Contents
じれったい空気が漂う太子の死後。
聖徳太子が仏教を取り入れ、天皇に権力を集める国家形成を進めていきました。そのために、行ったのが憲法十七条であったり冠位十二階であったり遣隋使の派遣であったりしたわけですね。
しかし、聖徳太子の死後、ともに政治の実権を握っていた蘇我氏が独占的な権力を握るようになります。蘇我氏の専横は周囲の人たちから見て目に余るものがありました。
そのような中で、東アジアでは、隋の後に新たに誕生した唐が強大化していき、日本の目と鼻の先である朝鮮半島情勢も不安定な状況にありました。このような中にあって、日本は改革の必要性に迫られます。
しかし、それでもなお、自分の独占欲に固執し、全く危機感のない蘇我氏。日本国内でじれったい空気が漂います。
さて、こうした中で、日本は、だれがどういった舵取りをしていくのか。それが明らかになるのが、大化の改新という時代です。
どのような経緯で大化の改新が起こり、大化の改新の結果日本はどのような国家になっていくのか、そのことをこの章では見ていきましょう。
めざましい、中国「唐」の大発展!!
聖徳太子の時代に日本とかかわりを持っていた中国の「隋」は、煬帝の時代に大運河の建設事業で民衆に重い負担をかけ、また三度にわたって実施された高句麗遠征が失敗に終わり、民衆からの反発が強まり、内乱が起こって618年に滅亡しました。
かわって、中国は新たに「唐」が中国を統一することになりました。
唐は統一的な中央集権国家を築き上げるために、様々な制度を整えていきました。まず、成人男性に国家から土地を配給する均田制を実施し、同時に土地を配給された農民の中から徴兵する府兵制を導入しました。
これにより、安定的な税と兵の確保を実現します。また、科挙と呼ばれる役人登用のための試験を整備し、官吏(役人)を試験により採用することで、それまで世襲的に権力を握っていた門閥貴族の勢力を抑えようとしました。
中央の組織構造も変わりました。中央政府は、尚書省・中書省・門下省の三省を置き、尚書省の下に吏部・戸部・礼部・兵部・刑部・工部の6部を設置するという体制でした。
ちなみに、尚書省は一般行政を司る機関で、中書省は皇帝の詔勅の立案や起草を担当した機関、門下省は中書省から送られてきた詔勅などを審議する機関でした。
こうして国内の制度を整え、中央集権国家を築き上げた唐は、少しずつ領土を広げていき、東は朝鮮半島から西は中央アジア、北はシベリアの南から南はインドシナ半島に及ぶ、広大な世界帝国を形成していきました。
このような中で、唐に国家が飲み込まれてしまわないように、周辺の諸国では、唐にならった中央集権的な国家を築き上げることが急務なこととなっていました。
それは、日本も例外ではなく、いち早く中央集権的な国家を形成していくことが、この当時の政治の最大の課題となっていました。
日本、大化の改新前夜!
日本国内では、622年に聖徳太子が亡くなった後、蘇我氏が専制的な政治を実施するようになります。
蘇我氏は、天皇との姻戚関係を結んだり、朝廷の財政権を握ったりして、当時政治的な権力を持ちつつあった天皇家との結びつきが強かったため、強大な権力を持つことができたのです。
蘇我馬子の子どもの蘇我蝦夷は、推古天皇の後に皇位継承することになっていた聖徳太子の子どもの山背大兄皇子を排除して、代わりに舒明天皇を即位させました。
さらに蝦夷の子の蘇我入鹿は、山背大兄皇子が立てこもっていた生駒山を攻め、643年に斑鳩宮を襲撃し、山背大兄皇子とその妻子を自殺に追い込みました。このような中で蘇我氏の専横がより一層目立つようになってきます。
しかし、中国に渡っていて帰国した留学生や遣唐使たちによって、隋が滅亡して以降、唐が激しい勢いで強大化しているということが伝えられると、蘇我氏の専横ぶりに反発するグループがあらわれるようになります。
「このまま蘇我氏の政治的な権力を握らせていたら、国家存亡の危機に陥る。いち早く天皇を中心とする強固な集権国家を築き上げなければならない」というわけです。
そこで中大兄皇子と中臣鎌足が中心となって蘇我氏打倒の計画を進めていき、そこに阿部内麻呂や蘇我倉山田石川麻呂らを加えて実行へと向かっていきます。
ちなみに、蘇我倉山田石川麻呂は蘇我馬子の孫で、蝦夷のいとこにあたります。彼は、蘇我家の本家を裏切って反蘇我氏のグループに入りました。のちに彼は、蘇我氏滅亡後の新政権のメンバーに名を連ねることになります。
一瞬のクーデター!蘇我氏滅亡の時。
645年6月、その日は百済・新羅・高句麗の三韓が来日し、宮中でその儀式が行われることになっていました。そこには蘇我入鹿も出席することになっていました。
そこで中臣鎌足と中大兄皇子は、ここでクーデターを起こそうと話し合います。そして、式中に、蘇我倉山田石川麻呂が天皇に三韓から送られる文書を読んで、そこで入鹿が油断しているスキに一気に斬りかかるという作戦を立てました。
