日本史を楽しく復習しよう!「飛鳥文化」について[仏教の到来・仏教寺院]

私たちと仏教

 

さて、この章では飛鳥文化についてみていきます。この時代は538年(または552年)に仏教が日本に伝わり、その影響で日本では、仏教色の強い文化が生み出されました。

飛鳥時代以降の日本の歴史を見てみても、仏教とは切っても切り離せない関係にあります。奈良時代も平安時代も、たくさんのお寺を造ったり大仏を造ったりして、仏教の力で世の中を平安にしていこうとしました。

現代の日本人の生活でも、お盆や禅や葬式など、仏教の影響を強く受けているところがありますよね。

その仏教文化の端緒となった飛鳥時代にはどのような文化が誕生していったのでしょうか。それを知ると仏教のおもしろさが少しわかるかもしれませんね。

というわけで、飛鳥時代の仏教文化についてみていきましょう。

仏教色が強い飛鳥文化

推古天皇の時代から、大化の改新(645年)ごろまでを飛鳥時代と呼び、その時代の文化を飛鳥文化と言います。

この時代の文化の最大の特徴は何といっても、仏教色の強い文化であったという点です。

百済の聖明王によって仏教が日本に伝えられ、その後、蘇我氏と物部氏の崇仏論争で、崇仏派の蘇我氏が勝利したことによって、仏教が日本の政治に取り入れられるようになりました。

そのような中で、厩戸王(聖徳太子)たちは憲法十七条の中で「厚く三宝を敬え」ということを説いていたことに代表されるように、仏教を保護し、奨励していきました。

三宝というのは、「仏・法・僧」のことでしたね。

仏というのは「仏様」、つまり仏教の開祖者である「釈迦(ガウタマ=シッダールタ)」のことです。法というのは、その仏様の教えです。僧というのは、仏の教えに従って悟りを開こうとする修行者たちのことですね。

これらを大切にしなさいということを厩戸王たちは言いました。

また同時に、厩戸王たちは、より先進的な仏教文化を学ぶために、積極的に遣隋使の派遣を行いました。

こうしたことから、飛鳥文化では寺院の建設や仏像の建造、仏教絵画の作成といった非常に仏教色の強い文化となりました。

朝鮮からやってきた、日本の先生たち!!

 

飛鳥時代の仏教文化は、当時強い結びつきを持っていた朝鮮半島経由で入ってきた大陸文化の影響を強く受けています。

そのため、飛鳥時代の文化は隋で発展したものよりも、中国の南北朝時代に発展したものの影響が強くなっています。

特に飛鳥時代前後で日本との関係が深かった百済や、隋からの脅威にさらされて日本と国交を結んでいた高句麗と、多くの文化交流があり、たくさんの学者や技術者が日本にやってきて、中国南北朝時代の様々な学問や技術を伝えてくれました。その中で3人の人物を覚えておきましょう。

まず、602年に百済からやってきた僧の観勒。彼は、天文学や地理学や暦法などを日本に伝えました。彼は元興寺に住み、634年には僧の最上級の官職である「僧正」に任命されました。

二人目は、610年に高句麗からやってきた僧の曇徴です。彼は儒学思想・絵画工芸・紙・墨・彩色などを日本に伝えました。なんか美術の先生みたいですね。彼が紙や墨の文化をもたらしてくれたことで、日本でも文字文化が発展するようになります。

三人目は、高句麗からやってきた僧の慧慈です。彼は法興寺に住んで、厩戸王の仏教の先生として活躍しました。厩戸王は慧慈からの教えを受けて、仏教に対して深い理解を示し、仏教を日本に広めていくことを決意します。

そのような過程で、厩戸王は『三経義疏』という、仏教の注釈書のようなものを書き上げます。三経というのは、『法華経』『勝鬘経』『維摩経』の3つの仏教の経典のことです。

慧慈は615年に、厩戸王が書いた『三経義疏』を携えて高句麗に帰国します。その後622年に厩戸王がこの世を去った時、慧慈は深い悲しみに抱いたそうです。

慧慈はその翌年の厩戸王が亡くなった同じ日にこの世を去りました。厩戸王(聖徳太子)と慧慈は深く心の通い合った師弟関係だったのでしょうね。

観勒・曇徴・慧慈は飛鳥時代に日本の文化に強い影響を与えた3人として有名ですので、しっかりと覚えておきましょう。

はじめてできた、仏教寺院たち!!

