日本人なら知っておきたい文学作品!日本最古の勅撰和歌集『古今和歌集』

『古今和歌集』延喜5年(905年)醍醐天皇の勅命をうけ編纂された最初の勅選和歌集です。

巻1から順に、「春・上下」「夏」「秋・上下」「冬」「賀」(老齢をたたえ祝う歌等)「離別」(官人の地方赴任に際しての送別の歌等)「羇旅」(きりょ・官人の旅中の歌が中心)「物名」(もののな/ぶつめい・物の名称を隠し題として詠み込んだ歌)「恋・1〜5」「哀傷」(人の死を悲しむ歌)「雑・上下」(老齢や無常を嘆く歌等)「雑体」(長歌、旋頭歌、誹諧歌等)「大歌所御歌」[i]などの部立で構成され、20巻からなります。

約150年間分、約130人の歌を約1100首収載されています。撰者は紀貫之[ii]紀友則[iii]凡河内躬恒[iv]壬生忠岑[v]の4人です。紀友則を中心として編纂されましたが、途中で紀友則が病死し、代わって紀貫之が中心となって編纂されました。

『古今和歌集』詳しい内容について、まずは編纂された時代背景から見ていきたいと思います。平安時代初期から9世紀前半までは遣唐使らの影響もあり、中国大陸の文化の影響を受けた文化が栄えていましたが、894年(寛平6年)菅原道真の提言により遣唐使が廃止されると、大陸文化と混じりつつも国風の文化が花開いていきました。和歌は宴などで詠まれ貴族文化の中心となりました。

次に和歌の文体の変化についてみていきます。奈良時代の和歌集である『万葉集』では素朴で雄大な和歌の調べが特徴的でしたが、平安時代に入り、掛詞や縁語等の技巧を駆使した繊細で優美な和歌の調へと変化していきます。前者をますらをぶり(男性風)、後者をたをやめぶり(女性風)と呼びます。また、『古今和歌集』の和歌の特徴を古今調ともいいます。『古今和歌集』の中にも多く収載され、「仮名序[vi]」の中で短評を添えてあげた六歌仙という有名な歌人が6人います。その6人は小野小町在原業平僧正遍照僧喜撰文屋康秀大伴黒主です。そのうち僧喜撰、文屋康秀、大伴黒主の詳細はあまり知られていませんが小野小町、在原業平、僧正遍照は「古今調」を代表する有名な歌人です。それぞれ仮名序の評、『古今和歌集』に収載された和歌と共に詳しく説明していきます。

  • 小野小町
    『古今和歌集』仮名序より「よき女のなやめる所あるに似たり」
    和歌「思ひつつ寝ればや人の見えつらむ 夢と知りせばさめざらましを」
    (訳:恋しく思いながら寝たからあの人が夢に現れたのだろうか 夢だと知っていたなら醒めずにいたのに)

    生没年不詳ながら多くの勅撰集に和歌が収載され、美貌と噂されました。その後、後世に渡りその美貌故に不遇な晩年を送ったという伝説他様々な伝説が小町伝説として語られ、謡曲等の題材となり、各地に晩年の小野小町が訪れたとされる場所が多く残っています。有名な謡曲に「卒都婆小町」「関寺小町」等があります。

  • 在原業平
    『古今和歌集』仮名序より「その心あまりてことば足らず」
    和歌「世の中に絶えて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし」
    (訳:世の中に全く桜がなかったら 春の気持ちは長閑なものであったであろう)

    平城天皇の皇子阿保親王第5子、母は桓武天皇皇女伊都内親王であり、兄と共に在原姓を与えられます。伊勢物語の主人公のモデルとしても有名であり、『三代実録』にも「体貌閑麗、放縦にして拘わらず、略才学無し、善く倭歌を作る」(『国史大系』)と評されるほど色好みな美男子であったとされています。

  • 僧正遍照
    『古今和歌集』仮名序より「歌のさまを得たれどもまこと少し。たとへば絵にかける女を見て、いたづらに心を動かすが如し」
    和歌「はちす葉の濁りに染まぬ心もて なにかは露を玉とあざむく」
    (訳:蓮の葉は泥水の濁りに染まらぬ心を持っていながら どうして露と美しい玉だと騙すのか)

