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中大兄皇子の野望
前回は大化の改新についてみていきました。大化の改新では、天皇を中心とする中央集権国家をつくるという最大の目的がありました。
しかし、その一方で、大化の改新を主導した中大兄皇子は天皇になりたいという野望を密かに持ち続けていました。
乙巳の変で、蘇我蝦夷・入鹿父子を滅ぼした後、中大兄皇子は天皇になろうとしましたが、皇居内で、天皇が目の前で見ている中で、人殺しを敢行したという罪は重く、結局皇極天皇の次は、その弟の孝徳天皇が継ぐことになり、中大兄皇子は皇太子(次期天皇のこと)のポジションにつくことになりました。
そのような中で、東アジアでは唐や新羅が勢力を増している状況で、その危機が日本にも押し寄せている時期を迎えました。そしていよいよ、朝鮮半島内で良好な関係を築いていた百済が唐・新羅連合軍によって滅ぼされます。
これに対して、日本は百済から援軍要請を受け、軍隊を朝鮮半島に派遣することに。果たして、その結果はいかに。そして、中大兄皇子は念願であった天皇になることはできるのでしょうか。
そのあたりの歴史をこの章では見ていきたいと思います。
白村江の戦いの行方はいかに??
660年に、唐・新羅連合軍が百済に大軍を送ってきて、百済は日本に対して救援を要請してきました。これを受けて、当時の天皇である斉明天皇と皇太子の中大兄皇子は百済に援軍を送ることを決定しました。
しかし661年に軍勢を九州に率いた斉明天皇がここで亡くなってしまいます。代わって、皇太子の中大兄皇子がそのまま天皇に即位することなく政治の実権を握り(称制)、戦争を指導していきました。
そして、663年についに日本は、朝鮮半島南西部を流れる錦江河口の白村江に、約3万の大軍が到着しました。
しかし、結果は、わずか2日のうちに、日本が大敗を喫する結果となってしまいました。この戦いを白村江の戦いといいます。中大兄皇子のデビュー戦は苦い結果に終わりました。
さて、白村江の戦を通じて政治の事実上のトップに立った中大兄皇子は、その後も天皇に就任せずに政治の実権を握る体制(称制)を継続し、668年に天智天皇として即位することになりました。では、中大兄皇子(天智天皇)はここからどんな政治を行っていくのでしょうか。
中国が攻めてくる前に、防衛力を強化しろー!!
中大兄皇子の最初の政治課題は、白村江の戦い後の日本の防衛体制の強化でした。
白村江の戦いで唐・新羅連合軍に百済と日本が敗れたことで、次は日本が両国に攻め込まれる可能性がありました。そのため、一刻も早く唐・新羅連合軍が日本に攻めてきた場合の防衛体制を築くことが急務でした。
防衛力強化は特に九州地方で行われます。それは、九州が朝鮮半島や中国大陸と目と鼻の先にある地で、日本の防衛や外交にとって重要な場所だからです。
というわけで、まず、664年に壱岐(現長崎県北部)・対馬(現長崎県北西端)・筑紫(現福岡県)に防人と烽火を設置し、また筑紫には大宰府の防衛のために水城も置かれました。
防人とは、九州の防衛のために配備された兵士のことです。のちに701年に律令制が成立してからは、全国の兵士から3年交代で選ばれることになりました。
烽火というのは、緊急事態があった際にそれを連絡するための施設です。敵国が攻め込んできた際に、煙火をその地から巻き上げて、敵国進撃を全体の兵に知らせます。
水城というのは、全長1キロメートル・高さ13メートルに及ぶ水辺に設けられた土塁のことです。
さらに、665年には、現在の山口県・佐賀県・福岡県の要衝に長門城・基肄城・大野城といった朝鮮式山城も築きました。
やっと天皇になった!天智天皇の政策
中大兄皇子は667年に都を飛鳥から近江大津宮に遷都し、翌年の668年に天智天皇として即位しました。
天智天皇は、大化の改新の最大の目的である天皇を中心とする中央集権国家の形成のために、いくつかの政策を行っています。一つずつみていきましょう。
まず天智天皇は、664年に甲子の宣を出し、豪族層に氏上を定めました。これはそれぞれの地方の有力者である豪族の地位を認めた内容のもので、豪族の私有民(民部)や豪族の賤民(家部)の領有を再確認しました。
これは、孝徳天皇が出した「改新の詔」の中に書かれていた、公地公民制とは反するような内容のものです。わざわざ天智天皇が公地公民制に反するような甲子の宣を出したのは、白村江の戦いの敗戦による豪族からの不満をそらす目的があったのかもしれません。
668年には、日本初の「令」である、近江令が完成しました。「令」というのは、法律のことです。