仏教が日本にもたらされたことで、数多くの仏教寺院が天皇や豪族たちによって建てられました。だれがどのお寺を造ったのかをしっかりとおさえておきましょう。

まずは、厩戸王(聖徳太子)がつくったお寺から。厩戸王が建造したお寺は、現在の奈良県北西部に建立された法隆寺(斑鳩寺)や中宮寺、現在の大阪府天王寺区に建立された四天王寺などがあります。

法隆寺の柱は円柱の形をしていて、柱の上部が細く真ん中が少し膨らんだような形になっていて、ギリシアから伝わるエンタシス様式を取り入れています。

法隆寺は世界最古の木造建築といわれていますが、実は飛鳥時代に造られたものがそのまま残っているわけではないそうです。

『日本書紀』の記述によると、607年に建てられた法隆寺は、天智天皇の時の670年にすべて焼失してしまいました。そのため、現在残っている法隆寺は、再建されたものであるという説が有力です。

その説を裏付けたのが、1939年に奈良県法隆寺の境内で発見された若草伽藍跡です。これは四天王寺式の伽藍配置を持つものです。現在建っている法隆寺の伽藍配置は飛鳥寺式となっています。

つまり、当初のものから建て替えられているということの裏付けになるのですね。

伽藍とは寺院の中にある建造物の総称のことです。寺院の中には、堂や塔などの建造物がありますが、その配置の仕方が時代によって異なるのです。

ちなみに、現在の法隆寺の金堂は1949年に火事で焼けてしまったため、その後に再建されたものになっています。この、金堂の火事で壁画が焼失してしまった出来事をきっかけとして、1950年に文化財保護法という、国宝を国家的に保護していくための法律がつくられています。

中宮寺は、聖徳太子が自分の母である穴穂部間人のために造られた寺院として伝えられています。

四天王寺は、厩戸王(聖徳太子)が物部守屋との戦いの際に、四天王(持国天・増長天・広目天・多聞天)に祈りを捧げ、勝利を得たために建立した寺院であると伝えられています。伽藍配置は四天王寺式になっています。

つづいて、蘇我馬子が建立した寺院は、飛鳥寺(法興寺)です。飛鳥寺は日本最古の寺院であるといわれています。

飛鳥寺の金堂には、鞍作鳥という仏師がつくったとされる、飛鳥釈迦如来像が堂々と座っています。俗に飛鳥大仏とも呼ばれています。ちなみに、鞍作鳥は、仏教が公に伝わる前に密かに私伝していたとして有名な渡来人の司馬達等のお孫さんです。

さて次に、秦河勝という人が建てたお寺です。彼は山背国の富豪で、聖徳太子に仕えていた人物です。彼は、聖徳太子から仏像を賜り、その仏像をまつるために、京都に広隆寺を建立しました。

最後に、舒明天皇が建立したお寺です。舒明天皇は、推古天皇の死後に天皇になった敏達天皇の子どもです。彼は百済大寺という寺院を建立しています。

百済大寺はのちに、677年に国家仏教の頂点に立つ寺ということで、大官大寺という名称に変わり、さらに710年の平城京遷都後には大安寺と名称を変えています。

さて、先ほど伽藍配置の話を少し出しましたが、その配置が時代ごとに変遷してきます。その変遷と配置の違いをここで確認しておきましょう。図1をご覧ください。

まずは、飛鳥寺式です。こちらは日本最古の伽藍配置となっており、塔を中心として金堂が3つ置かれているのが最大の特徴です。

ちなみに、塔というのは仏様の骨を安置するために建物で、金堂というのは礼拝の中心である本尊を安置する建物のことです。

飛鳥寺式では、大切な塔を守るようにして金堂が周囲を囲んでいるという様子がうかがえます。

次に、四天王寺式です。飛鳥寺式では3つあった金堂が1つしかなく、その金堂の前に塔が建てられているのが四天王寺式の特徴です。

次に、法隆寺式です。四天王寺式では、前後の位置にあった塔と金堂が、法隆寺式では西側に塔、東側に金堂、というように左右に並び立つようになります。ここまでが飛鳥文化の時期に建立された寺院の伽藍配置です。

