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ルールで人々をまとめるぞ!!
飛鳥時代の日本にとっての最大の課題は、天皇を中心とする中央集権国家を築き上げることでしたね。
朝鮮半島や中国の脅威が迫ってきている中で、日本という国を強くしていくためには、なんとしても国の権力を一つに集中させてまとめていく必要がありました。
そのような中で、国内で独善的で勝手な政治をやっていた蘇我氏を中大兄皇子や中臣鎌足らが大化の改新で滅ぼしたのでしたね。そして、その次の孝徳天皇以降、中央集権国家を実現していくための政策が段階的に行われていきました。
そして、その中央集権国家が完成に至るのが、今回見ていく「大宝律令」の完成です。
「律」というのは現在でいう「刑法」のことで、「令」というのは現在でいう行政法・一般法のことです。
すなわち、政治はどのようにやっていくのか、人々はどんなルールを守らなければいけないのか、そしてそのルールを破ったらどんな罰を受けることになるのか、といったことを明確に定めていったのですね。
やはり、組織を一つにまとめ上げようとしたらルールを決めてそれを破ったら罰するというやり方が一番効率的でまとめやすいやり方なのだろうと思います。学校でも校則があるのは、学校という組織の秩序をしっかりと保っていくためなのです。
こうして「法律」に基づいてまとまっていく国家のことを「法治国家」と言いますが、日本は法治国家を築くことで、他の東アジアの国々に負けない強い日本を作り上げようとしたのですね。
さて、その日本の法律制定の原点ともいえる「大宝律令」はどのようにして完成に至ったのか。そして、その中身はどんなものであったのか、そのあたりを詳しくみていきたいと思います。
大宝律令はどのように完成したの??
ルールは、その条文と刑罰が一体となって初めて強い効力を持つようになります。ルールを定めても、その罰則がきちんと定められていないものというのは、決め事としてはもろいのですね。
そんなわけで、法律のほうも、ルールと刑罰が一体となって初めて完成となります。そういったわけで、行政法・一般法について定めた「令」と、刑罰規定の「律」の両方が完成して初めて「法治国家」の完成ということになります。
しかし、日本が「律令」を完成させるまでには少し時間がかかりました。
671年の天智天皇の時に近江令が、天武天皇の時に飛鳥浄御原令が定められましたが、いずれも「律」の伴わない法律でした。それが、「律」と「令」の両方が兼ね備わって完成したのが、皆さんもご存じの通り、大宝律令なのです。
大宝律令は、文武天皇の時代の701年に、刑部親王や藤原不比等ら19人によって作成され、翌年に施行されました。
この頃から、国内で正式に「日本」という国号が用いられるようになったそうです。それまではまだ、「日本」という呼び方すらもなかったのですね。
ここから「日本」が本格的な国家としての歩みを進めていきます。その後、元正天皇の時代の718年に、藤原不比等らによって、大宝律令を少し修正した養老律令が編纂されました。
こちらは757年の藤原仲麻呂政権の時代に施行されています。内容は大宝律令とほとんど変わりませんが、名称だけ変わりました。
大宝律令や養老律令の内容については、清原夏野が中心となって作成した公的な養老令の注釈書である『令義解』や、法律学者の惟宗直本が書いた私的な養老令の注釈書である『令集解』からも確認することができます。
さて、その大宝律令や養老律令では、どのようなことが具体的に規定されたのでしょうか。その「律令」の中身を、ここからは一つずつみていってみましょう。
律令の中身をみてみよう!!
犯罪の種類と刑罰の種類を決める!!
