日本人なら知っておきたい文学作品!院政期の勅撰和歌集『後拾遺和歌集』

後拾遺和歌集』は全20巻、1218首が収載される院政[i]期の勅撰和歌集です。撰者は藤原通俊とされています。院政期の初め、政策の一環として白河天皇[ii]により藤原通俊[iii]に1075年(承保2年)『後拾遺和歌集』の編纂の勅命が下りましたが、藤原通俊が蔵人頭[iv]として激務にあたっていたため、9年後に着手する形となりました。1086年(応徳3年)に草稿本の成立・改変を経て、翌年1087年(応徳4年)に天皇に奏上されました。『古今和歌集』、『後撰和歌集』、『拾遺和歌集』に続く4つ目の勅撰和歌集です。

『後拾遺和歌集』の特徴としては女流歌人の歌が多く、叙述的な歌や田園を歌った叙景歌が多いという点が挙げられます。平安最盛期の歌人の歌を多く収載し、総じて保守的であるとされ、当時の革命的な歌人から批判をうけました。批判した歌人の一人が、当時を代表する歌人であった源経信[v]です。源経信は批判を『難後拾遺[vi]として記しました。『難後拾遺』は勅撰集に対する最初の論難書になりました。

次に、『後拾遺和歌集』の代表的な歌人とその歌を見ていきたいと思います。
括弧内は収載された和歌の数です。(和歌は全て日本古典文学全集『後拾遺和歌集』より参照。)

  1. 女流歌人
    • 和泉式部[vii](67)
      春霞たつやおそきと山川の岩間をくくる音きこゆなり
      <訳>春霞がたつのを遅いと待っていたかのように、山川が岩間を流れる音が聞こえるよ
      解説:
      • 春霞…枕詞。「たつ」にかかる。意味は春に立つかすみ。春のかすみ。(『三省堂 大辞林 第三版』)のこと。
    • 相模[viii](40)
      見わたせば波のしがらみかけてけり卯の花さける玉川の里
      <訳>見渡せば波のしがらみをかけたようだよ、卯の花が咲く玉川の里は
      解説:
      • 卯の花…ウツギの花。また、ウツギの別名。(『三省堂 大辞林 第三版』)夏の季語。
      • 玉川の里…全国に六か所あり、六玉川(むたまがわ)と総称される川。歌枕。(『日本国語大辞典』 )卯の花と取り合わせて歌われるのは大阪府高槻市にある三島の玉川のことをさす。
    • 赤染衛門[ix](32)
      やすらはで寝なましものをさ夜更けてかたぶくまでの月を見しかな
      <訳>迷ったりせず、寝れば良かったものを夜が更けて沈もうとする月を見ていましたよ
    • 伊勢大輔[x](27)
      いにしへにふりゆく身こそあはれなれ昔ながらの橋を見るにも
      <訳>いにしへの人となって古びていく身こそ哀れなことですよ、昔ながらの長柄の橋をみるにつけても
      解説:
      • 昔ながらの橋…「昔ながら」と「長柄の橋」をかけた掛詞になっている。
      • 長柄の橋…長柄あたりにあった橋。現在の長柄橋(大阪府淀区)付近にあったといわれる。(『日本国語大辞典』)
  2. 男流歌人
    • 能因法師[i](31)
      嵐吹くみむろの山のもみぢ葉は龍田の川の錦なりけり
      <訳>嵐がふく三室の山の紅葉は、龍田川を流れまるで川面を彩る錦のようだ
      解説:
      • 三室の山…奈良県斑鳩いかるが町、竜田川下流西岸の丘陵。紅葉の名所。神南備山。(『三省堂 大辞林 第三版』)
      • 龍田の川…奈良県北西部、大和川の龍田川との合流点から下流、大和国(奈良県)と河内国(大阪府)との境にかけての古称。歌枕。(『三省堂 大辞林 第三版』)
    • 清原元輔[xii](26)
      うつり香のうすくなりゆくたき物のくゆる思ひにきえぬべきかな
      <訳>あなたのうつり香が薄くなってゆく。その微かな薫物の香りのようにこの思いも消えていってしまいそうです
      解説:
      • 思ひ…「思い」と「火」を掛けている。「薫物」「くゆる」「消え」は縁語。
    • 大中臣能宣[xiii](26)
      梅の花にほふあたりの夕暮はあやなく人にあやまたれつつ
      <訳>梅の花が匂うあたりの夕暮れはむやみに人の薫香と間違え、来客があったのかと思い違いをしてばかりいる
      解説:
      • 当時梅花香という薫物があった。
    • 源道済[xiv](22)
      散り果ててのちや帰らむ古郷も忘られぬべき山桜かな
      <訳>すっかり散り果てたのちここを立ち去ろう。懐かしい故郷も忘れてしまいそうな山桜であるよ
    • 藤原長能[xv](20)
      いとふとは知らぬにあらず知りながら心にもあらぬ心なりけり
      <訳>あなたが私を避けていることは知らないわけはない、知っていながらどうしようもできない自分の心なのですよ

