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第二次世界大戦終戦前後の世界情勢
1941年に、日本軍がハワイ湾に攻撃し、太平洋戦争が始まります。最初は勝利をおさめていた日本ですが、次第に戦況は悪化していきます。1945年3月には、硫黄島がアメリカ軍の手に落ち、同年4月には、沖縄本島にもアメリカ軍が上陸します。
日本で唯一の地上戦となった沖縄では、日本軍だけでなく、女学生によるひめゆり隊・白梅隊などの学徒隊をはじめ、多くの民間人が戦いに身を投じました。3ヶ月近く続いた地上戦で日本軍10万人弱、民間人10万人弱が命を落としました。
1945年2月の時点で、ローズヴェルト[i]、チャーチル[ii]、スターリン[iii]の間で、ヤルタ会談が行われ、終戦が目前となったドイツの処理や、東欧について話し合われました。また、ソ連がドイツ降伏後、対日参戦することも秘密裏に決まりました。この会談でまとめられた秘密協定をヤルタ協定といいます。
ベルリンに連合軍が迫り、1945年5月にドイツは降伏します。同盟国が降伏し、日本は孤立無援となります。ドイツ降伏後の処理問題について、ベルリン郊外のポツダムで、トルーマン[iv]、チャーチル、スターリンらで話し合いました。(ポツダム会議)この会議でアメリカは対日戦の処理と無条件降伏を提案します。蒋介石の同意のもと、ポツダム宣言を日本に発令します。
ポツダム宣言を受諾し、無条件降伏を受け入れた日本は、連合軍最高司令官総司令部(GHQ)の間接統治下に置かれることとなります。日本が統治していた朝鮮や中国、台湾は、日本の植民地支配からソ連、アメリカの管轄下となります。
そして次第にアメリカとソ連の対立が激化し、冷たい戦争と呼ばれる冷戦へと入っていきます。ドイツが東西で分断され、その影響はアジアにも迫っていました。
朝鮮戦争
国民党と共産党で内戦を続けている中国は、次第に共産党が優勢になります。1949年毛沢東[v]を首席として、中華人民共和国が成立しました。国民党の蒋介石[vi]は台湾に逃れました。
朝鮮半島は、戦後日本の植民地支配から解放された後、北緯38度を境にソ連とアメリカに占領分割されていました。南に大韓民国、北に朝鮮民主主義人民共和国が樹立されます。ソ連とアメリカの対立によって分断された朝鮮半島は、対立の激化により朝鮮戦争へと向かっていきます。
1950年に始まった朝鮮戦争は、韓国軍と北朝鮮軍の戦闘ではありましたが、ソ連、アメリカの両者が介入し軍事支援を行なっていました。更にGHQのマッカーサー[vii]は指揮下の軍隊を朝鮮半島で使用する権限を国連から与えられ、米軍を朝鮮半島に派遣しました。一方北朝鮮には中国軍が加担しました。
全面戦争に発展する危険を避けるため、トルーマン大統領は強気なマッカーサーを解任し、ソ連の提案により、休戦会議が設けられます。その結果、1953年に休戦協定が結ばれます。北朝鮮と韓国は今もなお休戦状態にあります。
【注】
[i] 1882〜1945 アメリカの第32代大統領(在任1933〜45)民主党のウィルソンの下で海軍次官をつとめ,ニューヨーク州知事をへて1933年恐慌の最中に大統領に就任し,ニューディール政策を強力に推進した。また,ラテンアメリカ諸国に対しては善隣外交につとめ,フィリピンの独立を約束し,ソ連を承認(1933)して国交を回復した。第二次世界大戦の危機が迫ると,国防計画の強化,中立法の改正をはかり,1941年には四つの自由(言論・表現,信教の自由,欠乏,恐怖からの自由)を説き,チャーチルと大西洋上で会見して大西洋憲章を発表した。日本軍の真珠湾攻撃を機に国論を統一して参戦,カサブランカ・カイロ・テヘラン・ヤルタの諸会談に出席し,1944年には異例の大統領4選をかちえたが,大戦終結直前の4月に急逝した。(旺文社『世界史事典』)