果たして、中大兄皇子は作戦通り蘇我入鹿を斬り殺すことに成功します。そしてこのことにショックを受けた入鹿の父親の蘇我蝦夷も、翌日に自らの邸宅に火を放って自害しました。
これにより蘇我氏の勢力は一掃されました。これを「乙巳の変」といいます。
この時、当然この儀式には当時天皇であった皇極天皇も臨席していました。皇極天皇は中大兄皇子の実のお母さんでした。
自分の目の前で暗殺事件が起こったということで、645年に皇極天皇は皇位を弟の孝徳天皇に譲りました。
改新政治の中身
蘇我氏が滅亡すると、ただちに新政府を作り上げていきます。新政府の顔ぶれを確認しておきましょう。
まず、天皇が、皇極天皇の弟の軽皇子が即位して孝徳天皇となりました。そして、次期天皇の位である皇太子には中大兄皇子、左大臣に阿部内麻呂、右大臣に蘇我倉山田石川麻呂が任じられました。
さらに、国博士という役職をつくり、これを遣唐使として中国に渡り多くの文化や学問を学んで日本に帰ってきた高向玄理や僧旻が担い、さらに乙巳の変で中大兄皇子と共に中心人物となった中臣鎌足には、彼のためつくられた役職である内臣の官職が与えられました。
中臣鎌足は669年に亡くなる直前に、天智天皇(中大兄皇子)から藤原の姓を賜っています。
新政府の樹立と共に、年号も新たに「大化」と定められ、都も飛鳥から難波長柄豊碕宮へと移りました。
そして「大化」と改められた645年から、新政権のメンバーたちによって、天皇を中心とする中央集権国家形成に向けた制度づくりが進んでいくことになるのです。
645年の蘇我氏滅亡から649年の中央官整備のころまでを、俗に「大化の改新」といいます。
天皇を中心とする中央集権国家に向けた制度整備
天皇を中心とする強固な中央集権国家を実現するために、646年に孝徳天皇の名で「改新の詔」という、新政権の政治方針について宣言した文書が出されました。
ここには、唐の政治制度にならった方針が示されています。これは、この先の奈良時代・平安時代の日本の政治制度づくりの基本ともなる方針ですので重要です。しっかりと内容を確認していきましょう。
其の一に日く、昔在(むかし)の天皇等の立てたまへる子代(こしろ)の民(たみ),処々(ところどころ)の屯倉(みやけ)、及び別には臣・連・伴造・国造・
村首(むらのおびと)の所有(たも)てる部曲(かきべ)の民、処々の田(た)荘(どころ)を罷(や)めよ、仍(よ)りて食封(じきふ)を大夫(まえつきみ)以上に賜ふこと各差(おのおのしな)あらむ。隆(くだ)
りては布帛(ふはく)を以て官人、百姓に賜ふこと差(しな)あらむ。其の二に日く、初めて京師(みさと)を修め、畿内国司・郡司・関(せき)塞(そこ)・斥候(うかみ)・防人(さきもり)・駅(は)馬(ゆま)・伝馬(つたわりうま)を置き、及び鈴(すず)契(しるし)を造り、山河を定めよ
其の三に日く、初めて戸籍・計帳・班田収授の法を造る。
其の四に日く、旧の賦役(ふえき)を罷めて田の調(みつぎ)を行ふ。
(『日本書紀』(原漢文))
まず、第1条では、天皇・皇族・豪族などが土地や人民を私有することをやめなさいということを言っています。
ヤマト政権の時代に、大王の私有民として名代・子代、私有地として屯倉、豪族の私有民として部曲、私有地として田荘というのがありましたね。これを廃止して、土地や人民を全て国家管理にし、公地公民制に移行していくということを宣言しています。
第2条では、畿内の範囲を定めてそこを首都とし、地方には国司・郡司を置いて、郡をさらに細かく文化して、中央と地方の行政機構を整備していくことを宣言しています。
これも畿内を中心として各地方を統轄していくという中央集権国家形成のための方策ですね。ちなみに、649年に定められた地方行政制度では、行政単位が「郡」ではなく「評(こおり)」が用いられていたそうです。
これは、藤原京から出土した木簡からも明らかになっています。その木簡には「己亥年十月上挟国阿波評(こおり)松里」と記されています。この木簡に「評」という行政単位が刻まれています。
己亥年とは699年のことで、この木簡は千葉県安房郡から送られた荷物につけられていた荷札のようです。正式に「郡」という行政単位が用いられるのは701年の大宝律令制定の時期になってからです。
第3条では、戸籍に基づいて班田収授法を定めることを宣言しています。班田収授というのは国家が国民に対して土地を班給し、そこから税金をとり、その国民の死後はその土地を国家が回収するという制度ですね。これは唐の均田制を模倣しています。
第4条では、今までの徴税方法を改めて、新たに税法を定めるというものです。これは租・庸・調の税を決めるということです。
「租」というのは、土地に課される税のこと、「庸」というのは、労働力提供の代わりに納める品物のこと、「調」というのは、諸国の産物を朝廷に納める税のことです。
この方針に従って、ここから中央の政治が行われていくことになり、これがきちんとした形となって完全に整備されるのは701年の大宝律令の時になります。
野望は天皇になること、中大兄皇子!
