日本史を楽しく復習しよう!「国風文化」について[かな文字・浄土宗]

日本独自の新たな文化の完成だ!!

藤原摂関政治が行われていた時代の文化を国風文化と言います。だいたい10世紀の初めころから、11世紀のころの文化ですね。

この時代の文化には大きく3つの特徴があります。一つ目が、平安時代中期は藤原氏を中心とする貴族が、多くの荘園を持って、そこからの収入で豊かになり、豪華な生活を送って、高度な文化を形成したという特徴です。

つまり、国風文化は貴族が築き上げた貴族文化であるというのが1つ目の特徴です。

2つ目は、平安時代前期まで積極的に取り入れていた中国の文化を捨て去り、新たに日本独自の文化を築き上げたという特徴です。

そのため、この時代の文化は日本風の文化を形成した時代という意味で国風文化という名前がついております。国風文化が発展した理由としては、894年に菅原道真の進言により遣唐使が廃止されたことがその大きな要因としてあげられます。

当時の唐は、国内分裂を始めており国家の滅亡寸前でした。そのような国家から新たに学ぶものはないとの判断から、中国の文化を学ぶことをやめ、日本は独立して自らの文化を形成する道を選んだのです。

3つめは、浄土信仰という新たな仏教思想を強く反映した文化であるという特徴です。日本の仏教はこれまで、現世利益といって、今生きている時代の不安や困難を仏教の力によって取り除き、より良い時代を現世で実現していこうという考え方をしていました。

しかし、平安時代中期になると現世での幸福をあきらめ、今生きている時代が良くなくても、死んだ後の世界で幸福になれたらいいなという仏教思想が誕生していきました。それが、浄土信仰というものです。

浄土というのは死後の清らかな世界のことで、死後にその世界に到達することを「極楽浄土」といいました。つまり、この時代の人々は「極楽浄土」を目指した仏教信仰をするようになったのです。

これら3つの特徴を頭に入れながら、ここから詳しく国風文化についてみていきましょう。

お金持ち貴族の、めちゃ豪華な生活

荘園からの収入で莫大な利益を得ていた貴族たちは、そのお金を使って非常に豪華なぜいたくな生活を送るようになります。そこでまずは、貴族たちの生活の様子についてみておきましょう。

まず、住まいは「寝殿造」という構造を持つ巨大な家に住んでいました。この家の中心の、主人の部屋の名前が「寝殿」と呼ばれていたためにこの名前がついております。

寝殿造では、その寝殿が中央にあって、その左右と北側に「対屋」と呼ばれる、主人の娘や婦人が住む建物が建てられています。

北の対屋には正妻が住んでいて、そこには釣りをして楽しむための「釣殿」や泉が湧き出る「泉殿」などもありました。そして、寝殿と対屋は「渡廊」と呼ばれる廊下で結ばれていました。屋根は勾配のゆるやかな檜皮葺でした。

貴族たちはこの寝殿造の家で、釣りをしたり、舟を浮かべたり、詩歌・管弦をおこなったり、歌合せや蹴鞠などをして遊んで楽しみました。

次に、服装です。平安時代中期の貴族たちはとても豪華な服を身にまとっていました。まず、男性は正装として束帯や衣冠を、平常時の服として直衣・狩衣・水干などを着ていました。

次に女性は、正装として女房装束と呼ばれる、肌着の単(ひとえ)の上に、何枚もの袿(うちき)と呼ばれる着物を重ね着する、通称「十二単」とも呼ばれる服を着ていました。

十二単は約20kgもある着物で、当時の女性は着るのも、着てから行動するのも、非常に大変で、苦労していたようです。平常時の服としては、「小袿(こうちぎ)」や「袴(はかま)」を着ていました。

女房装束をまとっていたことからもわかるように、当時の服装は、何か活動するためのものというよりも、たとえ非活動的でも、豪華で優美であるということが重視されていたようです。

また、貴族の間では様々な儀式も行われていました。例えば、1年の一定の時期に毎年行われる慣例事である年中行事がさかんにおこなわれたり、方違(かたたがえ)や物忌(ものいみ)といった占いや縁起担ぎなども行ったりしていました。

