣家はそれを受け入れてしまったのです。そして徳川軍が外堀を埋め始めたわけですか、何とついでに内堀まで埋めてしまいます。ずるいですね。

内堀まで埋められていると知った豊臣家は当然話が違うではないか、と抗議しますが、止めることができませんでした。結果的に外堀だけでなく内堀も埋められてしまい、大阪城は丸裸も同然で攻め放題の城になってしまったのです。

そして起こった2回目の「大坂夏の陣」。ついに大阪城は攻め落とされ、豊臣秀頼は母の茶々らとともに火を放ち、最期を遂げたのです。哀れな豊臣秀頼の最期ををいたんだ人々の中では、秀頼は大陸に渡り、チンギス・ハンになったという伝説を伝えるなど、秀頼生存説を唱えられていたと言われています。時代がだいぶ違うのであり得ない話なのですが。それだけ悲劇的な最期だったと言えるでしょう。

大阪の陣は、夏が最初で次が冬、と間違えて覚える受験生が多いのですが、正しくは1回目が大阪冬の陣、2回目が大坂夏の陣です。しっかり覚えておきましょう。

 

江戸幕府・幕藩体制の確立

豊臣家を滅ぼした徳川家康は、江戸幕府の権力を確固としたものにするために体制を整えていきます。トップである将軍を補佐する役割として「老中」を置きます。中でも非常時に幕府の最高職となる役職として「大老」が置かれました。幕末の安政の大獄・桜田門外の変で有名な「井伊直弼」(いいなおすけ)も大老でしたね。

また、幕府は日本全国すべてを支配するのではなく、各地の大名に治めさせました。大名が支配する土地は「藩」と呼ばれ、この政治の仕組みを「幕藩体制」と言います。この体制は約260年もの間、江戸幕府が天下を治めていた間続きました。

地方を各大名に治めさせる一方、江戸幕府は「絶対的な頂点」として君臨しました。各地の大名に多くの制限を与えたり、ときには金を使わせたりしてその財力が強大化するのを防ぎ、忠誠心を試していました。徳川家康は疑い深く、各地にスパイを放っていて、何か口実を付けては大名の力をそいでいったといいます。

江戸城の外堀の意思が気には、各地の大名の家紋が彫られていますが、これは、石垣を築くために大名に治める地から石を運ばせ、当然費用は大名もちにしてお金を使わせるとともに忠誠心を試していたことが分かる貴重な資料だとされています。

武家諸法度を制定して大名のルールを作る

2代将軍・徳川秀忠の時代の1615年、「武家諸法度」(ぶけしょはっと)が制定されます。武家諸法度とは、簡単に言えば各地に散らばっている大名たちに守らせるルールです。たとえば、大名同士は勝手に(幕府の許しを得ずに)結婚してはいけない、城を勝手につくったり修理したりしてはいけない、などです。何をやるにも幕府の許可が必要だったのです。勝手に大名同士が結婚関係にあると力が強くなり、幕府に反旗を翻すかもしれない、城をつくったり修理するということは兵力を付け、幕府に歯向かう可能性があるかもしれない、といったことから定められました。こうしたルールを徹底されたため、当時の大名はあまり自由に動けなかったのです。

徳川家康は、1616年、73歳(74歳とも言われます)で亡くなります。脂肪の原因には諸説あるのですが、有名なのは「タイの天ぷら」を食べ過ぎて死んでしまったと言われています。一代で三河の弱小大名から天下統一、約260年間続く江戸幕府を開くなど波乱万丈な「待ち」の生涯をおくった徳川家康が、結果的には戦国時代で一番の勝利をおさめたのです。

徳川家康はカメレオン

徳川家康は、1603年、60歳を過ぎて征夷大将軍、つまり武士の頂点に上り詰めたヒーローという顔を持ちますが、いっぽうで「たぬきおやじ」と呼ばれたように、疑い深く、相手をだますことも平気で行い、江戸幕府の地位を確固としてモノにして行きました。ヒーローとずるいおやじ、まったく違う顔を使い分けたカメレオンのような武士、政治家だったと言えるでしょう。

粘り強く待ちの姿勢を取り、最後には敵を滅ぼし、天下を取った徳川家康。織田信長や豊臣秀吉とはまた異なる姿を見せた戦国時代の勝者のあと、代々の将軍はさまざまなルール作りを行い、大名統制を強めていきます。ぜひ、戦国時代から江戸時代初期までの流れをしっかり押さえておきましょう。時代と時代の合間は入試問題でも模試でも狙われやすいところです。早めに整理しておくことをおすすめします。

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