次に、薬師寺式です。薬師寺式では、飛鳥文化の時期の寺院では1つだけしかなかった塔が、2つになり、中央の金堂を左右で挟むようにして塔が2つ配置されているのが特徴です。

飛鳥寺式では塔は、1つしかなく、しかも、一番真ん中に存在していました。それが、薬師寺式からは塔が2つになり、金堂が真ん中に配置されるようになっています。

ここから少しずつ、塔よりも金堂が重要な建物と考えられるようになったのだなということがわかります。薬師寺は白鳳文化期の698年に創建された寺院です。

次に東大寺式です。東大寺式では、なんと塔2つが中門の外に出てしまっています。だんだん、塔の重要性が薄らいでいる感じがありますね。

そして最後に大安寺式を見てみますと、2つの塔はさらに南大門の外にまででてしまっています。東大寺と大安寺は奈良時代に建立・改名された寺院です。

このように塔と金堂の配置に着目してその変遷を見ていくと、それぞれの伽藍配置の特徴が見えてきます。そこに注目して、各伽藍配置の名称と変遷を覚えていきましょう。

(図1. 伽藍配置の変遷|仏像愛好倶楽部(BAC))

仏像と仏教作品を要チェック!!

さて、最後に飛鳥文化期に完成した仏像や作品を確認していきましょう。

ここでは作品の特徴などを書いていきますが、その実物を必ず資料集で確認しながら読み進めていってくださいね。

法隆寺

  • 金堂釈迦三尊像
    623年に鞍作鳥らが、亡くなった聖徳太子のためにつくったといわれている、三体の仏像。

    中国南北朝の北魏様式が取り入れられていて、仏像は力強く厳しい表情をしています。真ん中の仏像がご本尊で、その左右にいる脇侍と呼ばれる仏が本尊を助けています。

  • 百済観音像
    一本のクスノキからつくられた、約八頭身の長身の仏像です。観音様は、世の中の出来事を観察し、救いを求める人の心に寄り添ってそれに応じて千変万化する仏です。
  • 夢殿救世観音像
    夢殿は、聖徳太子が「三経義疏」を作成しているときに、夢で金人が現れて教示を受けたという伝説から名付けられたお堂で、そこに人々を世の中の苦しみから救う観音様の仏像が安置されている。

  • 玉虫厨子
    仏像を安置する厨子に玉虫の羽を2563枚使って装飾を施した仏教の工芸品です。国宝に指定されています。

中宮寺

  • 半跏思惟像
    右足をまげて左ひざの上に置いて、右手をまげて指先を頬にあてて思索にふけっている姿の像を半跏思惟像と言います。中宮寺の半跏思惟像は頭の上に2つ玉が載っているのが特徴です。

  • 天寿国繍帳
    聖徳太子が亡くなった後に、妻の橘太郎女がつくらせた、太子が往生したといわれている天寿国の様子を描いた刺繍です。

広隆寺

  • 半跏思惟像
    中宮寺の半跏思惟像との違いは、広隆寺のものは、頭の上に帽子のようなものが載っているのが特徴です。

    少し微笑みかけるような美しい表情をしており、これは飛鳥時代の多くの仏像にみられる表情で、アルカイックスマイルと呼ばれています。アルカイックスマイルは、古代ギリシアの美術彫刻にみられる表情で、顔の感情表現を抑えながらも、口元だけは微笑みの形を作っているというのが特徴です。

まとめ

飛鳥文化は仏教が強く影響を与えている文化で、これは次の時代以降でも受け継がれていきます。

では、仏教を広め仏教に基づく政治を行っていった聖徳太子の死後、日本はどのような社会になっていくのでしょうか。

そもそも、聖徳太子が仏教を取り入れたのは、天皇を中心とする中央集権国家を実現するためでした。その理想は次の時代で受け継がれ、実現していくことができていくのでしょうか。

そのあたりを、次の章からはみていきたいと思います。次は、有名な「大化の改新」の時代です。

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