まずは、刑法にあたる「律」のところを見ていきましょう。「律」は、「八虐」と呼ばれる8つの重大な罪を中心とする犯罪の種類と、もしもそれらの犯罪をした場合の「五刑」と呼ばれる5つの刑罰を規定しています。
では、まずは八虐からです。八虐というのは、たとえどんなに権威や位を持っている人であっても決して減免されることが許されない、最も重い罪の8つです。天皇や父母に背くような罪がこの8つに規定されています。
具体的には、
- 謀反(天皇に危害を加えたり、加えようとする罪)
- 謀大逆(皇居や皇族のお墓を壊す罪)
- 謀叛(国家に反逆する罪)
- 悪逆(祖父母や父母に危害を加える罪)
- 不道(一家3人以上を殺したり、直系じゃない家族の年長者を殺そうとしたりする罪)
- 大不敬(神社を破壊する罪)
- 不敬(祖父母や父母を訴えたり、罵声を浴びせたりする罪)
- 不義(主人を殺す罪)
の8つです。
天皇や家族の中の年長者がかなり重要な存在ととらえられていたことがよくわかりますね。家族の年長者を訴えたり罵ったりしたら罰せられるわけですからね。
ここには中国の儒教道徳が日本社会の中に強く根付いています。
さて、これらの罪を犯したらどうなるのでしょうか。その刑罰の種類が「五刑」です。
五刑とは、「笞」「杖」「徒」「流」「死」の5つの刑のことで、犯した犯罪の重さに応じてこれらの刑が与えられました。
「笞」とは竹のムチのことで、これで10回~50回、背中やお尻を叩きます。
「杖」は、ムチよりも太めの棒で60回~100回、背中やお尻を叩きます。
次の「徒」は、1年~3年の懲役刑のことで、牢屋に入れられます。犯した罪の重さによって、1年・1年半・2年・2年半・3年の5ランクがありました。
「流」は、島流しのことで、「遠いところ」「中ぐらいのところ」「近いところ」と、都からの距離で刑の重さを決めていました。当時は今と違って交通の整備が行き届いていませんから、一度島に流されてしまえば、もう二度と帰ってこられなくなってしまうので、島流しはかなり重たい刑罰なのですね。
そして、最後が「死」刑です。死刑の方法は、絞首刑と斬首刑に分かれていて、首を絞められるか、刀などで首をすぱっと切られるかで。「死」に至らしめられます。
この五刑とは別に、官人や僧侶など比較的身分の高い人に対して適用される閏刑という刑罰もありました。これは、罪を犯した際に、一般の人が五刑で罰せられるのに対し、それに代わる五刑より軽めの刑となっています。
さらに、有位者には刑が減免される規定があり、一定の金銭を支払えば刑が許されるということもありました。ただ、八虐の場合は減免されません。
このように、刑の中に身分差があったということもあわせて覚えておいてください。
国民全員に土地を与える!!
律令体制では、公地公民制を土台として考えていました。公地公民制とは、すべての土地とすべての人民は国家のものであるという考え方です。
この考え方に基づいて、土地制度は班田収授法がとられていました。班田収授というのは、6歳以上の人民に国家から口分田を分け与えるという制度です。
これを実行するために、国は戸籍と計帳を作成しました。
戸籍というのは、戸(家)ごとに、氏名・年齢・性別などをまとめた書類で、計帳というのが、調や庸といった税を徴収するための土地台帳です。
戸籍は6年に1回作成され、計帳のほうは毎年作成されました。そして、口分田は6年ごとに作成される戸籍に基づいて、6歳以上の国民全員に与えられ、6年ごとに亡くなった人の土地が国家に回収(収公)されました。
ただ、与えられる口分田の広さは性別や身分によって異なります。
まず、男性には2段の口分田が与えられました。そして、女性は男性の口分田の3分の2、奴隷身分の人は良民(一般の男性・女性)の3分の1が与えられました。
具体的な数値にすると、男性が2段=720歩、女性が1段120歩、賤民男性が240歩、賤民女性が160歩です。
土地は口分田による班給以外に、位階や官職に応じて与えられる位田・職田や、功労に応じて与えられる功田・賜田、神社や寺院に与えられる神田・寺田などのような形で分け与えられるケースもありました。
また、余った土地を1年間に限って貸す乗田もあり、これは収穫の5分の1を地子として政府に納めることが義務付けられていました。
これらの土地はすべて基本的には税金(租)を納めなければいけない輸租田でしたが、神田・寺田・職田などでは税金を納めることを免除された不輸租田となっていました。
この一部、不輸租田を認めていたことが公地公民制の徹底さを欠き、この後の時代で私有の土地である荘園が発生してしまうことにつながってしまいます。
確実に税金を徴収するぞ!!