さて、大化の改新で大活躍した中大兄皇子ですが、彼が蘇我氏滅亡を企てたのは、天皇を中心とする中央集権国家の形成をなんとしても実現しなければいけないという使命感があったのはもちろんのことですが、それに加えて中大兄皇子自身が天皇になりたいという個人的な野望も持っていたのではないかと私は思っています。
中大兄皇子の父親は舒明天皇、母親は皇極天皇で、彼は天皇になるには十分な資格を有していました。
しかし、専横を続けていた蘇我氏は次期天皇として古人大兄皇子を支持していました。この状況では中大兄皇子が天皇になるチャンスが巡ってきません。
そのため自分が天皇になる可能性を自ら生み出すために、蘇我氏を滅亡させたのではないかということも考えられるのです。その後、蘇我氏が次期天皇として推していた古人大兄皇子も謀反の疑いで滅ぼしています。
しかし、中大兄皇子は乙巳の変後、天皇になることはできませんでした。これはすぐに中大兄皇子が天皇に就任してしまっては、端からその野望を持って蘇我氏滅亡を企てていたというふうに周囲から思われてしまう可能性もあったため、一旦間を挟むため孝徳天皇に位を譲ったのではないかということも考えられますね。
この時に中大兄皇子は皇太子となり、次期天皇はほぼ確実となりました。
しかし、孝徳天皇が亡くなった後、中大兄皇子が天皇に就任するかと思いきや、またもや天皇になることができませんでした。これは一説によると孝徳天皇との不仲があったのではないかと言われています。
不仲になった原因もいくつか考えられますが、一つには孝徳天皇が自分の息子に次期天皇を譲りたいと考えていたことがあります。これを知った中大兄皇子は孝徳天皇を難波宮に置いてきぼりにして、孝徳天皇の妻である間人皇后を連れて飛鳥に宮に移り、間人皇后との関係も持ち始めました。
驚くべきことは間人皇后と中大兄皇子は実の兄妹でありました。不倫と近親相関のダブルパンチです。孝徳天皇のほうは孤独の中で654年に亡くなります。
さらには、中大兄皇子は孝徳天皇の息子の有間皇子を658年に謀反の疑いで滅ぼしてしまいました。これだけの悪事を働いていればそう簡単に天皇に慣れないのは何か納得がいくような気がします。
そんなわけで、孝徳天皇の死後は、中大兄皇子の母親であるかつての皇極天皇が、新たに斉明天皇として天皇に即位することになりました。
同じ人が2回天皇の位につくことを重祚といいますが、皇極天皇は重祚して斉明天皇となりました。結局、中大兄皇子が天皇になるのは先に持ち越しとなってしまいました。
せまる国難の危機。
そんな中で、日本にはある危機が迫っていました。朝鮮半島では新羅と百済の対立が鮮明化しており、新羅のほうは唐との結びつきを強めていました。
そのような状況で660年に、唐・新羅連合軍が百済に大軍を送ってきて、百済王は降伏してしまいました。しかし、百済内部ではそれでも、なんとか百済を再興させるために抵抗を続けていました。
そこで百済の王族の1人である鬼室福信が日本に救援を要請してきました。時の日本の天皇は斉明天皇、皇太子が中大兄皇子です。
これを受けて661年に斉明天皇が九州にまで軍勢を率いてやってきました。しかし、なんとここで斉明天皇が病に倒れ亡くなってしまいました。
絶体絶命のピンチ。代わって中大兄皇子が天皇の位には就かずに政治の実権を握り(称制)、百済の応援へと向かっていきます。果たして結末はいかに。
次回は白村江の戦いから、中大兄皇子の天皇就任とその後についてみていきます。
続きはこちらから!
おすすめ記事
参考
- 安藤達朗『いっきに学び直す日本史 古代・中世・近世 教養編』,東洋経済新報社,2016, p64-p68
- 『詳説 日本史B』山川出版社,2017 ,p38-p40
- 向井啓二『体系的・網羅的 一冊で学ぶ日本の歴史』,ベレ出版,p56 –p62
- いらすとや