【社会・歴史】日本と中国・朝鮮半島の交流史をおさえよう⑫〜昭和時代・太平洋戦争編〜

日中戦争から太平洋戦争へ、日本とアジア諸国の動きを見ていきましょう。 

1937年から始まった日中戦争が長引くなか、1939年にドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が勃発します。ヒトラー[i]率いるナチスドイツはヨーロッパにおいて勝利を収め、ムッソリーニ[ii]率いるイタリアはドイツ側に立って参戦しました。 

1940年に成立した第二次近衛内閣[iii]は、外務大臣に松岡洋右[iv]、陸軍大臣に東条英機[v]をむかえました。そして、同年に日独伊三国同盟を結びます。 

近衛内閣は、日本のアジア進出を危険視するアメリカとの関係悪化を調整しようと試みますが、陸軍の強い反対などを受け開戦へと傾いていきます。1941年、日本の中国およびインドシナからの撤退、蒋介石[vi]政権以外の政権を認めない旨を記した覚書、ハル=ノートを突きつけます。これを最後通牒と受け取った日本は、ハワイの真珠湾を攻撃し、太平洋戦争が始まります。 

日本軍は、1941年12月にグアム島・香港、1942年1月にはフィリピンのマニラ、2月にはマレー半島・シンガポール、3月にはインドネシア(当時はオランダ領東インド)4〜5月にはビルマ(現ミャンマー)・フィリピン諸島など次々に占領していきます。 

更に日本軍は、「大東亜共栄圏[vii]」をスローガンとして掲げ、欧米の植民地支配からアジア諸民族を解放し、アジア人による経済共栄圏を建設しようとしました。しかし、アジア諸国の中から日本の支配に対する民族的抵抗の動きが高まり、中国では抗日ゲリラが活発化していました。 

最初は勝利を収めていた日本でしたが、次第に戦況は不利になり、ミッドウェー海戦での敗北以降、退却を余儀なくされていきます。物資や兵力が不足する中、1943年に朝鮮、1944年に台湾に対し徴兵制を施行し、多数の朝鮮人や中国人を強制的に日本に連行し鉱山や土木などで強制労働させました。 

【注】

[i] 1889〜1945 ドイツの政治家。ナチスの指導者。第三帝国の総統(在1934〜45)オーストリアに生まれ,ウィーンの貧民街で画工・日雇労務者としての生活を送ったことが,後年のドイツ優越・反ユダヤ・反社会主義・反議会主義の思想的基盤を体得した原因といわれる。第一次世界大戦に志願し,兵長に昇進して負傷。敗戦後はナチスの前身であるドイツ労働者党(1920年,国民社会主義ドイツ労働者党と改称)に加入し,まもなくその雄弁によって党首になった。ルーデンドルフをたてて1923年ミュンヘン一揆を起こしたが失敗し,獄中で『わが闘争』を執筆した。1年余で出獄後は合法活動に転じ,党組織を整備した。1929年の世界恐慌後,ナチスは中産層・農民の支持を得,重工業資本の援助も受けて第一党に躍進。1933年に首相に就任すると,ただちに一党独裁の全体主義体制を確立,ユダヤ人の迫害を合法化し,経済建設と軍備拡張をはかった。1934年ヒンデンブルク大統領の死後総統となり,再軍備強行などヴェルサイユ体制の打破をはかった。1939年9月第二次世界大戦に突入し,41年6月にはソ連にも侵入,一時ほとんど全ヨーロッパを占領した。また,各地に強制収容所を設置して,ユダヤ人やスラヴ人を虐殺した。スターリングラードの戦いでの敗北を機にドイツは劣勢となり,1944年6月,連合軍のノルマンディー上陸作戦で東西から挾撃された。7月,国防軍の反ヒトラー派によるヒトラー爆殺事件は奇跡的に切り抜けたが,1945年4月30日,ベルリンの陥落直前に愛人エヴァとともに自殺した。(旺文社『世界史事典』) 

