日本史を楽しく復習しよう!「白鳳文化」について[天武天皇・持統天皇]

仏の力で国を強くしたい!!白鳳文化

 

飛鳥文化の次にやってくる文化が白鳳文化です。

645年の大化の改新のころから、710年の平城京遷都までの、7世紀後半から8世紀初頭にかけての時代のことを白鳳時代と呼び、そのころの時代の文化が白鳳文化です。

白鳳文化の特徴は、遣唐使の継続的な派遣によって唐の文化が流入してきて、さらに朝鮮半島の百済・高句麗の滅亡に伴って、多くの渡来人が日本にやってきて、インドやイランなどの西方の芸術を彼らが伝えてくれたため、非常に国際色が豊かな文化となっている点です。

これらの文化はいずれも仏教の影響を強く受けているため、日本の白鳳文化でも飛鳥時代同様に仏教色の強い文化となっています。

白鳳文化が特に発展したのが、天武天皇と持統天皇の時代です。その前の、天智天皇(中大兄皇子)は仏教に対してあまり関心を寄せていなかったため、彼の時代はあまり仏教文化が栄えませんでした。

しかし、天武天皇や持統天皇の時代になって、「仏教は国家を守り安定化させる力を有している」という鎮護国家の思想が芽生えてきて、国家が政策的に仏教の興隆に努めるようになりました。

そのため、白鳳文化は特に、天武天皇・持統天皇の時代に生まれた文化と言っても過言ではありません。

では、この両天皇の時代にどのような文化や芸術が生まれてきたのでしょうか。一つずつみていきましょう。

人々を救う寺院建設

大官大寺

このお寺は、時代ごとに名称が変化していることで有名なお寺です。もともとは、飛鳥時代に聖徳太子が仏教の修行のための道場として、大和国の平群郡額田部に建立した、「熊凝道場」を起源としています。

その「熊凝道場」が時代を経るごとに、百済大寺→高市大寺→大官大寺→大安寺と名称を変えていきました。

この移り変わりの様子は『三大実録』の中に、以下のように書かれています。

「昔日、聖徳太子平群郡熊凝道場を創建す。飛鳥の岡本天皇、十市郡百済川辺に遷し建て、封三百戸を施入し、号して百済大寺と曰う。子部大神、寺の近側にあり、怨を含んで屡々堂塔を焼く。天武天皇、高市郡の夜部村に遷し立て、号して高市大官寺といい、封七百戸を施入す。和銅元年平城に遷都し、聖武天皇詔を下して律師道慈に預け、平城に遷し造らしめ、大安寺と号す」 

時の天皇たちが、もともとの熊凝道場の場所を移していく中で、名称が変化していった様子がわかりますね。

最初に「熊凝道場」と呼ばれていたそのお寺は、その後「百済大寺」と名称を変えますが、それは聖徳太子の遺言によるものであったそうです。

聖徳太子が重い病気にかかってしまって、そのお見舞いに推古天皇と田村皇子(舒明天皇)がやってきた際に、太子が「熊凝道場をこれからの時代の天皇たちのために大寺にして、仏教の教えを継承していってほしい」ということを遺言として2人に伝えました。

その言葉を聞いて、田村皇子が舒明天皇として即位したときに、熊凝精舎を奈良盆地を流れる百済川の畔に移して建てられて、百済大寺と呼ばれるようになりました。

その後、天智天皇が崩御した後に、皇位継承をめぐって壬申の乱が起こり、その壬申の乱に勝利した天武天皇が、直後に百済大寺を新たに明日香村が高市郡に移して、名称を「高市大寺」と改めました。

さらに、天武天皇は677年に高市大寺を「大官大寺」と改称し、白鳳文化の時代にはかつての「熊凝道場」が「大官大寺」と呼ばれるようになりました。

「大寺」とは、個人所有のお寺(私寺)ではなく、国家所有のお寺(官寺)であるという意味です。また「大官」というのは、天皇の意味です。

すなわち大官大寺は、天皇自らの所有するお寺として、国の安泰と人心の安寧を祈る公のお寺という位置づけで、白鳳文化の時代には存在していたわけです。これは仏教の力で国家を守っていくという、鎮護国家思想の先駆けです。

そのような形で、大官大寺は677年に国家仏教の頂点に立つお寺となりました。

薬師寺

薬師寺は、680年に天武天皇が皇后の持統天皇の病気が快復することを願って藤原京内に建造が始められた寺院として伝えられています。

ただ、実際には持統天皇よりも先に天武天皇が亡くなってしまい、その後に天皇に就任した天武天皇に病気の平癒を祈られた側である持統天皇の時代に、建設が進められていき、698年に完成しました。

