日本史を楽しく復習しよう!「弘仁・貞観文化」について[平安時代・空海・最澄]

仏教勢力を一掃した後の平安文化

この章では、平安時代初期の文化についてみていきます。以前にもお話ししましたが、文化というのはその時代の背景が強く反映されます。

例えば、奈良時代の天平文化では、天災や疫病などで非常に荒れた世の中で、なんとか仏の力で鎮めていきたいとの思いが強く、仏教芸術が数多く誕生したり、大仏が造立されたり、仏像の大量製作が行われたりしていたわけです。

さて、時代は変わって平安時代。そもそも平安時代のはじまりは、桓武天皇は平安京に都を移した時でした。

そして、桓武天皇が都を平安京に移した理由は、奈良時代に強くなりすぎていた仏教勢力を一掃するためというのが、その一つでした。

つまり、平安時代になると、それまでの仏教勢力が時代の表舞台から姿を消していくわけです。

さあ、そんな時代の中で、平安時代初期にはどんな文化が誕生していくのでしょうか。当時の時代背景と照らし合わせていきながら、その一つ一つをみていきたいと思います。

弘仁・貞観文化ってどんな文化??

平安時代初期の文化、特に平安京の遷都から9世紀末ごろまでの文化を、弘仁・貞観文化と言います。この時代の中心は、嵯峨天皇と清和天皇の時代で、彼らの時代の年号をとって、「弘仁・貞観」という名前がついています。

この時代の背景を確認しておきますと、まず平安京の遷都にともなって、奈良時代までに隆盛していた仏教勢力が衰退していきました。しかし、衰退していったから仏教の影響がまったくなくなったのかというとそうではありません。

当時の為政者であった、桓武天皇や嵯峨天皇は、奈良時代に隆盛した仏教に代わる、新しい仏教を支持するようになりました。

その新しい仏教のことを、「密教」といいます。

この時代に「密教」として中国から伝わったものが2つあります。これは、もう小学校や中学校でもやったから、きっとみなさんご存じですね。

それが、真言宗天台宗です。それぞれ、誰が中国から伝えたのかも覚えていますか。そうです、真言宗空海天台宗最澄でしたね。

「真空・天才」ときっとみなさん覚えたと思います。

この真言宗天台宗が時代の中心の宗教となりました。ちなみに、「密教」というのは文字通り「秘密の教え」で、しっかりと修行を積み、儀式を行い、瞑想を行っている僧でなければ、決して悟ることのできない「万人には開かれていない」教えだぞという意味です。

一方で、経典などによってすべての信者に開かれている密教に対する教えのことを「顕教」といいます。

というわけで、弘仁・貞観文化のまず一つのバックグラウンドとしては、奈良仏教が平安京遷都によって都の外に追いやられた。その結果、新しい仏教である「密教」が隆盛したというところです。

次に、時代のバックグラウンドの2つ目としては、こちらは飛鳥時代・奈良時代と同様に、やはり遣唐使の派遣により、中国(唐)の文化の影響が非常に強く残っているということがあります。

そのため、この時代の学問も、また芸術も、唐の文化の影響を強く受けたものが数多く残されています。

密教と②唐風文化。この2つのキーワードを頭に入れた上で、ここから細かく「弘仁・貞観」時代の文化を一つ一つ確認していきましょう。

秘密の教えをみんなに公開した、空海さんと最澄さん!!

  弘仁・貞観文化の時代に隆盛した仏教が、真言宗天台宗でした。

これらの仏教は、密教と呼ばれ、奈良仏教のような国家仏教としてではなく、国家仏教から離れて独自に発達していきました。

では、真言宗天台宗の2つの宗派を一つずつみていきます。

まず、真言宗空海によって伝えられました。空海は、讃岐(現香川県)出身のお坊さんで、804年に中国に渡って密教を学びました。

その後、帰国した空海は、嵯峨天皇から教王護国寺を賜り、また紀伊国(現和歌山県)の高野山に金剛峰寺を建立し、そこを真言密教の根本道場にして、諸国を遊行しながら真言宗の布教活動に努め、世の中に真言宗を広めていきました。

彼は、「三密と呼ばれる密教の神秘的な業を行えば、真言宗の最高位の仏である大日如来と一体化して即身成仏することができる」と人々に説いていき、平安時代初期の社会に真言宗を浸透させていきました。

空海がすごいのは、真言宗を世に広めるだけの影響力と実行力を持ち合わせていたところだと私は思っています。彼は仏教界での活躍だけにとどまらず、教育界においても、文化界においても多大な影響力を持つ人でした。

空海は民衆のために広く開かれた教育の場である、綜芸種智院という私立の学校を日本で初めてつくった人物としても有名です。ま

た、「弘法にも筆の誤り」「弘法筆を選ばず」といったことわざが、現代でも存在するほど、空海は筆の才能があったことでも有名です。ちなみに弘法というのは、空海のことですよ。

空海は死後、「弘法大師」という諡号が与えられました。空海はその字のうまさから、当時最も書道に優れていた3人の人物の中の一人に選ばれています。

ちなみに、書道のうまいその3人の人物は「空海・嵯峨天皇・橘逸勢」のことで、彼らは3人合わせて「三筆」と呼ばれています。

一般民衆のために学校をつくるとか、美しい文字で人々の心を動かすとか、これは空海自身に、「なんとか一般民衆に広く教育の場を与えて、一人でも多く学問によって救われる人がいてほしいんだ」とか、「なんとか自分が学んできた密教を人々に伝えてそれを全国に広めていきたいんだ」とかそうした強い信念があったからなのではないかと私は思います。

「書は人なり」とよく言いますが、まさにその字のきれいさ・美しさがその人の人柄をあらわします。空海はおそらく、相当な強く高い信念の持ち主で、それを文字の力によって、教育の力によって、密教の力によって、人々に伝え強い影響を与え続けていった人なのではないかなと私は思っています。