撰歌に賄賂を認めたとの風評から『小鰺集』との異名が付いたように、評判の良くない面もある勅撰和歌集ですが、文学史研究においては最盛期の歌人から当代の歌人まで幅広く収載され、中世和歌の萌芽も見受けられる和歌集として位置付けられています。

最後に、『後拾遺和歌集』について簡単な問題を出したいと思います。
(わからなかった問題はしっかりと復習しよう!)

  1. 『後拾遺和歌集』は誰の命によって編纂されましたか。
  2. 『後拾遺和歌集』の撰者は誰とされていますか。
  3. 『後拾遺和歌集』はいくつ目の勅選和歌集ですか。
  4. 『後拾遺和歌集』の批判を記した歌論『難後拾遺』を著したのは誰ですか。
  5. 『後拾遺和歌集』に歌が収載されている女流歌人を一人答えなさい。

→次回は大鏡について解説します!

(註)
  • [i] 上皇または法皇によって院庁で政治が行われたこと。また、その政治形態。1086年白河上皇に始まり、形式的には1840年光格上皇死去まで断続した。『三省堂 大辞林 第三版』
  • [ii] (1053~1129) 第七二代天皇(在位1072~1086)。後三条天皇の第一皇子。名は貞仁。譲位後、上皇として院政を創始。以後43年間朝政を掌握した。『三省堂 大辞林 第三版』
  • [iii] (1047~1099) 平安後期の歌人。従二位中納言・治部卿。白河天皇に重用され、後拾遺和歌集の撰者。同集以下の勅撰集に二七首入集。『三省堂 大辞林 第三版』
  • [iv] 蔵人所の別当に次ぐ職。定員は二名で、一人は弁官から、一人は近衛中将から任じ、それぞれ頭弁・頭中将といい、殿上の大小の事務をつかさどった。『三省堂 大辞林 第三版』
  • [v] (1016~1097) 平安後期の廷臣・歌人。俊頼の父。帥大納言・桂大納言・源都督などと称された。大納言・大宰権帥。三船(詩・歌・管弦)の才を兼備。清新な歌風を示し、藤原通俊らと対立した。著「難後拾遺」、家集に「大納言経信集」「帥大納言集」がある。『三省堂 大辞林 第三版』
  • [vi] 歌論書。一巻。源経信つねのぶ著。平安後期の成立。後拾遺和歌集から八四首を抜き出し、批判を加えたもの。勅撰和歌集に対する最初の論難書。『三省堂 大辞林 第三版』
  • [vii] 平安中期の女流歌人。大江雅致まさむねの女むすめ。和泉守橘道貞と結婚、小式部内侍を生む。冷泉院の皇子為尊ためたか親王(977~1002)・敦道あつみち親王(981~1007)の寵ちようを受け、両親王薨御こうぎよ後は、一条天皇中宮彰子に出仕。のち、藤原保昌(958~1036)と再婚、夫の任地で没。恋の哀歓を直截ちよくせつに詠んだ女性として名高い。生没年未詳。著「和泉式部日記」、家集「和泉式部集」『三省堂 大辞林 第三版』
  • [viii] 平安中期の女流歌人。初め乙おと侍従と呼ばれたが、相模守大江公資きんよりと結婚、相模と呼ばれる。公資と離別後、脩子内親王に仕え、多くの歌合に出詠。後拾遺集には四〇首入集。生没年未詳。家集「相模集」『三省堂 大辞林 第三版』
