日本史を楽しく復習しよう!時代ごとの「荘園」の歴史について[パート①]

さて、ここから荘園制の歴史についてみていきたいと思います。

荘園制の歴史は非常に長く、難しいところでもあるので、2回に分けて説明していきます。

理想は、「すべての土地と人はぜーんぶ国家のもの」という原則!!

701年に大宝律令が制定されてから、土地と人民はすべて国家が所有するという公地公民制が原則で、その制度のもとで、国家が所有する土地を国民一人一人に貸し与えてそこで耕作させてそこから税金をとったり、国民の中から兵士を採用したり、地方や都で労働させたりということをしていました。

つまり、公地公民制というのが、政府の財源確保や軍事力強化などの国家運営の重要な基盤をなしていたのです。

しかしあまりにも厳しい税や労役負担に耐えかねて、奈良時代から平安時代にかけて、多くの農民たちが逃亡して、こうした重い負担から逃れようとすることが頻繁に起こるようになりました。

こうした状況の中で、政府は財源確保をすることが難しくなり、また兵士の弱体化・国家運営の滞りなどといった多くの問題を抱えるようになり、公地公民制を原則とする土地制度の見直しを迫られることになります。

ここから見ていく土地制度は、受験生にとっては非常に頭が混乱するところで、なかなか整理しづらいところだと思います。

なぜなら、何度も何度も、制度をつくっては、失敗をして、その都度また修正して、ということを繰り返していきますからね。

最終的には公地公民制がほぼ消滅することになるわけですが、公地公民制がどのように崩壊して、そしてそれをどのように改善しようとして、最終的には公地公民制がどのように消滅していってしまうのか、その歴史を一つ一つ丁寧に確認していきながら、みていきたいと思います。

すべての土地はすべて国家のものという原則が消えうせるとき

まず、日本の土地制度の歴史のスタートは、律令体制の公地公民制を原則とする「班田収授法」の制定です。

こちらは、701年に大宝律令が制定されたと同時に定められた法律で、内容は6歳以上の男女に口分田を与え、そこから得られる収穫の3%を税として国に納めるというものでした。

これを実行するにあたり、政府はすべての人民を把握するために戸籍と計帳をつくり、さらにはこれらの台帳をもとに、調・庸・雑徭などの税負担も課しました。

まさに、国家財源の根本を為す制度・法律こそ班田収授法であり公地公民制の原則であったわけですね。

しかし、この制度は早い段階からうまく機能しなくなります。それは農民の税負担があまりにも重く、それに耐えられなくなった農民たちが与えられた土地から逃げ出してしまうことが頻繁に起こるようになったからです。

特に農民たちを苦しめたのは、奈良時代に都城の造営をしたり大仏を造立したりする労役で、これらの重労働をするかたわらで、自らの土地を耕作し租税を納めなければいけないというのは、非常に重く苦しい負担でした。

そうした中で、「もうこんなのやってられるか!!」としびれを切らした農民たちが相次いで逃亡するようになってしまったのですね。政府にとっては一大事です。

これでは、確実に税をとることができなくなってしまいますからね。政府は財源が確保できない危機的な状況に陥ってしまいました。

さらには、こうして荒廃する口分田が増える一方で、奈良時代に産業や経済が発展したことによって人口のほうは急激に増えていき、政府が国民に分け与えるべき口分田も不足するようになっていました。

そこで政府はまず、不足する口分田に対処し、かつ荒廃してしまった口分田に代わる土地を開墾して財源を確保するために、722年に長屋王政権のもとで「良田百万町歩の開墾計画」を立てました。

