『大鏡』は平安時代後期の歴史物語です。作者は未詳ですが、男性の手によるものではないかと考えられています。文徳天皇[i]の850年(嘉祥3年)から後一条天皇[ii]の1025年(万寿2年)まで、14代、176年間の歴史が描かれています。その中心に描かれているのは、藤原道長[iii]の栄華です。しかし、先に成立した『栄花物語[iv]』では、女房らの手による物だと考えられ、藤原道長を賛美し、『源氏物語』に通ずる物語要素を多く含んだ歴史物語であったのに対し、『大鏡』は藤原道長を中心とした摂関政治[v]の社会背景を描き、時には批判的な視線で描かれています。また、『大鏡』はその後『今鏡』、『水鏡』、『増鏡』と続いていく「鏡物」の一作目に位置付けられ、これら4つの歴史物語はまとめて「四鏡」と呼ばれます。
先に述べたように、藤原道長の栄華に対する描き方などの点において比較されることのある『栄花物語』と『大鏡』ですが、その記述形式においても比較されています。『栄花物語』年代ごとに歴史を記述していく“編年体[vi]”の形式をとっています。一方、『大鏡』は中国の歴史書『史記[vii]』の “紀伝体[viii]” の形式に倣って藤原道長の栄華とその由来を記述しています。
さらに、『大鏡』の特徴として挙げられているのはその語り口です。『大鏡』では“世継ぎの翁”、“繁樹の翁”、“若侍”を中心に2人の翁が若侍に昔話をする形で語られていきます。『大鏡』は人間の性格・心理を写実的に描き、歴史を叙述するというよりは人間たちの物語として描こうとしています。こうした『大鏡』の語り口は以降の鏡物に大きな影響を与えました。
『大鏡』の語り口がわかる冒頭の部分を本文を引用して紹介します。
序
【一】雲林院の菩堤講にて、翁たちの出会い
先つ頃、雲林院の菩提講に詣でて侍りしかば、例の人よりはこよなう年老い、うたてげなる翁二人、嫗といきあひて、同じ所に居ぬめり。あはれに、同じやうなるもののさまかなと見はべりしに、これらうち笑ひ、見かはしていふやう、
「年頃、昔の人に対面して、いかで世の中の見聞くことをも聞えあはせむ、このただいまの入道殿下の御有様をも申しあはせばやと思ふに、あはれにうれしくも会ひまうしたるかな。今ぞ心やすく黄泉路もまかるべき。おぼしきこといはぬは、げにぞ腹ふくるる心地しける。かかればこそ、昔の人はものいはまほしくなれば、穴を堀りてはいひ入れはべりけめとおぼえはべり。かへすがへすうれしく対面したるかな。さてもいくつにかなりたまひぬる」
「いくつといふこと、さらに覚えはべらず。ただし、おのれは、故太政大臣貞信公の、蔵人少将と申しし折の小舎人童、大犬丸ぞかし。ぬしは、その御時の母后の宮の御方の召使、高名の大宅世継とぞいひはべりしかな。されば、ぬしの御年は、おのれにはこよなくまさりたまへらむかし。みづから小童にてありし時、ぬしは二十五六ばかりの男にてこそはいませしか」
といふめれば、世継、
「しかしか、さ侍りしことなり。さてもぬしの御名はいかにぞや」
といふめれば、
「太政大臣殿にて元服つかまりし時、「きむぢが姓はなにぞ」と仰せられしかば、「夏山となむ申す」と申ししを、やがて繁樹となむつけさせたまへりし」
などといふに、いとあさましうなりぬ。
<訳>
せんだって、私が雲林院の菩提講に参詣しそこにしばらくおりましところ、ふつうの老人にくらべて、かくべつに年をとり、異様な感じのする老翁二人、老女一人と三人が偶然に出会い、同じ場所にすわりあわせたようです。しみじみと、よくまあ同じようなようすをした老人たちの姿だなあと見ておりますと、この老人たちは、たがいに笑って顔を見あわせていいますには、
「年来、昔の知合いにお目にかかり、どうかして、今まで見たり聞いたりした世間の多くのことをもお話ししあいたい、また、今の栄華をきわめておられるあの入道殿下のごようすもお話しあいたいものだと思っておりましたが、ほんとうにまあ、うれしくもお会いもうしたことですよ。いまこそ安心して冥途に行けるというものです。こうありたいと心に思っていることをいわないでいるのは、ほんとうに腹のふくれるいやな気持ちがするものですなあ。こんなわけで、昔の人は、なにかものをいいたくなると、穴を掘ってはその中に思うこといって埋め、気を晴らしたのであろうと思われますよ。ここでお会いしたことは、かえすふがえすもうれしいことですなあ。それにしても、あなたはおいくつにおなりでしたか」