  • [ix] 平安中期の女流歌人。赤染時用ときもちの女むすめ。実父は母の前夫平兼盛か。大江匡衡まさひらの妻。藤原道長の妻倫子、その子上東門院に仕え、和泉式部と並び称された。古来「栄花物語」の作者に擬せられている。家集「赤染衛門集」。生没年未詳。『三省堂 大辞林 第三版』
  • [x] 〔「いせのたゆう」とも〕 平安中期の女流歌人。伊勢の祭主大中臣輔親おおなかとみのすけちかの女むすめ。能宣よしのぶの孫。高階成順たかしななりのぶの妻となり康資王母を生む。上東門院彰子に仕えて、歌壇での活躍は50年間に及んだ。生没年未詳。家集「伊勢大輔集」『三省堂 大辞林 第三版』
  • [xi] (988~?) 平安中期の歌人。俗名、橘永愷ながやす。出家して摂津古曽部こそべに住んだので古曽部入道と呼ばれた。藤原長能ながよし・ながとうに和歌を学び、これが歌道師承の先蹤せんしようといわれる。諸国を行脚、歌枕を訪ねた。「後拾遺和歌集」以下の勅撰集に六七首入集。著「能因歌枕」、私撰集「玄々集」、家集に「能因法師集」がある。『三省堂 大辞林 第三版』
  • [xii] (908~990) 平安中期の歌人。三十六歌仙の一人。深養父の孫。清少納言の父。肥後守。梨壺の五人の一人として万葉集の訓釈(古点)ならびに後撰和歌集の撰に参加。家集に「元輔集」がある。『三省堂 大辞林 第三版』
  • [xiii] (921~991) 平安中期の歌人。三十六歌仙の一人。四位祭主。梨壺の五人の一人。万葉集の訓釈および後撰集の撰進に参加。賀歌を得意とし、歌は拾遺集などにみえる。家集「能宣集」『三省堂 大辞林 第三版』
  • [xiv] 没年、寛仁3(1019)。生年不詳。平安中期の漢詩人,歌人。光孝天皇から出た賜姓源氏で公忠の曾孫,方国の子。文章生から長徳4(998)年宮内少丞となり,蔵人,式部大丞などを経て,長和4(1015)年筑前守兼大宰少弐となったが,任地で没した。和漢兼作の人で詩人としては大江以言に師事し,『本朝文粋』『本朝麗藻』などに作品がある。歌人としては中古三十六歌仙のひとりに数えられ,『道済集』,歌学書『道済十体』があり,『拾遺集』以下の勅撰集に55首入集。和漢の才を生かして漢詩文の素材を取り込んだ和歌も詠んでいる。『江談抄』に,人に「船路君」や「大法会の師子(獅子)」などのあだ名を付けたというエピソードがある。『朝日日本歴史人物事典』
  • [xv] 没年:没年不詳(没年不詳) 生年、天暦3?(949)。平安時代の歌人。「ながよし」と読む説もある。父は藤原倫寧,母は刑部大輔源認 の娘。藤原道綱母の弟。蔵人などを経て従五位上伊賀守に至る。歌人として多くの歌合に出詠。特に花山天皇には,その出家後も側近として仕え,『拾遺集』の編集にも関与したと考えられている。能因の和歌の師となったが,これはのちに,歌道における師資相承のはじまりとされた。藤原公任に自作を非難され,病を発して死去したとの説話も伝えられる。その歌風には技巧にとらわれない清新なものがあり,次代の新風への道を開いたとされる。『拾遺集』以下の勅撰集に52首が入集。『朝日日本歴史人物事典』

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参考文献