これは、政府が農民たちに食料と道具を貸しつけて、良田を百万町歩、10日間で開墾しようという計画でした。

しかし、当時の技術では到底に無理な計画であり、100万町歩というのは実態とはかなりかけ離れた不可能な数字であったため、あえなくこの計画は失敗に終わります。

ただ、ここから当時の政府が、人口増加に伴う口分田不足と財源の欠如に本気で対処しようとした熱心さをうかがい知ることができます。

そして、政府はより現実的な政策をということで、翌年の723年に長屋王政権は三世一身法(養老七年の格)を制定しました。

これは、新しく灌漑用水路を整備してそれを用いて土地を開墾した者には、その土地を本人・子ども・孫の3代に渡って、その土地の私有を認めるという内容です。

ただし、もともとあった灌漑用水路を使って開墾した場合は本人一代に限り、私有が認められるだけでした。この結果、新たに開墾された土地が急激に増えたかと言えば、残念ながら効果は薄く終わりました。

理由は、一時は私有が認められるといっても、最終的には国家の所有物になってしまうということがネックになっていたからです。

しかも、新たに開墾された土地も時を経て収公(国家に土地を返還すること)される時期になると農民がやる気をなくして再び土地は荒廃するようになってしまいました。

そこで政府は、今度は3世代と言わずに永年にわたって開墾した土地の私有を認めようという方針に転換し、743年に橘諸兄政権のもとで「墾田永年私財法」を制定しました。

三世一身法が制定されてちょうど20年後です。20年というのは、ちょうど古くからの灌漑用水を使って開墾された土地が収公される時期と一致するところです。

つまり、この頃から再び土地の荒廃が目立ち始めていて、それに対する対処策として墾田永年私財法を出したのですね。墾田永年私財法は別名「天平十五年の格」といいます。

ただなんでもかんでも開墾すれば永年私有が認められたわけではなく、

  1. 位階によって墾田の私有面積に制限があること
  2. 墾田には国史の許可が必要なこと
  3. 国司から許可を得てから3年以内に開墾を終えなければいけないこと

などいくつかの条件がありました。

これらの条件の下で開墾を進めることは実は一般の農民には経済的にも条件的にも難しく、大半は、もともと財産や政治的な力を有していた寺社や貴族が広大な未開の土地を浮浪農民や貧しい班田農民を雇って耕させて、開墾をおこなっていきました。

そのため、墾田永年私財法のもとでは、寺社や貴族の私有する土地が急激に増加することになりました。

こうしてできた寺社や貴族の私有地のことを荘園と言い、とくに墾田永年私財法の法令の基づいてできた荘園を「初期荘園」といいます。

こうしてすべての土地と人民は国家の所有物であるという「公地公民制」の原則が崩壊しました。

ちなみに、このころの荘園は、主に寺社や貴族が貧しい農民たちに貸し付けて、耕作されていました。また、荘園は口分田と同じように、国家に税を納めなければいけない「輸租田」でありました。

税金が入ってこないなら、自分たちで土地を経営して収入を確保すればいいじゃないか!

さて、時代は794年に桓武天皇が平安京に遷都し、平安時代を迎えます。新しい時代を迎え、農民たちにとって安定した時代になったかといえば、決してそうではありませんでした。

というのも、桓武天皇が行った長岡京と平安京の造営の負担が、農民にとって重くのしかかり、これに対して桓武天皇は農民の負担を軽減するために、雑徭の期間を半分に減らしたり、労役に対して報酬を与えたりなど対策をとりましたが、浮浪・逃亡する農民がさらに増加していってしまいました。

その結果、政府の財政収入が大きく減っていきました。この状況に対して、政府は「勅旨田」「公営田」「官田」などの政府が独自に耕す土地を設置するようになりました。

「勅旨田」というのは、皇室の財政収入を確保するために、院や宮などに置かれた土地のことで、「公営田」は、大宰府内に置かれた国家の直営田、「官田」は、畿内に置かれた国家の直営田のことです。

こうして、自ら土地を経営していかなければいけないほど、財源が悪化していってしまったということですね。平安時代の初期はそのように対策をとります。

醍醐天皇が出した日本初の荘園整理令の効果はいかに!!