ここには、当時の貴族たちが、何か霊的なものや怨霊などの存在を強く信じていたことが反映されています。

これは、菅原道真が左遷されてその地で亡くなった時に、その怨霊を恐れて、北野天満宮に道真を祀ったというところにも表れています。

さらに、現代でも20歳になると、1月に成人式が行われますが、平安時代中期の貴族の間でも成人の儀式が行われていました。現代の成人式はその名残なのかもしれませんね。

平安時代中期では、男性の成人式を「元服」といい、女性の成人式を「裳着の式」といいます。元服はだいたい11歳から17歳の間に行われ、服を改めて、髪形を変えて、冠をつけるという一連の儀式がおこなわれていました。

そして元服後は、名前もそれまでの幼名から新たに実名に改めて、一人前の人間として生きていくようになります。女性の「裳着の式」は、だいたい12歳~14歳ごろに行われ、特に結婚相手が決まった時に行われるのが一般的でした。

この儀式では垂髪を結び、成人した女性の証として「裳」を着ます。これにより、女性も一人前の女性として認められるようになったのです。

このように当時は、人生のライフステージが変わって、服装も名前も改められ、新しい、生まれ変わった一人の成人した人間としてのスタートを切るための儀式として、成人の儀式が行われていました。

現代では、大人と子どもの境が不鮮明な中で、ただの形式的な儀式として成人式が行われている風潮があります。

こうした平安時代の成人式の原点を知ることで、現代の成人式のあり方をもう一度考え直してみるのもおもしろいかもしれません。

日本独自のアレンジ文化がやっと生まれたぞー!!

894年に菅原道真が遣唐使の廃止を建議したことから、中国からの文化流入が途絶え、日本独自の文化が芽生えることになります。

まず、この時代に「かな文字」の使用が広まりました。「かな文字」というのは、奈良時代にできた万葉仮名のあとに生まれ、現在に至るまで脈々と継承されてきた「ひらがな」と「カタカナ」の文字のことです

。これらの文字は、それまでに入ってきていた中国の漢字をもとにつくられ、例えば「安」→「あ」、「似」→「い」などのように変形させて、日本独自の文字として使われるようになりました。

かな文字」の優れているところは、日本人の微妙な感情や思想をきれいにうまく繊細に表現できるという点です。

日本人には日本人にしかない感性というものがあり、例えば「美しい」という言葉ひとつとっても、その表現の仕方は「麗しい」「きれいだ」「秀麗だ」「流麗だ」など、さまざまなにあり、そのどれもが微妙にニュアンスのことなる表現になります。

しかし、これを例えば英語で表現すると「beautiful」という言葉にすべて集約されてしまいます。つまり、日本独自の文字をつくったことによって、日本人ならではの感性を言葉として残すことができるようになったのです。

このことが日本文学の発展に大きく寄与することになり、多くの女流文学と呼ばれる文学作品が誕生することになりました。

ちなみに、なぜこの時代は「女性」の作品が多いのかと言いますと、当時はまだ教養としては「漢字」を使って文字を書くことが風流とされていて、「かな文字」というのはあくまで日常生活に用いる言語で、文章で書くにしても、それは男の書き物ではなく、女性の書き物であるという価値観が根付いていたからです。

さらに、この時代に女流文学が栄えた要因としては、当時貴族の結婚の形態が、夫が妻のところに通って、妻の家に入り込むという招婿婚で、女性が常に夫が帰ってくるどうか不安な中で生活し、その苦しく吐き出したい思いを抱えていたことも一つ挙げられます。

どんな時代でも、自分の抱えきれない思いは、だれかにおもいっきり語りたくなるものです。そのようなわけで、この時代は女性の文学作品がたくさん誕生しました。では、その一つ一つを確認していきましょう。

かな物語

  1. 『竹取物語』
    作者未詳。竹から生まれた世の男たちからモテモテのかぐや姫を主人公とする文学作品。5人の男から結婚を申し込まれますが、果たしてどうなるのでしょうか。
  2. 『伊勢物語』
    作者未詳。在原業平という少しチャラい男の恋愛ストーリーです。歌物語というジャンルで、和歌を中心に話が展開していきます。
  3. 『宇津保物語』
    作者未詳。美女の貴宮(あてのみや)に求婚する貴公子たちの求婚物語です。