[ii] 1883〜1945 イタリアのファシスト独裁者。小学校教師をつとめ,のちイタリア社会党にはいり,1912年同党機関誌主筆となったが,第一次世界大戦の勃発に際し,参戦を主張して除名された。戦後,戦闘ファッシを組織し,1921年ファシスト党に改組してその党首(ドーチェ)となり,22年有名なローマ進軍によって,王命で政権を獲得した。選挙法改正・労働組合弾圧・言論取り締まりなどによって民主主義を否定し,1925年初頭からファシスト独裁政治を行ういっぽう,スペイン内戦を機にナチス−ドイツと枢軸外交を結び,エチオピア戦争(1935〜36),国際連盟脱退(1937),アルバニア併合(1939)など侵略的な外交政策を行った。また,ドイツ・日本と防共協定を結び(1936),第二次世界大戦では枢軸国側に参戦した(1940)。連合軍のシチリア上陸後,反対派によって罷免 (ひめん) ・拘禁され(1943),一時ドイツ軍によって救出されたが,コモ湖畔でパルチザンに捕らえられて銃殺された。(旺文社『世界史事典』) 

[iii] 近衛文麿を首班とする内閣。〔第1次〈1937.6〜39.1〉〕林銑十郎内閣倒閣後,挙国一致をめざして各界の期待をになって組閣。日中戦争勃発には不拡大方針を表明したが,軍部におされ,また和平工作に失敗して戦争は拡大した。国家総動員法を制定して戦時体制を整えた。〔第2次〈’40.7〜41.7〉〕米内光政内閣のあとをうけて組閣。大政翼賛会結成など新体制運動を強力に推進,外交では日独伊三国同盟・日ソ中立条約締結などを行う一方,日米交渉を開始したが,これに反対する松岡洋右 (ようすけ) 外相を更迭するため総辞職。〔第3次〈’41.7〜41.10〉〕ひきつづき組閣。日米交渉の行きづまりが打開できず総辞職し,東条英機内閣が成立した。(旺文社『日本史事典』) 

[iv] 1880〜1946 昭和期の外交官・政治家。山口県の生まれ。オレゴン州立大卒。外交官を歴任したのち,南満州鉄道株式会社(満鉄)副総裁に就任。帰国後,政友会から衆議院議員に当選。1933年国際連盟総会で首席全権として連盟脱退を声明した。満鉄総裁を経て,’40年第2次近衛文麿内閣の外相となり,日独伊三国同盟を締結。’41年ドイツ・イタリア訪問の帰途日ソ中立条約を結び,日米交渉に反対し,近衛首相と対立した。第二次世界大戦後,A級戦犯として審理中,獄中で病死した。(旺文社『日本史事典』) 

[v] 1884〜1948 昭和期の軍人・政治家。陸軍大将。東京の生まれ。統制派の中心として,1940年第2・3次近衛文麿内閣の陸相となり,日米交渉では強硬論を主張した。翌年10月組閣,12月太平洋戦争に突入した。以後陸相・外相・内相・文相・参謀総長などを兼任し,独裁政治を行う。サイパン島陥落で ’44年7月辞職。第二次世界大戦後,A級戦犯として絞首刑に処せられた。(旺文社『日本史事典』) 

[vi] 中国の軍人、政治家。字(あざな)は中正。浙江省奉化県の人。保定軍官学校、日本の陸軍士官学校に学ぶ。一九一一年の革命に加わり、孫文に師事。孫文の死後、国民党中央執行委員、国民革命軍総司令となり、北伐に成功、南京政府の実権を握った。三六年西安事件で捕えられ、国共合作に同意したが、抗日戦争中も反共政策を強行した。戦後、中華民国初代総統となったが、国共内戦に敗れ、四九年台湾に逃れた。妻の宋美齢は孫文夫人の宋慶齢の妹。チアン=チエシー。(一八八七‐一九七五)(日本国語大辞典) 

[vii] 日中戦争から太平洋戦争のころの日本の対アジア基本構想。欧米の植民地支配の代わりにアジア地域に共存共栄の自給自足共同体(共栄圏)を樹立しようというものだが,現実には日本にとって資源や労働力の確保が目的。第2次近衛文麿内閣の声明(1940)と「大東亜政略指導大綱」で明らかにされた。’43年11月,東条英機首相を中心に,東京で大東亜会議が開かれ,日本の勢力下の国ぐにの代表が集まり宣言を採択したが,具体的効果はなかった。(旺文社『日本史事典』) 

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