戸籍と計帳に基づいて、国家が国民から税金をとる税制度も確立していきました。代表的な税は「租」「調」「庸」「雑徭」などがあります。その一つ一つを確認していきます。
まず「租」は、口分田に課せられた税で、田んぼ1段につき稲2束2把を納めることが義務付けられました。2束2把は稲の全体の収穫量の約3%程度であるといわれています。
「租」の大部分は国衙(今でいう都道府県庁)に納められ、大半は地方政治の財源として使われ、一部が都に送られました。
次に「調」と「庸」です。これらは地方ではなく中央政府に納める税で、主に都で働く人たちの人件費として使われました。「調」と「庸」を納める土地台帳として計帳が毎年作成されます。
「調」は、絹・糸・布などのその地方の特産物を納める税で、「庸」は年に10日間、都で労働する代わりに布を2丈6尺(約8m)、中央政府に納める税となっています。
「調」と「庸」を都まで運ぶ「運脚」も国民の負担となっていました。運脚はかなりの重労働だったらしく、途中で死んでしまう人も多くいたそうです。
ただ、この税負担は「租」と違って、年少者や年配の人には税の負担が軽減されるという措置が取られていました。
21歳~60歳の男性のことを「正丁」というのですが、正丁が納める税を「1」とすると、61歳~65歳の年長者(次丁/老丁)が納める税は、「調」「庸」とも正丁の半分(2分の1)で、17歳から20歳の年少者(中男/少丁)が納める税は、「調」が正丁の4分の1で、「庸」の負担はありませんでした。
また、「調」と「庸」は皇族・貴族・女性・奴婢などには課されず、奴婢や女性を多く抱える家にとって非常に有利な税制度となっていました。
続いて「雑徭」ですが、これは1年で60日以下の日数、地方で無償労働するという税です。地方の道路整備や修築などをおこないます。こちらも、次丁は正丁の2分の1、中男は正丁の4分の1という年齢による減税規定もありました。
このように戸籍や計帳に基づいて国民に税金を課すことで、中央政府でも地方でも財源の確保を確実にしていきました。
国家財政を潤すために、稲をたくさん貸し付けるぞ!!
これらの税とは別に、国家は別の形での財源確保も行っていました。
その一つが「出挙」です。これは春に稲を貸し付けて、秋の収穫の時期に5割の利子をつけて稲を返還させるというものです。
今でいう銀行のようなものですね。もともとは、春に食料の足りない農民たちの生活を維持するために豪族たちがかつておこなってきていたものを、国家が財源確保の目的で実施しました。
また、「義倉」といって、農業が不作になってしまった時に備えて、毎年国に粟を税として納めさせるということも行っていました。
民衆を兵隊として雇うぞ!!
さらに、国民には兵役の義務もありました。これもすべての国民に課されるという点で見ると税の一種です。この兵役は国民にとってかなり大きな負担でした。
兵士は正丁(成人男性)の中から3人に1人の割合で徴兵され、選ばれた兵士たちは各国に設置された軍団に配備されて、そこで10日交代で勤務しました。各団には最大で1000人までの兵士が所属していたそうです。
軍団に配備された兵士の一部は、皇居や都の警備を行う衛士として1年間上京して勤務したり、九州の大宰府の警備を行う防人として3年間勤務したりする人たちもいました。
こうした兵士になった人たちは、庸や雑徭といった税は免除されました。しかし、食料や武器は自分たちで調達することが原則であり、また農家では貴重な働き手が奪われることから、兵士が徴発された家は貧乏になって生活が苦しくなり、中には滅びてしまう家なんかもあったそうです。
防人に徴発された兵士の中にはその負担の重さに逃げ出してしまう人もいたらしく、その厳しさや過酷は尋常ではなかったのだなということがうかがえます。
身分制度を整えるぞ!!
この時代の人々は、みんな良民と賤民とに大きく分けられました。良民は、皇族・貴族(有位者)・公民・雑色に分けられて、貴族以上の人たちがこの時代の支配者階級となりました。
中央や地方の政治を担い重要な役職に就いていたのは、ほとんどが貴族以上の身分の人たちです。皇族は、天皇家の血筋を持つ人たちですね。
ただ、人口の大部分は非支配者階級の「公民」でした。彼らが国家から口分田を与えられて国家に対して税負担を負っていたのです。
その下の、良民の最下層である雑色は、手工業の技術で役人に仕えていました。
賤民は人口の約1割で、良民との結婚は禁じられ、独立した人格とは認められていませんでした。まさに奴隷のような身分です。
この賤民は全部で5つの種類に分かれていました。これを「五色の賤」といいます。こちらは入試にもよく出てくるのでしっかりと覚えておきましょう。
「五色の賤」は、陵戸・官戸・.公奴婢・私奴婢・家人の5つです。
まず、陵戸は天皇や皇族のお墓を守る賤民で、五色の賤の中では最も身分が高いです。官戸は政府の各役所に仕える賤民です。公奴婢は中央官庁の労働に使われる賤民でした。この3つが国家所有(官有)の賤民です。
私奴婢と家人は私有の賎民で、私奴婢のほうは売買の対象とされていて、家人は売買されず家族生活を営むことが許されていました。
これら5つの賤民のうち、官戸と公奴婢は口分田を良民と同じだけ与えられ、公奴婢は66歳以上になるとより身分の高い官戸に、さらにその官戸は76歳以上になると良民になることが許されました。
一方で、私有の賤民であった家人や私奴婢は良民の3分の1の口分田しか与えられませんでした。
中央の政治体制を整えるぞ!!