    俗名は良岑宗貞で、桓武天皇の孫・大納言安世の八男。仁明天皇に仕え蔵人頭になりますが、850年(嘉祥3年)に天皇が亡くなった後出家しました。

更に、『古今和歌集』の撰者達の和歌も紹介します。

  1. 紀友則
    和歌「春霞たなびく山の桜花 見れどもあかぬ君にもあるかな」
    (訳:春霞たなびく山に咲く桜花のように いくら会っていても見飽きぬあなたであることよ)
  2. 凡河内躬恒
    和歌「春の夜の闇はあやなし梅の花 色こそ見えね香やは隠るる」
    (訳:春の夜の闇は理屈に合わない 梅の花の色は見えなくてもその香は隠れるものか、いや隠れない)
  3. 壬生忠岑
    和歌「春日野の雪間を分けて生ひ出てくる 草はつかに見えし君はも」
    (訳:春日野に残る雪の間から生え出てくる草のように束の間のように見かけた君だったよ)
  4. 紀貫之
    和歌「さくら花ちりぬる風のなごりには 水なき空に波ぞたちける」
    (訳:桜の花が散っていった風の名残は 水のない空に波が立っているようだ)

以上にあげた和歌は春の和歌が多かったこともありますが、「桜」「梅」「春」等の語句が多く見受けられます。その背景には、当時歌合”が流行っていたことがあります。“歌合”とは二手に分かれて詠みあった和歌の優劣を競う文芸的遊戯のことです。たとえば、桜や梅の花を見ながらそれぞれ二手の詠み手が和歌を詠みます。詠んだ和歌に対し、判者と呼ばれる判定者が和歌の優劣を決める遊戯です。このような歌合に呼ばれるのは貴族の中でも和歌に秀でた才のある者達でした。対立する大臣家で競うこともあり、時に権力争いにも影響を及ぼすほどでした。

『古今和歌集』の頃には、和歌の表現方法、美意識・心情表現の原型が確立しただけでなく、部立ごとに時間の推移や段階、順序に沿って配列された構成という面でもその後の和歌集の編纂に多大な影響を与えました。『古今和歌集』以後、後撰和歌集』『拾遺和歌集』『御拾遺和歌集』『金葉和歌集』『詞花和歌集』『千載和歌集』『新古今和歌集と勅選和歌集が編纂されています。『古今和歌集』から『新古今和歌集』までの8つの和歌集をあわせて“八代集”といいます。また、『万葉集』『古今和歌集』『新古今和歌集』の3つをあわせて“三代集”といいます。“八代集”だけでなく、勅撰和歌集は室町時代まで全部で21あります。『新古今和歌集』以降『新勅選和歌集』から『新続古今和歌集』までを“十三代集”と称します。

勅選和歌集の他にも自撰、他撰の個人歌集である“私家集”もあります。『万葉集』以前にも『柿本朝臣人麻呂集』などがあり、『古今和歌集』の撰者である凡河内躬恒の『躬恒集』や壬生忠岑の『忠岑集』や、小野小町と同じく平安時代前期の有名な女流歌人である伊勢の『伊勢集』などもあります。

最後に『古今和歌集』について、簡単な問題を出題します。
(わからない問題はしっかりと復習しよう!)

  1. 『古今和歌集』の撰者を一人答えなさい。
  2. “六歌仙”を一人答えなさい。
  3. 『古今和歌集』は何天皇の命で編纂されましたか。
  4. 二手に分かれて詠みあった和歌の優劣を競う文芸的遊戯を何と言いますか。
  5. 『万葉集』『古今和歌集』『新古今和歌集』をあわせて何と言いますか。

→次回は伊勢物語について解説します!

(註)
  • [i] 『日本大百科全書』より参照。
  • [ii] (866?~945?) 平安前期の歌人・歌学者。三十六歌仙の一人。御書所預・土佐守・木工権頭。官位・官職に関しては不遇であったが、歌は当代の第一人者で、歌風は理知的。古今和歌集の撰者の一人。その「仮名序」は彼の歌論として著名。著「土左日記」「新撰和歌集」「大堰川行幸和歌序」、家集「貫之集」『大辞林 第三版』
  • [iii] 平安前期の歌人。三十六歌仙の一人。土佐掾・大内記。古今和歌集の撰者の一人。撰後間もなく没した。家集に「友則集」がある。生没年未詳。『大辞林 第三版』
  • [iv] 平安前期の歌人。三十六歌仙の一人。紀貫之と並ぶ延喜朝歌壇の重鎮。古今和歌集の撰者の一人。生没年未詳。家集「躬恒集」『大辞林 第三版』
  • [v] 平安中期の歌人・歌学者。三十六歌仙の一人。忠見の父。古今集の撰者の一人。著「和歌体十種(忠岑十体)」、家集「忠岑集」。生没年未詳。『大辞林 第三版』
  • [vi] 「仮名序」『古今和歌集』の序文の一つ。紀貫之の手によるもので、流麗な文章で和歌の意義・性格等を述べてあ利、最初の歌論とされる。もう一つの序文は紀淑持の手による「真名序」。

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