【社会・歴史】年表・人物史から歴史をおさえよう!〜豊臣秀吉の人物史〜

戦国時代、はじめて全国統一を掲げ、実行しようとしたのは織田信長でした。しかし、明智光秀の謀反により本能寺で敗死します。信長亡き後全国統一事業を引き継いだのは豊臣秀吉でした。今回は年表をもとに豊臣秀吉の統一事業と朝鮮出兵をみていきましょう。 

豊臣秀吉は、尾張(現:愛知県)の百姓の家に生まれとされています。武家奉公を志し、遠江(現:静岡県)の久能城城主松平元綱に仕えます。 

天文23年(1554年)織田信長に仕える

18歳で秀吉は、当時尾張清洲城城主であった織田信長に小者として仕えます。小者とは、身分の低い奉公人であり、武家に仕えて雑役に従事し、戦場では主人の馬先を駆走した軽輩のことを言います。 

秀吉の忠臣ぶりは、信長の草履を自身の懐であっためておいて、信長に差し出したという逸話から伺えます。 

秀吉は初め木下藤吉郎秀吉と名乗っていましたが、信長が室町幕府を滅ぼした天正元年(1573年)に、羽柴姓を名乗るようになります。 

天正10年(1582年)山崎の合戦

毛利氏と対戦していた秀吉は、織田信長が明智光秀の謀反により敗死した知らせを聞くと毛利氏と和睦し、明智光秀を討ちに兵とともに京に向かいます山城の山崎の合戦で秀吉は明智光秀を討ちます 

天正11年(1583年)賤ヶ岳の争い

信長の後継者を巡って秀吉三法師信長の嫡孫秀信)をたて、柴田勝家は信長の三子神戸信孝をたて、対立します。秀吉の台頭に対し、不満を持った柴田勝家は挙兵し、近江(現:滋賀県)の賤ヶ岳で戦となります。 

賤ヶ岳の戦いで敗戦した柴田勝家は妻であるお市の方(信長の妹)と共に自死します。そして柴田勝家と共謀した信孝も自死へと追いやります。 

また、この年に秀吉は大阪城を築き始めます。 

天正12年(1584年)小牧・長久手の戦い

秀吉は、信長の次男である織田信雄徳川家康の連合軍と争います(小牧・長久手の戦い)。しかし、戦局が膠着したため、政治的な策を練って和睦を結びます。 

天正12〜18年(1585〜1590年)全国統一へ

小牧・長久手の戦いで徳川側に味方した紀州(現:和歌山県)の根来衆と雑賀一揆を滅ぼし、朝廷から関白に命じられます。同年、四国の長宗我部氏を下して四国を制定。 

天正13年(1586年)秀吉は家康に対し、実妹を嫁がせるなどの策をろうして臣従させます。更に、関白の権威を用いて戦国大名らに争いを停戦にし、その領国の決定を秀吉に任せるよう呼びかけます(惣無事令)。この年に羽柴姓から豊臣姓にかわります。 

天正15年(1587年)に、この命令に従わなかった九州の島津義久を征討(九州平定)、天正18年(1590年)に、小田原の北条氏を滅ぼします(小田原攻め)。そして東北の奥羽を制定して全国統一事業を成し遂げました。 

天正16年(1588年)刀狩令

秀吉は全国に刀狩令を出し、諸国の農民や寺院が武器を持つことを禁じ、没収しました。自身が農民から武士へと成り上がっていった秀吉ですが、兵農分離を行うことで身分を明確にさせました。また、農民や寺院の蜂起を防ぐ狙いもありました。 

文禄年間(1592~1596)太閤検地

秀吉は信長在世中に行われた天正8年(1580年)播磨検地以降、新しく獲得した領地に次々と検地を行いました。このような秀吉が行った一連の検地を太閤検地と言います。検地の結果、全国の生産力が米の量で換算された石高制が確立しました。また、地域や用途ごとに異なる枡が使用されていたのを京枡に統一しました。 

武力で全国を統一し、刀狩、太閤検地などを行い全国統治の基盤を整えていきました。次は秀吉の朝鮮出兵について見ていきましょう。 

文禄・慶長の役

全国統一を成し遂げた秀吉は、関白の職を甥の豊臣秀次に譲り、自ら太閤の座につきました。そして秀吉は朝鮮への出兵を敢行していきます。その動機については、朝鮮・中国との貿易回復を狙った説や、秀吉の誇大妄想によるものという説もあります。 

朝鮮出兵を考えた秀吉は、文禄元年(1592年)15万余りの大軍を朝鮮に派兵します。これを文禄の役と言います。最初は軍勢も有利でしたが、李舜臣率いる朝鮮水軍の活躍や、明の援軍などにより選局は不利になっていきました。小西行長率いる現地軍は休戦し、秀吉と明の和平交渉をすすめましたが、交渉はうまくいかず決裂します。 

その後、慶長2年(1597年)秀吉は再び14万余りの兵を朝鮮に派兵します。これを慶長の役と言います。しかし日本軍は苦戦し、翌年に秀吉が病死したため撤兵します。二度の朝鮮出兵は、国内の戦費と兵力を無駄に浪費する結果となり、豊臣政権が衰退する要因となりました。 

一方、朝鮮では壬辰・丁酉倭乱と呼ばれ、朝鮮の人々に甚大な被害を与えました。 

まとめ

天文23年(1554年) 

織田信長に仕える 

天正10年(1582年) 

山崎の合戦 

天正11年(1583年) 

賤ヶ岳の争い 

天正12年(1584年) 

小牧・長久手の戦い 

天正15年(1587年) 

九州平定 

天正16年(1588年) 

刀狩令 

天正18年(1590年) 

小田原攻め 

文禄年間(1592~1596) 

太閤検地 

文禄元年(1592年) 

文禄の役 

慶長2年(1597年) 

慶長の役 

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