10世紀の平安時代中期ごろの、ちょうど摂関政治が行われていたころ、天皇親政を推し進めた醍醐天皇が日本初の荘園整理令である「延喜の荘園整理令」を発布します。延喜の荘園整理令は902年に出されました。

この法令では、班田制をもう一度立て直すために、寺社や貴族によってどんどん拡大していった私有地である荘園を整理していこうという法令です。

ただ、この法令は荘園そのものを廃止しようとしたものではなくて、あくまで非合法に増えてしまっている荘園を取り締まり、荘園を政府の統制下に置こうという目的のために出されました。

延喜の荘園整理令では、特に勅旨田や貴族・寺社による山川藪沢の占有を禁止しました。院宮王臣家というのは、中央の三位以上の貴族のことで、地方の豪族たちは国司からの課税を逃れるために院宮王臣家に自分の土地の所有権を渡していました。

地方豪族たちは院宮王臣家に土地を守ってもらうことで税を逃れようとしたのですね。政府はこれを禁止します。

しかし、荘園そのものを禁止しなかったため結局は荘園の整理は不徹底に終わり、むしろ荘園は容認され、その後も荘園は増える一方でした。

しかも、班田制をもう一度立て直そうとしたのにも関わらず、荘園の増加に歯止めがかからず、醍醐天皇の時代を最後に班田はその後二度と行われなくなってしまいました。

その後も、荘園を整理するために、984年・1040年・1045年・1055年とたびたび整理令が出されましたが、荘園の増加をとめることはできず、公地公民制・班田制の復活はかなわぬ夢となってしまいました。

そんなわけで、10世紀になると荘園整理令も名ばかりで全く効果なく、律令制で定めた戸籍・計帳による土地と人民の支配がほぼ不可能になってしまいました。

そこで、藤原忠平政権の時代に、税制度を根本から変えていくことに決めます。今までは、班田制に基づいて各個人に対して税を課していました。こうした「人」を単位に課す税を「人頭税」といいます。

しかし、この税制度だと、もしも人民が土地から逃げてしまって行方をくらましてしまった場合、その個人から税をとることができなくなってしまいます。

そこで忠平は、「人」ではなく、「土地」に対して税を課すことを決めます。「土地」というのは絶対に移動したり動いたりしない不動産ですからね。

さらに、地方の徴税はすべて国司に一任させる方針に決めます。では具体的にどのように徴税するかというと、まず国司は荘園以外の国家の土地を「名(名田)」という新しい単位に編成し、各「名(名田)」では、「田堵」と呼ばれる有力な農民が耕作を請け負いました。

その中でも、多くの名田を請け負っている田堵のことを「大名田堵」と言います。田堵大名田堵は、その「名(名田)」の経営を担い、新たに政府によってつくられた「官物」「臨時雑役」といった税を負担しました。

こうした税を負担する田堵のことを「負名」といい、負名が税負担をする税制を「負名体制」といいます。こうして、政府はなんとか財源を確保しようとしていったのです。

ちなみに、「官物」というのは、律令制の「租」税の流れをくむもので、主にお米で支払いました。「臨時雑役」というのは、「調・庸」税の流れをくむもので、特産品や手工業品を納めたり、労役をおこなったりしました。

まとめ

さて、ここまで律令体制による公地公民制の確立から、それが崩壊し、摂関政治の時代に新しい土地制度が完成するまでの歴史についてみていきました。

苦しい財政の中で、なんとか確実に徴税できるシステムを構築しようとした政府の苦心が伝わってきますね。

摂関政治期に新たに、「人」からの徴税ではなく、「土地」からの徴税という視点にシフトチェンジしたわけですが、そのような徴税システムの変化が、社会にどのような変化をもたらしていくのか。

また、この後もどんどん私有の土地である荘園が増えていくわけですが、そのような土地に対して政府はどのような対策をとっていくのか、次の章では摂関政治以降の土地制度の歴史について詳しくみていきます。

続きはこちらから!

おすすめ記事

参考

 

中学受験生のお母さん向け無料メールマガジン

    本サイトの監修者である、開成番長こと繁田和貴が執筆する無料メルマガは、その内容の濃さから6000人以上の読者に愛読されています!

    登録も解除も簡単にできますので、まずはお気軽にご登録ください。

                                

「開成番長・繁田の両親が語る繁田の中学受験PDF」プレゼント!

無料メルマガ登録