その後薬師寺は、710年平城京遷都の際には一緒に藤原京から平城京に移転をしました。

薬師寺の内部には、かつてフェノロサがそのリズムある姿で建っている様子がまるで流れるように止まっている「凍れる音楽」のようだと表現した、裳階付きの三重塔である薬師寺東塔や、金堂の薬師三尊像・東院堂の聖観音像などの仏像が置かれています。

薬師寺は、全体のその美しさから日本で最も美しい寺院として称されています。

たくさんの仏教建築

法隆寺阿弥陀三尊像

阿弥陀三尊像とは、真ん中にどっしりと座っている阿弥陀如来像と、その左右で阿弥陀様の救いの助けをしている二体の菩薩像が並び立っている像です。

二体の菩薩にもそれぞれ名前がついておりまして、正面から見て右側に位置しているのが勢至菩薩、左側に位置するのが観音菩薩です。

仏教界にも人間の世界と同じようにランク(階級)があるのですが、最もトップに位置して、人間界でいう社長さんのような立場にあるのが阿弥陀如来です。

阿弥陀如来はお釈迦様が悟りを開いた後の姿で、煩悩が一切なく、衣をまとっただけの質素の姿をしています。髪の毛がぽつぽつした渦巻き状になっているのが特徴です。

その阿弥陀如来が、観音菩薩勢至菩薩を従えて、人々を悟りの世界へと導きます。

阿弥陀様の左側に位置している勢至菩薩は、頭の冠に水瓶をつけているのが特徴で、「智慧」の力で阿弥陀様の人々への救いのお手伝いをします。この勢至菩薩は基本的に単独で飾られることはなく、必ず阿弥陀様と一緒に祀られます。

阿弥陀様の右側に位置している観音菩薩は、阿弥陀様の化身ともいわれていて、「慈悲」の力で阿弥陀様の救いのお手伝いをしています。

阿弥陀様だけでは手いっぱいになってしまうため、二体の菩薩の力を借りて人々を救いの道へと導くわけですね。

ちなみに、勢至菩薩観音菩薩といった「菩薩」様は、阿弥陀様の下のランクになり、お釈迦様がまだ修行中で王子だったころの姿が現されているといわれています。

まだ完全に悟りを開いておらず、多少の煩悩がまだ残っているため、菩薩像は冠をつけたり、イヤリングをつけたり、首飾りをつけたりと、少しおしゃれしたり装飾したりしているのが特徴です。

実際に観音菩薩勢至菩薩も、頭に冠をかぶったり、手にモノを持っていたりしていますね。まだ欲を完全に捨てきれていない感がでています。こうして仏像を見てみるとおもしろいものですよ。

「あっ、この仏像はまだ煩悩を捨てきれてないんだな」とか「阿弥陀様は、さすがだ。衣しかまとってないし、それでいて荘厳な雰囲気を醸し出していてすごい」、なーんて思いながら仏像を見てみると、お寺をめぐるのが少し楽しくなるかもしれませんよ。

法隆寺夢違観音像

こちらも、勢至菩薩観音菩薩と同様に、最高ランクの「阿弥陀様」の下に位置する「観音様」の一種です。会社で言うなら副社長のような立場ですかね。

夢違観音像は、白鳳時代の後期に誕生した菩薩像で、この時代の仏像の特徴として、非常に人間っぽくて豊満な肉体を感じさせるような美しさを兼ね備えた仏像が多くなります。

これはこの次の天平文化にも受け継がれていく特徴です。このスタイル抜群の夢違観音像は、人々の悪い夢を良い夢に変えてくれる力を持っています。

最近よくない夢ばかりを見てしまう人は、この観音像にお祈りすれば良いことが起こるかもしれませんよ。

薬師寺東院堂聖観音像

こちらも観音様の一種で、顔が一つ、腕が二つという特徴を持つ「一面二臂」の仏像です。

この後の時代に出てくる観音様は、より多くの人々を救うために顔や腕が何本も南十本も増えたりするのですが、初期の観音様の一つである聖観音像はシンプルで顔が一つ、腕が二つ、という非常に人間的な特徴を持っています。

身体のスタイルも、胴体にくびれがあって、どっしりとした肉付きで、左右対称で均整のとれた美しいラインを持っていて、とても人間的です。

もしかしたらこれも煩悩の塊なのかもしれませんね。身体を鍛えて良く見せたいという。そう考えたらお金をかけてジムで体を鍛える人間たちは煩悩まみれなのかもしれません。

聖観音は、色なき色をみて、音なき音を聞く力に長けており、人々を様々な見えない災難から救ってくれます。

薬師寺金堂薬師三尊像

真ん中に位置しているのが、薬師如来像です。仏教界で一番偉いランクの「如来」様の一種ですね。

薬師如来は、病気を治す仏さまとして扱われております。阿弥陀如来は、死後の来世の平穏を祈る仏様であるのに対して、薬師如来は現世の苦しみや病気から人々を解放する役割を担っています。