  4. 『落窪物語』
    作者未詳。血のつながりのない継母からいじめを受け続けた落窪の君が素敵な男性に出会う物語です。日本初の継子いじめ小説です。
  5. 『源氏物語』
    紫式部作。モテ男の光源氏の一生を描いた長編小説です。

  6. 『狭衣物語』…作者未詳。狭衣大将の恋愛物語です。

  7. 『浜松中納言物語』…菅原孝標女作といわれています。『源氏物語』の影響を強く受けて書かれたロマンチックな恋愛物語です。
  8. 『堤中納言物語』…作者不詳。とても幻想的な色調が特徴の短編小説集です。

日記

  1. 『土佐日記』
    紀貫之作。土佐守の任務を終えて帰国する途中に書き連ねていった旅日記。紀貫之は男ですが、女に成りすまして書いたといわれています。日本で初めてのかな書きの日記作品です。
  2. 『蜻蛉日記』
    藤原道綱母作。夫の藤原兼家がなかなか家に通ってこなくなり、そのさびしさと母性愛を持ち、最後には和歌に生きようと決心した過程を描いています。
  3. 『紫式部日記』
    紫式部作。前半は随筆風の日記になっており、後半は手紙風の日記になっています。この作品の中で、和泉式部や清少納言らの人物評価も書いています。
  4. 『和泉式部日記』
    和泉式部作。和泉式部の恋愛の追想についての日記です。和泉式部の情熱的な恋愛と生き方がまざまざと描かれています。
  5. 『更級日記』…菅原孝標女作。上総から希望に満ちた気持ちで上京していくときから書かれた菅原孝標女の日記です。
  6. 『讃岐典侍日記』
    讃岐典侍藤原長子作。宮中での出来事を叙述した日記です。

随筆

  1. 『枕草子』
    清少納言作。清少納言が中宮定子に仕えていたころを中心に書かれているエッセイです。 

このように数多くの文学作品が、平安時代中期に誕生し、これらの作品は現代でも日本人の多くの人の心を動かす古典作品になっています。

これらの文学作品に加えて、「かな文字」を駆使してつくりあげた「五・七・五・七・七」のリズムを基調とする和歌も数多く、様々な人によって書かれました。

そして、そうした和歌をたくさん集めた和歌集もいくつか誕生しました。

まず、905年に醍醐天皇の命を受けて、紀貫之らによって『古今和歌集』が編纂されました。これが日本初の勅撰和歌集です。

その後立て続けに、『後撰和歌集』『拾遺和歌集』『後拾遺和歌集』『金葉和歌集』『詩花和歌集』『千載和歌集』『古今和歌集』の8つの勅撰和歌集が鎌倉時代初期までに編纂されました。

この8つの勅撰和歌集を八代集といいます。

また、はじめの『古今和歌集』『後撰和歌集』『拾遺和歌集』の3つを三代集といい、醍醐天皇・村上天皇・花山天皇の平安時代中期の3代の天皇の時代に編纂されました。

文学作品、和歌に加えてこの時代は書道のほうでも、日本風の書が完成しました。日本風の書のことを「和様」といい、日本独特の温和で優美な書が完成しました。

この和様のスタイルを完成させたのは、小野道風という人物で、中国の書の天才である王義之の書風を日本風にアレンジして完成させました。

その後、この書は藤原佐理・藤原行成に継承され、彼ら二人は小野道風と共に、「三蹟」と呼ばれ、和様創始期の書の天才として歴史に名を残しています。

小野道風の現存する書として『屏風土台』という、内裏の屏風に書いたとされる下書きの書があり、藤原佐理の作品としては『離洛帖』という、佐理が任地の大宰府に向かう途中に都にいる甥の藤原誠信にあてた手紙が残されています。