[ii] 1874〜1965 イギリスの政治家。南ア戦争など植民地各地の戦闘に従軍し,1900年に保守党から下院にはいった。1904年自由党に転じ,アスキス内閣で内相,ついで海相となって対独主戦論を唱えた。第一次世界大戦中から戦後にかけて諸相を歴任したが,彼の重大な関心は対ソ干渉戦争であった。戦後,労働党勢力の伸張や社会主義の急進化を憂えて保守党に復帰し,1924年ボールドウィン内閣の蔵相となる。1930年代には,野にあってナチス−ドイツに対する宥和 (ゆうわ) 政策を批判した。第二次世界大戦が勃発すると入閣,戦局の最も困難なときに首相に就任(1940〜45)して不屈な単独抗戦を指導し,F.ローズヴェルト・スターリンとともに連合軍の勝利に貢献したが,勝利直前に総選挙に敗れて下野。1951年再び首相となり,55年に引退した。『第二次世界大戦回顧録』により,53年ノーベル文学賞を受賞。(旺文社『世界史事典』)
[iii] 1879〜1953 旧ソ連の政治家・ソ連共産党の最高指導者。グルジア生まれ。19歳で革命運動にはいり,逮捕・流刑・逃亡を重ねた。『マルクス主義と民族問題』を著し,レーニンに認められて党中央委員となり,スターリン(鋼鉄の人)のペンネームで理論活動を展開,党の機関紙「プラウダ」の編集にも携わる。ソヴィエト政権の成立後,民族人民委員・初代党書記長となり,1924年レーニンの死後は,トロツキー・ジノヴィエフ・ブハーリンら党内反対派を抑えて一国社会主義を推進し,数次の五か年計画によって社会主義建設に成果を収めた。1936年スターリン憲法を制定して社会主義の勝利を宣言したが,一方で反対派を粛清で大量処刑した。第二次世界大戦ではヒトラーの攻撃を退けて祖国防衛に成功,戦後ソ連の国際的地位を高めたが,死後の1956年,彼の秘密的・専制的傾向はフルシチョフによりスターリン主義として批判された。(旺文社『世界史事典』)
[iv] 1884〜1972 アメリカの第33代大統領(在任1945〜53)中等教育を受けただけで苦学し,1934年民主党の上院議員となり,44年F.ローズヴェルト大統領とともに副大統領に当選,翌年ローズヴェルトの急死で大統領に昇格した。第二次世界大戦の終結に努力し,戦後の米ソ対立の中で反共的なトルーマン−ドクトリンを唱え,マーシャル−プランを推進したが,国内で掲げたフェアディール政策では議会の反対であまり成果があがらなかった。(旺文社『世界史事典』)
[v] [1893~1976]中国の政治家・思想家。湖南省湘潭しょうたん県の人。1921年、中国共産党の創立に参加。農民運動を指導し、朱徳らと工農紅軍を組織、31年江西省瑞金に中華ソビエト共和国臨時政府を樹立して主席となったが、34年から長征を行い陝西せんせい省延安に移動。日中戦争には国共合作し、抗日戦を指導して勝利。戦後は蒋介石の国民党軍を破り、49年中華人民共和国を建国。国家主席・党中央委員会主席に就任して新中国の建設を指導した。66年、文化大革命を起こすが、死後その誤りを指摘された。著「新民主主義論」「連合政府論」「実践論」「矛盾論」など。マオ=ツォトン。(小学館『大辞泉』)
[vi] [1887~1975]中国の政治家。中華民国総統。浙江せっこう省奉化ほうかの人。字あざなは中正。孫文に師事し、黄埔こうほ軍官学校を創設、革命軍を養成して北伐を成功させた。のち、国民政府主席となり、反共政策を推進。抗日戦争では国共合作により共産党と協力したが、第二次大戦後、国共内戦に敗れ、1949年台湾に退いた。チアン=チエシー。(小学館『大辞泉』)
[vii] 1880〜1964 アメリカの軍人。第二次世界大戦中は,在フィリピン米極東軍司令官・西南太平洋連合軍司令官として対日反攻作戦を指揮した。戦後は,日本占領連合軍最高司令官として東京に駐在し,日本の民主化に大きく貢献した。朝鮮戦争が勃発すると国連軍最高司令官に就任,中国領爆撃と核兵器の使用を主張し,トルーマン大統領と対立して解任された。(旺文社『世界史事典』)