その左右に配置されているのが、薬師如来のお仕事のお手伝いをする2体の観音像です。正面から見て左側に位置しているのが月光菩薩、右側に位置しているのが日光菩薩です。

月光菩薩は月の明かりのような優しい心で人々を病から救ってくれます。日光菩薩は、太陽のような強い光を発して、苦しみの闇を取り除いてくれます。

病院で言うなら、薬師如来像が医師で、月光・日光菩薩像が夜勤と日勤で役割分担をするナースのような存在ですかね。3体の仏像が、人々を病の苦しみから救ってくれます。

興福寺仏頭

興福寺にある仏様の頭です。もともとはちゃんとした胴体もある仏像でもあったのですが、現在その頭だけが残されて興福寺に安置されています。

もともとこの仏像は、大化の改新で大活躍した蘇我倉山田石川麻呂という人をとむらうためにつくられた薬師如来像で、その仏像は山田寺に安置されていました。

しかし、その後1187年に興福寺のお坊さんたちが山田寺から勝手にこの仏像を盗んできて、もともと興福寺にあった薬師如来像は興福寺に置かれるようになってしまいました。

ちなみに、興福寺のお坊さんたちが薬師如来像を盗んだのは、1180年に平重衡(平清盛の子ども)によって興福寺が焼かれてしまい、新たに興福寺を再建するにあたって、仏像が必要だということになって、「じゃあ、山田寺からこっそり盗んできてしまおう」ということになったからだそうです。

なんともかわいそうな運命です。でもかわいそうなのはそれだけではありませんでした。

その後、1411年に興福寺で火災があり、それによって薬師如来の頭から下の胴体の部分が全て消失してしまったそうです。なんとも波乱の人生ですね。

そんなわけで、現在も頭だけはきれいな形で生き残って、現在まで現存しているというわけです。

神聖な絵画たち

法隆寺金堂壁画

法隆寺の金堂内部の壁に描かれた仏教に関する絵画です。

ここには、釈迦如来・阿弥陀如来・弥勒如来・薬師如来といった「如来」様の浄土(悟りを開いた世界)を表現した絵画などが大きな壁に描かれていました。

しかし、1949年に火災によって焼損してしまいました。

高松塚古墳壁画

1972年に、奈良県高市郡明日香村にある高松塚古墳内部から発見された絵画です。

ここには、中国の伝説で天の四方を守っているとされている、東の青龍・南の朱雀・西の白虎・北の玄武の四神が描かれていたり、この当時の人物の像が描かれたりしています。

特に、歴史の教科書にものっている、西壁女子群像は当時の飛鳥美人を描いたものとして有名です。高松塚古墳の壁画は様々な色合いで鮮やかに彩られて描かれています。

新しく「漢字」を楽しむ文化が生まれる!!

白鳳文化の時代は、天武天皇や持統天皇によって天皇の権威が少しずつ高まっていった時代でもあり、この時代に天皇権威を歴史的にも証明していくために国史の編纂が開始されていきました。

これは、奈良時代に『古事記』や『日本書紀』として完成をみることになります。さらに、中国の影響も受け、貴族層の間で教養としての『漢詩』が流行するようにもなります。

さらに、漢詩の影響を受けて、五七調を基調とする日本独自の定型歌である、「和歌」も誕生していきました。

この時代の和歌の歌人として、天智天皇・天武天皇・持統天皇・有間皇子・額田王・柿本人麻呂などが活躍し、彼らが残した和歌は後に『万葉集』にまとめられて、現在でも日本人の教養として多くの人々に読まれています。

まとめ

白鳳文化は、日本が天皇を中心とする集権国家を築き上げるにあたって、仏教の力で国を治める鎮護国家の思想を体現し始めた文化となっています。

仏像をつくったり、お寺をつくったりというのは、仏教の力で国を治めていこうという思想の表れなのです。この思想が本格的になってくるのが、奈良時代です。

白鳳文化の次にくる、奈良時代の天平文化というのはまさにそのような思想を体現したような文化となっていきます。そのあたりの文化史は、いったん政治史をこの後の章で挟んで、また後ほど詳しく説明していきます。

さて、白鳳時代以降、日本はいかにして仏教文化を本格的に浸透させていき、それが日本の政治にどんな影響を与えていくのでしょうか。

そして、日本はいかにして中央集権国家を完成させていくのでしょうか。

次の章では「大宝律令」の完成とその中身をみていきます。

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