また、藤原行成の作品としては、『白氏詩巻』という、中国(唐)の詩人、白居易の詩集を書写した作品が残されています。

さらに、螺鈿や蒔絵といった日本独自の工芸技術もこの時代に発展していきました。

螺鈿というのは、夜光貝などの貝殻の美しく輝く部分を木の箱や漆器などにはめ込模様をつける装飾技術で、蒔絵というのは、器の上に漆で文様を描いた後に、その部分に金や銀などの金属の粉を巻き付けて模様をつける装飾技術です。

現代においても、日本の工芸作品として漆器が人気を集めているその原点は、実はこの時代にあるのですね。

また、日本風の絵画である「大和絵」という手法も巨勢金岡という人物によって創始されました。

夢は極楽、あの世行き!!新しい仏教思想の誕生!!

この時代になると、浄土思想という新たな仏教思想が生まれるようになります。

浄土思想というのは、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えることで、死後に極楽浄土というすばらしき天国の世界に行こうという思想です。

実は、これまでの仏教では「現世利益」といって、仏教を信じることで、今生きている世の中をより平安にしていきたいと願う思想が一般的であったのですが、国風文化の時代には、現世ではなく死後の世界に平安になりたいと願うようになります。

このように、死後に浄土という幸せな恵まれた世界に行くことを願って念仏を唱える仏教を「浄土教」といいます。ではなぜ、浄土教の考えが生まれたのでしょうか。

それは、「末法思想」という、仏教界の思想が関係しています。仏教の世界では、お釈迦様が亡くなってから500年~1000年を「正法の世」、次の1000年を「像法の世」、さらに次の1万年を「末法の世」といいました。

そして、「正法の世」→「像法の世」→「末法の世」と時代が進むにつれて、お釈迦様の本来の教えが少しずつ薄らいでいくと考えられていました。

具体的には、「正法の世」には、教(お釈迦様の教え)・行(教を実践する真実の修行)・証(修行者が悟りを開くこと)がすべて正しく行われる時代で、次の「像法の世」になると「証」が失われ、最後に「末法の世」になると「行」と「証」が無くなり「教」のみが残ります。

つまり、「末法の世」になると、お釈迦様の教えだけはあるけど、それを実践する正しい修行者がおらず、悟りの境地に至ることなく、最終的には世の中がどんどん悪化して乱れていき、世の中は破滅の道へと進んでいくということを、「末法思想」では唱えられていました。

そして、日本では、この「末法の世」に1052年から入ると信じられていて、実際に1052年以降、日本国内で地震が起こったり、飢饉が起こったり、疫病が蔓延したりと、不安な出来事が相次いで発生していました。

そうした時代背景もあって、日本人の特に貴族たちは、どんなに仏教を信仰しても平安になることができない、この世に対する希望を失って、死後の「極楽浄土」の世界に救いを求めるようになったわけです。これが「浄土教」流行の大きな理由ですね。

「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、死後に極楽浄土に行けて一切の苦しみから解放されるという、「浄土教」は空也というお坊さんによって全国に広められていきました。

空也は、歩いて諸国をめぐりながらその地で、橋をかけたり、道路の改修工事を行ったりと、社会福祉活動を行って人々の心をつかみながら、念仏を唱えることを人々にすすめて浄土教を広めていきました。

その成果あってか、浄土教はまたたくまに一般庶民の間にも広まっていきました。空也は京都市中で民間布教を続けていたということから、別名で「市聖」とも呼ばれています。

浄土教を広める役割を果たしていたのは、お坊さんの空也だけではありません。当時は、浄土教に関する書物がたくさん作られ、そうした書物も浄土教を広める一つの役割を担っていました。

まず、浄土教の理念を唱えた人物である源信(恵心僧都)は、985年に『往生要集』という書物を著しました。

源信は、『往生要集』の中で、地獄の恐ろしい様子を描き、それと対比させて、極楽浄土がいかにすばらしい世界であるかを説き、そうした極楽浄土に至るためには、どのように修行を積み念仏を唱えればいいのかという、往生の仕方を理論的に説明しました。

また、当時の文学者であった慶滋保胤は『日本往生極楽記』という書物を著し、その中で極楽浄土に往生を遂げた人はいかに安全で安心な生活を送っていて、いかにそこが素晴らしい世界であるかというのを、往生を遂げた人の例を挙げながら解説しています。

