日本史を楽しく復習しよう!大宝律令制定後の日本[平城京・和同開珎]

大宝律令制定後の日本は…

大宝律令が制定されて、日本は天皇を中心とする集権国家という、当時の近代的な国家を形成していきました。それが完成したのが文武天皇の時代でしたね。

さて、文武天皇の後、律令体制が整った日本はどのような国家築いていくことになるのか。ここからはその様子についてみていきたいと思います。

なんと大きな平城京

文武天皇の時代は、刑部親王や藤原不比等を側近として政治を行い、念願の律令体制を整えることに成功したわけですが、しかし、8世紀の初めごろから国内では飢饉が起こり、感染病も流行し始めていました。

そのような中で文武天皇は、当時の感染病にかかり、亡くなってしまいました。この後の時代を継いだのが、文武天皇のお母さんである元明天皇でした。

元明天皇は息子が病気で亡くなったことにショックを受け、また世の中が飢饉や疫病で混乱している状況を打開するために、都を藤原京から奈良盆地の北部に移動することを決定いたします。

そうして、710年に元明天皇によって都が藤原京から平城京に移されました。ここから、天皇7代、約70年間にわたって、平城京で政治が行われるようになります。

710年の平城京遷都から794年に平安京に再び都が移されるまでの時代を、「奈良時代」といいます。

中国をまねして築き上げた、なんと大きな平城京

 

Wikipediaより引用)

平城京は、中国(唐)の首都・長安を模倣してつくられた都で、囲碁のような碁盤の目状に東西・南北に道路が走っている「条坊制」と呼ばれる都のつくりになっています。

大きさは、南北約4.7km、東西約4.2kmに及ぶ大規模な都で、人口10万人を収容する巨大都市です。

平城京の内部構造をくわしくみていきますと、まず平城京の中央に南北に走る、「朱雀大路」というメインストリートがあり、そこを境にして、「左京」と「右京」に分かれます。

ちなみに、天皇がお住まいになる、平城京の一番奥にある「平城宮」から見て左側が「左京」、右側が「右京」といいます。平城宮を北側にした図で見ると、左と右が反対に見えますので気を付けてください。

「左京」と「右京」にはそれぞれ東西の道路が9条と、南北の道路が4坊に分かれています。その中のそれぞれに、貴族の住まいや飛鳥から移された多くの寺院が配置されています。これが「条坊制」と呼ばれるつくりです。

さらに「左京」と「右京」では、それぞれでショッピングも行われていたようで、東西に商品の売買を行う「市」も発達していました。

そして、この「市」を管理するために、「左京」と「右京」のそれぞれに「市司」と呼ばれる監督者が置かれました。また、「左京」「右京」にはそれぞれで行政・司法・警察権を担う「京職」と呼ばれる行政機関も置かれていました。

天皇が政治をおこなう「平城宮」の内部をさらに見ていきますと、天皇のプライベートの生活の場である「内裏」や、朝廷が国家的な儀式を行う「大極殿」、天皇が早朝の政務や国家儀礼をおこなう「朝堂院」などから成っていました。

天皇は平城京北部の平城宮にいて、そこで政務や私事に努め、国家の統治者として君臨していました。

平城京のように、天皇が北側を背後にして南を向き、国家の統治を行っていくような構図を「天子南面」といいます。平城京では「天子南面」の構図で、天皇が政治の中心的な存在であるということを形式的にも整えていきました。

巨大都市平城京でお金を使った経済がはじまる!!

 

経済というのは、モノの売買が行われたり、お金の流通が行われたりすることを言うわけですが、これは交通が整備されること、産業が発達すること、それに伴い都市が発達し人口が一か所に大量に集まってくることによって発展します。

律令体制が整えられたこの時代は、五畿七道と呼ばれる道が整備され、それらの道を円滑に移動していくために、各地に駅家を設ける駅馬・伝馬制が整えられたことによって、交通が発達しました。

また、平城京内に住む朝廷や貴族の人たちが工房を持ち、その中に技術者を雇いいれ手工業生産を行っていたこともあって、産業も発達していきました。

そして全国各地からは、布や糸などの物資が京内に集まってきました。このようにして平城京内では経済がかなり活発におこなわれていました。

だから、平城京ではこれをしっかりと管理するために左京と右京のそれぞれに「市」が設けられ、これを監督する「市司」が置かれていたわけですね。

さて、経済が発展すると、それを取引するための媒介物が必要になります。今でいえば、お札や硬貨といったものですね。人間が誕生して間もないころまでは、経済取引の間に入る物資はなく、基本的に物々交換で成り立っていた時代もありました。

しかし、経済活動が活発化してくればくるほど、物々交換は限界に達していきますね。欲しいものがあっても、自分の持っているものを欲しがってくれる人と出ないとそれを交換することができないわけですから、どうしても物々交換では円滑な経済活動を阻害してしまいます。