大化の改新の際に中大兄皇子と共に結託した中臣鎌足が中心となって編纂したといわれています。全22巻から成りますが、確実な史料がまだ見つかっていないため、内容はまだわかっていません。
また、670年には、日本初の全国的な戸籍である庚午年籍が作成されました。戸籍は公地公民制のもとで、日本国内に住んでいる人たちに口分田を班給するために必要なものとなります。
庚午年籍は永久保存されていたようなのですが、いまだこれも発見されておりません。
中大兄皇子が天皇に就任したのは、彼が亡くなる3年前でした。ずっと天皇になりたいという願望を持ちながら、やっと晩年になってその野望をかなえることができたのですね。
彼が天皇在位中に残した功績は、近江令の制定と庚午年籍の完成でした。その2つの業績を残し、中大兄皇子(天智天皇)は671年に崩御しました。
波乱万丈の中大兄皇子の死後
中大兄皇子の死後、次の天皇候補として、中大兄皇子の息子の大友皇子と、中大兄皇子の弟の大海人皇子の2人がいました。この2人が天皇の位をめぐって、672年に戦いを繰り広げます。これが壬申の乱です。
中大兄皇子は671年に病に倒れると、そこから快方に向かわず重篤な状態になりました。そして自分の死を覚悟した中大兄皇子は自分の跡を継ぐ次期天皇のことを考え始めます。
生前、中大兄皇子(天智天皇)を支えていたのは、弟の皇太子の大友皇子でした。しかし、中大兄皇子は息子の大友皇子に次期天皇を継いでほしいと考えていました。
そこで中大兄皇子は自分の病床に弟の大海人皇子を呼び、「俺のあとのことはお前に頼んだ」と、大海人皇子に言いました。
これに対し大海人皇子は、「とんでもございません。私は天皇になるなんて毛頭も思っておりません」といった回答をし、大海人皇子はそのまま、次期天皇を継ぐ意思がないということを示すために、髪の毛を剃り落としてお坊さんとなり、吉野(現在の奈良県南部)に出家していきました。
中大兄皇子は、息子の大友皇子に天皇を継がせるために邪魔になるのが大海人皇子であるということを認識していて、自分が死ぬ前に、大海人皇子が天皇の位につくという野望を持っているのかどうかということを確認して、もしも天皇になろうという意志を大海人皇子が持っていたら、彼を消し去ってしまおうということを考えていたのだろうと思います。
しかし、大海人皇子はそのことを認識していて、自分が消し去られてしまう前に、出家して自分がまったく天皇になる意志がないことを中大兄皇子に示そうとしていたのでしょう。
しかし、中大兄皇子の死後、大海人皇子は吉野から出て大友皇子との対立姿勢を鮮明にしていきました。大海人皇子は虎視眈々と天皇の位を狙っていたわけです。
672年、大海人皇子が自分の私有地がある美濃国に兵の拠点を置き、大友皇子に戦いを挑みました。
大海人皇子側には、東国に住んでいる豪族たちを味方につけ、大友皇子のいる近江大津宮を一気に占領して焼き払い、ついには敗走した大友皇子を自殺に追い込んでいきました。
ここに、壬申の乱に勝利した大海人皇子が天武天皇として即位します。なかなかの野望家です。大海人皇子は飛鳥に戻り、都が近江大津宮から飛鳥浄御原宮に遷都されました。
一方の大友皇子は失意のうちに亡くなっていきました。大友皇子の祟りを恐れた後世の歴史家は、大友皇子を「弘文天皇」と名付け、彼は一応即位した天皇として、第39代天皇に名を連ねています。
これまで「~天皇」という呼び名をしてきましたが、実は「天皇」という言葉が使われ始めたのは、天武天皇の時からです。
それまでは「大王」という称号が用いられていましたが、天武天皇の時代から天皇号が使われるようになり、689年に飛鳥浄御原令が制定されてから、正式に「天皇」「皇后」「皇太子」の称号が使われ始めたとされています。
壬申の乱で勝利した天武天皇
壬申の乱は単なる天皇内部の争いというだけでなく、実はこの乱をきっかけに大化の改新の政治が急速に進展したということがあります。これが壬申の乱の歴史的な最大の意義です。
改新の詔に対してあまりよく思わない保守的な層もいました。それが旧来からそれなりに利権を持っていた豪族たちです。天智天皇が豪族たちの地位を認めたのも彼らの不満をそらすためでした。
いつの時代も何か新しいことをやろうとすると、ある程度、力を持つ保守的な層の反対がその進展を遅らせるということがあるのですね。
しかし、壬申の乱では旧来の豪族層たちが大友皇子側につき、天智天皇の政治に不満を持っていた人たちが大海人皇子側につき、最終的に革新層の大海人皇子が勝利したことで、改新政治がここから急速に進展していくことになるのです。
それでは、ここから改新政治が進んでいく様子を見ていきましょう。
まず、天武天皇は、675年に天智天皇が認めた豪族の私有民(部曲)を全廃し、公地公民制を徹底しました。さらに、豪族の身分制度もすべて一掃し、新たに684年に八色の姓を制定しました。