現在の政治体制でも、内閣があってその下に文部科学省・防衛省・経済産業省などの各省庁があるように、律令体制でも中央政治体制が整えられました
。律令体制での中央政治機構は「二官八省一台五衛府」です。
「二官」が太政官と神祇官、「八省」が中務省・式部省・治部省・民部省・兵部省・刑部省・大蔵省・宮内省、の8つ、「一台」が弾正台、「五衛府」が衛門府・左衛士府・右衛士府・左・右兵衛府の5つです。それぞれの仕事の特徴をみていきましょう。
まず、一般的な政治の最高官は太政官で、その長官は太政大臣です。今でいう内閣総理大臣のような地位ですね。
ただし、太政大臣は別名で「則闕の官」とも呼ばれ、適任者がいない場合は置かれない役職でした。
太政大臣の下には、左大臣と右大臣がいて、太政大臣がいない場合は左大臣が太政官の最高官職となりました。太政大臣・左大臣・右大臣は大納言が補佐していました。
太政大臣・左大臣など太政官の役職に任じられる者は、身分が三位以上の貴族と決められていて、彼らを総称して公卿と呼びます。
太政官はさらに左弁官・右弁官・少納言の3つの局に分かれ、実際の政務を担当する役職として、左弁官の下に中務省・式部省・治部省・民部省の4省が置かれ、右弁官の下に兵部省・刑部省・大蔵省・宮内省の4省が置かれました。
中務省は詔勅の作成を行います。式部省は分間の人事や儀式や大学の管理などを行います。治部省は仏事や外交を行います。民部省は民政や税に関する仕事を行います。兵部省はその字のごとく、軍事に関することを行います。
刑部省は、司法について取り扱います。大蔵省は国家の財政を管理します。そして宮内省は宮中の庶務を担います。
中務省と宮内省は間違えやすいので気を付けてください。中務省は天皇の公に関する仕事で、宮内省は天皇の私的なことに関する仕事を行います。
太政官と並んで置かれていたのが、神祇官です。神祇官は神的なこと祭祀を司ります。
神祇官が太政官と同じレベルで置かれていたというのは、この当時、神的な行事がかなり国家として重んじられていたということがうかがえます。
次に、一台五衛府の、弾正台・衛門府・左右衛士府・左右兵衛ですが、これらは現在の警察のような役割をする組織です。
一つずつ紹介していきますと、まず、弾正台は、京内の風俗の取締りと役人の監察をする役職です。次に、衛門府は、皇居の門の警備と、その前を通る人の検問をおこないます。門番のような役職ですね。
次に、衛士府は、国民から選ばれる衛士と共に、皇居内の警備と天皇のお出かけの際の護衛を行う役職です。こちらは左右の両京内に置かれました。
最後に、兵衛府は天皇やその家族の警備を行う役職です。こちらも、左右の両京内に置かれていました。
「二官八省一台五衛府」の中央行政組織はしっかりと覚えておきましょう。
地方の政治体制を整えるぞ!!
中央集権国家の形成のために、地方の行政組織も整えていきました。
地方は、五畿と七道にすべての地方が大別されて、その中に「陸奥」「近江」「下野」などといった国が設置されました。
五畿というのは、都や皇居から近い5つの国のことで、「大和」「山城」「摂津」「河内」「和泉」の五か国がこれに当たります。
そこを中心として7つの道である「七道」が日本全国に放射状にのびていました。七道は、「東海道」「東山道」「北陸道」「山陽道」「山陰道」「南海道」「西海道」です。
日本のすべての国が五畿七道の中に入り、都(天皇)を中心とする集権国家体制を築きあげていきました。
七道の中で、北陸道の越前に「愛発関」、東山道の美濃に「不破関」、東海道の伊勢に「鈴鹿関」、という関所(三関)が置かれ、畿内に入って来る人々の監視を強化していました。
五畿七道に設置された各国は、さらに細かく行政単位が、国・郡・里に分かれ、それぞれに長である「国司」「郡司」「里長」が選出されました。今でいえば、○○県・○○市・○○村の「県知事」「市長」「村長」みたいなものですね。
国は全国で約60か国置かれ、その中心地である国府には、現在の県庁や都庁のような、国に役所である国衙が設置されました。そして国の役人である国司は、中央から4~6年の任期で派遣されて各国の政治を行っていました。
郡のトップである郡司は、ヤマト政権時代の国造や地方豪族の人が任命され、彼らは死ぬまで終身官として働き、亡くなってからもその子が世襲的に郡司の職を受け継いでいきました。
里の長である里長は、農民の中から選出されました。里の下には5戸の家で構成される五保の制があり、農民たちは納税や防犯などで連帯責任を負っていました。また各戸は戸主を通じて支配されていました。
このような形で、中央政府は国司を介して、また国司は郡司や里長や戸主を通じて、日本全国のすべての人民を把握し、中央集権の支配体制を強化していったのです。
また、各国と中央との連絡のためには七道が使われていて、当時は馬を乗り継いで行き来していたため、七道の一定区間ごとに、馬の交換場所である「駅家」が設置されていました。
こうして中央と各地方の連絡も効率的に行っていたのですね。乗り継ぎのために、各駅家には、「伝馬」や「駅馬」と呼ばれる馬たちが待機していました。
重要な地方には重要な拠点を!!