そこで誕生してくるのが「お金」というわけですね。

平城京内で経済活動が活発化してくると、少しずつ「お金」の流通も生まれてくるようになりました。

日本最古の貨幣は、天武天皇の時代に鋳造された「富本銭」と呼ばれる銅銭だといわれていまして、こちらは藤原京の時代に用いられていました。ただ、富本銭は流通貨幣として実際に用いられていたかどうかは定かではありません。

平城京の初期の時代に使われていた貨幣は、平城京遷都の2年前の708年(和銅元年)に発行された「和同開珎」であると考えられています。年号の「和銅」と、貨幣の名前の「和同」はちょっと字が違いますから気を付けてくださいね。

和同開珎は元明天皇の時代に武蔵国の秩父郡(現在の埼玉県)から銅が献上され、その銅を用いて鋳造されました。そして武蔵国から銅が産出したことを祝して年号も「和銅」と改められたそうです。

しかし、当時はまだ「貨幣」とはどんなものなのかという認識が国民の中にはなく、なかなか円滑に「和同開珎」は流通していかなかったそうです。

よく考えてみればそれはそうです。そもそも今私たちが使っているお金も、考えてみればただの「紙きれ」にすぎないわけですし、ただの金属で作られた「コイン」でしかないわけです。

それがなぜ価値のあるものとして日本全国で通用しているのかと言えば、それは日本中のすべての人が「貨幣(お金)は価値のあるものだ」と信じているからです。

こういうのを「共同幻想」というのですが、つまりお金というのもそれを使用する全員が価値あるものとして認識していなければ、そもそもそれ自体は全くの無価値なものであるわけですね。

そういったわけで、「和同開珎」がつくられ始めた当初は、「本当にそんなものに価値があるのか」と疑いの念を持つ人が多かったことでしょう。疑念がある以上、その貨幣はなかなか価値あるものとして経済の中で流通していきません。

そこで、当時の政府は「和同開珎」の流通を円滑にしていくために、711年に蓄銭叙位令という法令を出しました。これは、お金をたくさん集めて持っている人には、それに見合った高い位を授けるという内容の法令です。

すなわち、「位をもらえる」という価値あるものに、「貨幣価値」を裏付けたわけですね。これによって政府は、人々に、「お金は価値のあるものなのだ」という認識をもってもらい、貨幣流通を円滑にしようとしたわけです。

しかし実際には、蓄銭叙位令は貨幣流通にはあまり効果がなかったそうです。それはそうですね。お金というのは、使って流通させていくことがその目的なのに、「位をもらえるならお金を貯めておこう」と、貯金する人が多くなってしまって結局お金が世の中で流通しなくなってしまうわけですからね。

しかし、「お金」というものが、どんな意味にせよ「価値のあるものなのだ」という認識は少しずつ国民の中に植え付けられていったようで、この後、平安時代中期までの250年間の間に全部で12個の貨幣が朝廷によって作成されました。これを皇朝十二銭といいます。

しかし、これらの貨幣は時代が経つごとに、材料の不足などによってだんだん形が小さくなり、人々の貨幣に対する信用力も落ちていって、貨幣流通がどんどん縮小していってしまったそうです。

実際に今の私たちのように全国で通用する貨幣が作成されるようになるのは、鎌倉時代以降になってからになります。

さて、皇朝十二銭の12個の貨幣の名前を、覚えられる人は覚えておきましょう。

まず、「和同開珎(708年)」から始まり、「万年通宝(760年)」「神功開宝(765年)」「隆平永宝(796年)」「富寿神宝(818年)」「承和昌宝(835年)」「長年大宝(848年)」「饒益神宝(859年)」「貞観永宝(870年)」「寛平大宝(890年)」「延喜通宝(907年)」「乾元大宝(958年)」の12個です。

最後の「乾元大宝」が村上天皇の時代に鋳造されたということはよく試験にも出てきますので、全部覚えるのが大変な人はそこだけ覚えておきましょう。

ただこれらの貨幣は全国では流通せず、基本的には畿内周辺の地域のみで使用されていたようです。

命をかけた遣唐使たちの果たした役割とは

 

平城京の建造も和同開珎の鋳造も、中国(唐)をモデルとしておこなったもので、唐に遣唐使を派遣して唐から様々な文化や学問を学ぼうという風潮が非常に高まっていました。

ここではその遣唐使の派遣の歴史を少し確認しながらみていきましょう。

遣唐使は630年に犬上御田鍬が派遣されたのが最初でした。そこから894年に菅原道真によって停止されるまで、16回にわたって遣唐使が派遣されたそうです。

しかし、遣唐使として中国に渡ることは非常な危険を伴っていました。当時はまだ風や海流に関する知識にも乏しくて、しばしば船が難破して、そのまま行方がわからなくなったり、死んでしまったりする人も多かったそうです。

遣唐使として派遣されそのまま日本に帰ってくることなく亡くなってしまうことを「客死」といいますが、そのような人が数多くいたのです。

そのため政府は派遣した船が唐に渡れない、あるいは日本に帰ってこられない、というリスクを分散するために、1回の派遣に船を4隻派遣し、遣使を分乗させていました。ここから遣唐使を俗に「四つの船」といったりします。