これはかつての氏姓制度を一部利用しながらも、天皇を中心とする新しい身分秩序に再編成し直すものでした。
身分は、その名の通り8つあります。8つ、リズムよく唱えて覚えていきましょう。
上の身分から、真人・朝臣・宿爾・忌寸・導師・臣・連・稲置です。
いきますよ。真人・朝臣・宿爾・忌寸・導師・臣・連・稲置。もう一度。真人・朝臣・宿爾・忌寸・導師・臣・連・稲置です。
このうち最初の4つの位のみが実際に与えられていたものだといわれています。
こうした制度を整えていくことで、天皇を中心とする国家体制を形成していきました。681年には、新しい法律として飛鳥浄御原令の作成を始めました。
また、天武天皇の時代には日本最古の貨幣と言われている「富本銭」の鋳造も行われています。これは実際に流通していた貨幣なのかそれともおまじないのための貨幣なのか定かとなっていないのですが、奈良県の明日香村の飛鳥池遺跡から400点近くの富本銭が発見されています。
さらには、天皇の権力を歴史的な事象から証明し、理念的な裏付けをしていくために、国史の編纂も行い始めました。
このへんから天皇が自ら「現つ神」=「人に姿を変えた神様」、と呼ぶようになり、天皇の神格化が行われました。天皇は神の子だから国家の政治的な権力を有しているのだという理論ですね。
同時に、本格的で広大な天皇の住まいである都を築くために、中国の都城制をまねた藤原京の造営も開始されています。
少しずつ進んでいく律令体制への道
686年に天武天皇が亡くなり、次の天皇は息子で皇太子の草壁皇子が即位することになっていましたが、即位直前に亡くなってしまい、代わって天武天皇の奥さんで草壁親王のお母さんである持統天皇が3年間の称制(天皇として即位することなく政治的な実権を握ること)を得て、689年に女帝として即位しました。
持統天皇は天武天皇がやり残した事業を一つずつ完成させていきました。まず、689年に、飛鳥浄御原令が施行されました。
法律というのは、ルールとそれを破った場合の罰則が合わさって意味を成すようになります。「○○というルールがあって、○○というルールを破った場合、△△という罰に処する」というものですね。
これの、ルール(法律)にあたるものが「令」、刑罰規定にあたるものが「律」となります。しかし、飛鳥浄御原令の時点ではまだ、「律」のほうは完成していませんでした。
「律」と「令」の両方が合わさって本格的な法律として完成するのが、701年の大宝律令制定の時になります。飛鳥浄御原令は全22巻からなり、大宝律令の制定まで効力をもつことになりました。
また、持統天皇は、690年に新しい全国的な戸籍である、庚寅年籍を作成しました。こちらは庚午年籍と違って永久保存ではなかったようですが、農民を把握し支配するための根本となる台帳で、これを基に農民に対して班田が実施されていきました。以降6年ごとに戸籍が作成されていくことになりました。
そして、いよいよ694年には畝傍山・天香久山・耳成山の3つの山に囲まれた藤原京が完成し、ここに遷都しました。藤原京は東西約2キロメートル、南北約3キロメートルで、中国の都城制をまねた条坊制の都でした。
「条」というのは東西の道路のことで、「坊」というのは南北の道路のことです。これまでは天皇が代わるごとに都を移すというのが一般的でしたが、藤原京は、持統天皇・文武天皇・元明天皇の3代にわたって用いられる都となりました。
この藤原京には約1万人~3万人の人口が集中していたといわれています。それほど当時としては本格的で巨大な都で、国家的な大事業として藤原京の造営が行われていたというわけですね。
持統天皇はその後、697年に孫の文武天皇に天皇の位を譲って、譲位後は太上天皇(天皇の位を譲った天皇に与えられる称号=上皇)となって、文武天皇の政治を支えました。その文武天皇が、いよいよ701年に大宝律令を完成させていきます。
大宝律令の完成に向けて
さて、文武天皇はいかにして大宝律令を完成させ、その後日本の社会はどのように変化していくのでしょうか。
そのあたりを、次以降にお話しするとしまして、次回は天武天皇・持統天皇の時代に栄えた文化である白鳳文化についてみていきたいと思います。
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参考
- 安藤達朗『いっきに学び直す日本史 古代・中世・近世 教養編』,東洋経済新報社,2016, p66-p70
- 『詳説 日本史B』山川出版社,2017 ,p39-p40
- 向井啓二『体系的・網羅的 一冊で学ぶ日本の歴史』,ベレ出版,p62 –p67
- いらすとや