といいますと、もう一人の老人が
「さあてね、いくつということは、いっこうに覚えておりません。ですが、私は、亡くなった太政大臣貞信公が、蔵人少将と申された頃の、小舎人童の大犬丸ですよ。あなたは、その宇多天皇の御代の皇太后宮の御方の召使で、名高い大宅世継といったお方ですなあ。ですから、あなたのお年は私よりずっと上でいらっしゃるかもしれませんねえ。私がまだほんの子供だったとき、あなたはもう二十五、六歳ほどの男ざかりでいらっしゃいました」
というようですが、
「私が太政大臣殿のお邸で元服いたしたときに、「おまえの姓はなんというのか」と貞信公がおっしゃいましたので、「夏山と申します」と申しあげましたところ、そのまますぐに、縁語で繁樹と名前をおつけになってしまわれました」
などというので、そのあまりの昔の話に、私はすっかり驚きあきれてしまいました。
以上のように、若侍が出会った老年の翁二人が回想しながら歴史を語っていくという昔話のような体裁をとっており、中には説話に近いものもあるとも指摘されています。歴史物語はあくまで物語であり、『大鏡』が作者の視点で物語を作り出そうとしたものであることも興味深いです。こうした点でも以降に続く鏡物の基礎となった物語と言えるでしょう。
最後に、『大鏡』について簡単な問題を出したいと思います。
(わからなかった問題はしっかりと復習しておこう!)
- 『大鏡』の前に作られた女房の手によるとされる歴史書は何ですか。
- 『大鏡』は紀伝体、編年体、どちらで書かれていますか。
- 『大鏡』以降の鏡物を3つ答えなさい。
- 『大鏡』が中心として描いている人物は誰ですか。
- 『大鏡』の語り口の特徴を“三人の人物”という点に着目して説明しなさい。
→次回は今昔物語について解説します!
(註)
- [i] (827~858) 第五五代天皇(在位850~858)。名は道康みちやす。仁明天皇の第一皇子。母は藤原冬嗣の女むすめ順子。三省堂『大辞林 第三版』
- [ii] (1008~1036) 第六八代天皇(在位1016~1036)。名は敦成あつひら。一条天皇の皇子。母は藤原道長の娘彰子。在位中道長が摂政を務めた。三省堂『大辞林 第三版』
- [iii] (966~1027) 平安中期の廷臣。摂政。兼家の子。道隆・道兼の弟。法名、行観・行覚。通称を御堂関白というが、内覧の宣旨を得たのみで正式ではない。娘三人(彰子・姸子・威子)を立后させて三代の天皇の外戚となり摂政として政権を独占、藤原氏の全盛時代を現出した。1019年出家、法成寺を建立。日記「御堂関白記」がある。三省堂『大辞林 第三版』
- [iv] 平安後期の歴史物語『世継物語』ともいう。11世紀の成立。40巻。正編30巻は赤染衛門,続編は出羽の弁の作というが確証はない。宇多天皇から堀河天皇まで約200年の宮中を中心とした貴族社会の歴史を編年体で記述。主題は藤原道長の栄華で批判性に乏しい。史書としては和文編年体の最初で,女房の日記などを資料に使ったらしく,概して正確である。『旺文社日本史事典』
- [v] 平安中期、藤原氏が摂政・関白となって政権を握った政治形態。866年藤原良房が摂政、887年藤原基経が関白となったのに始まり、二度の中絶を経て967年藤原実頼が関白になって確立、1086年の院政開始により衰退。三省堂『大辞林 第三版』
- [vi] 歴史記述の一形式。年代の順を追って記述するもので、中国では「春秋」に始まる。日本では「日本書紀」「日本政紀」などがこの形式。三省堂『大辞林 第三版』
- [vii] 中国最初の紀伝体の通史。二十四史の一。一三〇巻。前漢の司馬遷著。紀元前91年頃完成。上古の黄帝から前漢の武帝までの歴史を記す。本紀一二巻、表一〇巻、書八巻、世家せいか三〇巻、列伝七〇巻から成る。後世、正史の模範とされた。注釈書に南朝の宋の裴駰はいいんの「史記集解しつかい」、唐の司馬貞の「史記索隠」、唐の張守節の「史記正義」などがある。太史公書。三省堂『大辞林 第三版』
- [viii] 歴史記述の一形式。各人物ごとの事績を中心に歴史記述を行うもの。「史記」に始まり、中国の正史編纂の正統な形式とされる。普通、本紀(帝王の伝記)・列伝(臣下などの伝記)・志(地理・礼楽など)・表(各種の年表)からなり、志・表を欠く場合もある。 三省堂『大辞林 第三版』
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