地方の軍事的・政治的に重要な地域には、特別な行政組織が設置されました。こちらは3つ覚えておきましょう。
京に置かれた左・右京職、難波に置かれた摂津職、九州に置かれた大宰府です。
左・右京職は、京内の行政・司法・警察を司る役所です。摂津職が難波の統治を行いながら、難波宮の管理を行っていた役所です。
そして、特に重要であると考えられていたのが大宰府です。九州は外交にとっても防衛にとても重要な拠点でした。そのため大宰府は、都に次ぐ大切な地であるとして「遠の朝廷」とも呼ばれていました。
大宰府は、西国の統轄に加え、外交の施設を接待するための鴻臚館を設置したり、国防を強化するために、九州の警備を行う軍人である防人を配備したりしていました。
防人は、庸・雑徭に加え調税も免除されていましたが、その過酷さは想像を絶するほどで、『万葉集』の中には地元を離れて防人として勤務することに対する、別離の気持ち・望郷の気持ちなどを詠んだ防人歌がたくさん収録されています。
偉い人しか役職に就けない??
中央や地方の役職に就ける人物は、国家から官職や位階を与えられている人物に限られていて、またその位階は世襲制であったため、生まれつき将来偉くなれる人とそうでない人は決まっていました。生まれつき身分がはっきりしていたわけですね。
だいたい重職に就けるのは、かつてのヤマト政権時代から地方の豪族以上の地位にあった人たちだけで、彼らが国家から改めて位階を与えられることで、新たに「貴族」という身分になり、その身分は永久に保障されていきました。
ちなみに、位階は一品~少初位下まで、全部で30の位階があり、その中で五位以上の位を持つ者が「貴族」と呼ばれました。
中央や地方の各役職はその位階に応じて決まっていきました。これを官位相当制といいます。
つまりある特定の役職に就くためにはそれに見合うだけの位階がないとどんなに努力しても、がんばってもなれないということですね。
そして、位階はその子どもや孫にも世襲されていき、国の重要な役職は常に特定の貴族が代々受け継いでいくということになっていました。
具体的には、三位以上の子と孫、五位以上の子にはお父さんやおじいちゃんの位階に応じて一定の位階が与えられていて、これを蔭位の制といいます。親の七光がまぶしいぐらいに凄まじかったということですね。
さらに、各官職にはそれぞれ4人の人が任命され、その中でも身分差がありました。これを四等官制といいます。
現在の県知事や市長にあたる、国司や郡司も1人ではなく4人いたわけですね。
四等官のランク付けは、上から「カミ」「スケ」「ジョウ」「サカン」となっており、これが国司では「守(カミ)」「介(スケ)」「掾(ジョウ)」「目(サカン)」、郡司は「大領(カミ)」「少領(スケ)」「主政(ジョウ)」「主帳(サカン)」、各省は「卿(カミ)」「輔(スケ)」「丞(ジョウ)」「録(サカン)」、大宰府は「帥(カミ)」「弐(スケ)」「監(ジョウ)」「典(サカン)」に分かれています。
読み方は全部一緒だけど、あてる漢字がそれぞれ違っています。確認しておいてください。中央と中央の官庁はすべてこの4等級で構成されていました。
まとめ
大宝律令の制定により、日本は国家としての形がはっきりと決まっていきました。この律令を土台に、これから長きにわたって日本の政治が行われていくことになります。
ここの内容はとても大切なところなので何度も復習をしておいてください。
次回は、奈良時代へと向かっていく日本の様子と対外関係についてみていきたいと思います。
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参考
- 安藤達朗『いっきに学び直す日本史 古代・中世・近世 教養編』,東洋経済新報社,2016, p71-p81
- 『詳説 日本史B』山川出版社,2017 ,p41-p44
- 向井啓二『体系的・網羅的 一冊で学ぶ日本の歴史』,ベレ出版,p68 –p78
- いらすとや