日本往生極楽記』は、日本初の往生物の書物であるといわれています。これらの書物は、多くの貴族の間で読まれて、この世は穢れた世界で離れることが良いという「厭離穢土」の思想と、心から喜んで浄土に往生することを求める「欣求浄土」という思想が、彼らの頭の中に植え付けられました。

浄土教の世界を描いた作品たち

浄土教の思想が世の中に広まっていくと、多くの浄土教と関係の深い美術建築・作品がつくられました。その一つ一つをチェックしていきましょう。

平等院鳳凰堂

1052年に藤原頼通が、宇治にあった別荘をお寺にしてつくった、阿弥陀堂です。阿弥陀堂というのは、浄土教の最上位の仏様である「阿弥陀」様を安置しているお堂のことで、ここには「阿弥陀如来像」が安置されています。

平等院鳳凰堂の阿弥陀如来像は、当時の有名な彫刻家である定朝の作品であるといわれています。定朝は、それまで一本の木から一体の仏像をつくる一木造から、複数の木材を寄せ集めてつくる寄木造という手法を完成させた人物でもあります。

これにより、当時需要が伸びていた仏像を短期間で大量に生産することを可能にしました。平等院鳳凰堂の阿弥陀如来像も寄木造でつくられました。ちなみに、平等院鳳凰堂は、現在の10円玉に描かれているお寺ですよ。

法界寺阿弥陀堂 

法界寺は、1051年に日野資業が現在の京都府伏見市にもっていた別荘の地をお寺に再建して完成したものです。

このお寺にも定朝の編み出した寄木造を取り入れた阿弥陀如来像が安置されています。

来迎図

来迎図というのは、極楽浄土に往生を願って生きていた人が、ご臨終になった時に、阿弥陀様が極楽浄土から雲に乗って迎えに来て、極楽浄土に連れて行ってくれる様子を描いた、浄土教の絵画作品です。

阿弥陀様は多くの菩薩を従えて極楽浄土からこの世にやってきます。その様子も来迎図にまざまざと描かれています。

神様と仏様は一体なんだって!!

浄土教の思想と同時に、本地垂迹説という理論が成立したことも重要です。本地垂迹説というのは、神様と仏様という両者の一体どちらが偉いのかという矛盾に折り合いをつけるために、神というのは仏様が姿を変えて、仮の姿で神となってあらわれたのだとする考え方のことです。

これは、奈良時代に誕生した神道と仏教を融合する神仏習合が進展したものです。神社の中に神宮寺と呼ばれるお寺を建てたり、神前で仏教のお経を読んだり、神と仏が一体化した僧形八幡神像という像を造ったりということが平安時代にも行われていました。

そうした中で、神と仏の位置づけをはっきりさせておく必要があったのですね。この思想では、天皇の祖先と言われている天照大神は大日如来が、八幡信は阿弥陀如来が姿を変えた形だとされています。

また、菅原道真が左遷先の大宰府で亡くなってその亡霊を恐れて天神として祀られたように、怨霊を祀って疫病や飢饉などの災難から免れようとする御霊信仰も広まり、御霊会と呼ばれる死者の怨霊を鎮める儀式・お祭りもさかんに催されていました。

まとめ

国風文化というは、文字通り「日本風の文化」が誕生した文化で、書道・和歌・かな文字など現代に通ずる多くの伝統的文化が生み出されました。

まさに、日本人というアイデンティティーの原点がこの時代にあるといっても過言ではないのかもしれません。

我々日本人がどういう思想や考えをもつ民族で、日本人としてこれからの未来をどうやって描き歩んでいけばいいのか。そうした答えのヒントを与えてくれるのが、国風文化であります。

ぜひ、みなさん、国風文化はとても面白い文化ですから、より深く学んでみてください。

さて、次の章では「日本の荘園の歴史」についてみていきます。荘園は日本史の中でも非常にとっつきにくい分野であります。

一つ一つ丁寧に確認していきながら、頭の中を整理し、荘園の歴史をクリアに理解していきましょう。

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