遣唐使派遣の初期のころは、日本から唐に渡るために、壱岐・対馬から朝鮮半島の西岸を北上して黄海から唐(中国)の山東半島に入っていく「北路」が利用されていました。

しかし、663年の白村江の戦い以降、新羅が朝鮮半島を統一し、その新羅と日本とのそりが合わず、関係が悪化してくると、しだいに朝鮮半島を経由して唐に渡ることができなくなり、九州を南下して現在の沖縄の諸島を経由して唐(中国)に入る「南東路」や、九州から直接東シナ海を横断して唐(中国)に入る「南路」が用いられるようになりました。

大きな半島を経由できない分、船での遭難リスクがさらに高まり、より危険な航路となってしまったようです。それでも日本が唐に渡っていったのは、それだけ、当時の先進的な国家である唐からなんとしてでも、文化や政治などを全て学びたいといった意欲からであったのだろうと思います。

結果的に最終的に菅原道真によって遣唐使派遣が停止するのは、唐が衰退して滅亡の危機に瀕し、「もう中国からは何も学ぶものはない」といった段階になったことがきっかけでした。

日本人の中には命をかけてでも最高峰の文化は積極的に学んでいこうとする気概があるのだなということをここから私は強く感じます。

16回にわたる遣使で多くに日本人が唐に渡っていったわけですが、その中でも有名な人物を覚えておきましょう。

まずは、最初の遣唐使として派遣された犬上御田鍬。彼は最後の遣隋使でもある人ですね。

そして奈良時代の政治を支えた、唐に渡った留学生として覚えておいてほしいのが、阿倍仲麻呂・吉備真備・玄昉の三人です。

彼らは717年の第9回遣唐使として派遣された人物たちです。まず阿倍仲麻呂ですが、彼はあまりの能力の高さで、唐にわたるやいなや、当時の唐の皇帝であった玄宗に重用され、さらには中国の詩人としても有名な、李白や王維とも深い親交があったそうです。

彼はそのまま日本に帰ることなく唐の長安で亡くなりました。しかし、当時の日本人が先進国である中国の皇帝に仕えていたというのは非常に誇り高きことですね。

「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」

(大空をはるか遠く見ると、美しい月が見える。むかし私が眺めた、春日にある三笠山に出た月も、今夜の月と同じだったなぁ)

百人一首の一つに撰ばれているこの一句は、仲麻呂の、異郷(唐)の地から故郷を思う気持ちが詠まれています。

吉備真備と玄宗は、唐で多くの先進的な文化を学び、それを日本に持ち帰り、日本に帰国後、聖武天皇に厚く重用され、政治の相談役のような存在として活躍しました。

また、平安時代に入ると最澄・空海・円仁・円珍といったお坊さんたちが遣唐使として唐に渡り、そこで仏教を学び、日本に真言宗・天台宗といった新しい仏教の宗派ももたらしました。

そのほか、遣唐使とは逆に、唐から渡ってきて日本に仏教の戒律を伝えてくれた人物として鑑真もおさえておいてくださいね。

日本が先進的な国家体制を整えて、高度な文化を築き上げるにあたって、遣唐使たちは非常に大きな役割を果たしました。

私たちは、命がけで海を渡り、先進的な文化を積極的に学び、「日本」という国家の形を作り上げる役割を果たしてくれた遣唐使たちに、感謝しなければいけませんね。

東アジアの国との交流

白村江の戦い以降、日本は朝鮮半島の国との関係をあまり持たなくなり、朝鮮半島を統一した新羅とは関係が悪化している状況であったが、それに代わって日本が中国(唐)と共に良好な関係性を持っていた東アジアの国がありました。

それが、現在の東北地方の満州地域に存在していた渤海です。

渤海は7世紀にツングース族によって建国された国家で、当時の東アジアの二大勢力であった唐や新羅に対抗していくために、727年に日本に朝貢してきました。

そこから、日本と渤海との交流が始まり、渤海は契丹に滅ぼされる926年までの200年間に34回の使節を派遣してきました。

日本側は日本にやってくる渤海使たちを接待するために、敦賀や能登に、松原客館能登客館といった施設を設けました。

渤海と日本との貿易では、渤海からは毛皮・ニンジン・はちみつなどがもたらされ、日本からは絹・綿・糸などがもたらされました。

まとめ

日本は遣唐使の派遣を通じて、中国の唐から多くに文化や政治体制を学び、それを律令の様々な制度や平城京の建設、日常生活の文化などに取り入れられていきました。

まさに、平城京時代の日本社会の形成は遣唐使が成し遂げた成果だと言っても過言ではないかもしれません。

また、中央集権国家を築き上げていく中で、東アジアの中でも少しずつ重要な地位を占めるようになっていき、それが渤海との深い交流の歴史につながっていきました。

さて、平城京の遷都から新しく奈良時代が始まりました。

奈良時代はいったいどのような政治が行われていくことになるのか。その具体的な歴史を、当時の為政者に焦点を当てながら、次の章ではみていきたいと思います。

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