そんなわけで、空海が唐から伝えた真言宗弘仁・貞観時代(平安時代初期)において、奈良仏教に代わる大きな精神的支柱として台頭していくようになりました。

次に天台宗ですが、こちらは最澄によって唐から日本に伝えられました。最澄空海と同様に、804年に中国(唐)に渡りまして、そこで天台宗を学びました。

そして帰国後に、現在の滋賀県に比叡山延暦寺を建て、日本で天台宗を開きました。しかし、空海が開いた真言宗密教化して世の中でさかんになる一方で、天台宗はあまり隆盛しませんでした。

そこで、最澄の弟子の円仁が838年に、円珍が853年に、中国(唐)に天台宗を学びにいき、そこで天台宗密教を学び、帰国後、天台密教を広めていったところから、天台宗も栄えるようになりました。

天台宗密教のことを「台密」といいます。一方真言宗密教は「東密」といいますよ。天台宗密教化してさかんにさせたのは、最澄ではなく、弟子の円仁や円珍であったのですね。

のちに、円仁と円珍は対立を深め、天台宗は円仁の「山門(延暦寺)派」と、円珍の「寺門(園城寺)派」に分裂します。

さて、ここで一度復習しておきましょう。真言宗を開いたのが空海天台宗を開いたのが最澄で、それを密教化させて世の中で隆盛させたのが円仁や円珍です。

彼らの功績や思想が書かれている書物も重要なのでついでに覚えておきましょう。

まず空海から。空海は、『三教指帰』『十住心論』『性霊集』『文鏡秘府論』などの著書があります。

『三教指帰』は、儒教・仏教・銅鏡の3つの宗教の優劣について論じ、仏教がいかに優れているかについて書かれている書物です。

『十住心論』は真言密教こそが全ての仏教をとりまとめている宗派であって、仏教の最高峰の教えであるということを説いた書物です。

つまり、空海はこの2冊で真言宗のすばらしさや偉大さを説いたのですね。

『性霊集』は空海がつくった詩がたくさんのっている詩集です。

文鏡秘府論』は中国の詩集を集めてそれを空海が評論した書物です。真言密教と漢詩に長けていた空海ならではの書物たちですね。

また、空海から最澄に渡したといわれている『風信帖』と呼ばれるお手紙も現存しています。こ

こには、美しく心のこもった空海の、三筆の実力をまざまざと見て、感じ取ることができるような達筆な文字が書かれています。

次に、最澄が著した書物の代表的なものには『山家学生式』と『顕戒論』があります。

『山家学生式』は、山にこもって厳しく修行することの必要性を説いた書物で、『顕戒論』は、大乗戒壇の設置の必要性を強く説いた書物です。

大乗戒壇とは、それまで出家するためには、奈良の東大寺・筑紫の観世音寺・下野の薬師寺の天下の三戒壇とよばれる3つの戒壇で受戒しなければならなかったのを、最澄は「これは数少ない限られた人しか受戒できないじゃないか」と批判し、多くの人たちが受戒できて救済されるようにならなければならないとの思いから、強く設置を願っていた戒壇のことです。

大乗戒壇は、最澄の死後の822年に設置が認められるようになりました。

次に、弟子の円仁が著した書物です。円仁は『入湯求法巡礼記』という、中国(唐)に渡って日本に帰国するまでの、中国で得た多くの学びや見聞を記した書物を著しています。

ここから当時の中国の仏教の歴史なども読み取ることでき、それが日本に伝わって天台密教にどのような影響をもたらしたのかを読み解くことができます。

これらの書物、しっかりと確認して、覚えておきましょう。

真言宗天台宗はともに、加持祈祷という密教の呪文を神仏にとなえることによって、病気や災難を取り除き、現世を平安に生きることができるということを説き、それが皇族や貴族たちの心をつかみ、彼らたちによって強い支持を得るようになりました。

まさに、空海・最澄・円仁・円珍の強い発信力と当時の災いが多い時代背景があいまって、真言宗・天台宗という2大密教が大きく発展していったわけです。

ちなみに、真言宗天台宗などの平安時代の仏教は、俗世間を離れて山の奥深くにこもって修行をすることが多かったため、山岳仏教とも呼ばれたりします。

山岳仏教はもともと存在していた山岳信仰とも結びついて、この時代に修験道と呼ばれる信仰も生まれるようになりました。

修験道とは、山に登ってそこで修行を積み、呪力を体得していくという実践的な信仰のことです。この聖地として奈良県吉野の大峰山や北陸の白山がありました。

漢字をよく知っている人がエリートさ!!

弘仁・貞観文化もやはり中国の文化の影響を強く受けており、そのため特に漢詩の文化は天平文化と同様に非常に重んじられました。

漢字を巧みに使えることが教養であり、頭のいいエリートたちの最高峰の遊びだったわけですね。また、国家も漢文の力で国家の発展を目指していこうという「文章経国」のキャンペーンを大々的に行っていました。

そういった時代背景もありまして、この時代にはたくさんの漢詩集が完成します。代表的な漢詩集をいくつか覚えておきましょう。

まず、日本初の勅撰漢詩集で小野岑守らが編纂した『凌雲集』。こちらは、嵯峨天皇の詔勅によってつくられました。

次に、こちらも嵯峨天皇の詔勅により成立した藤原冬嗣らによってつくられた勅撰漢詩集である『文化秀麗集』。

次に、827年に淳和天皇の詔勅で良岑安世らによってつくられた『経国集』。それに加えて、空海の漢詩文集である『性霊集』と、菅原道真が自分の漢詩の作品を集めて発表した漢詩集である『菅家文草』もおさえておきましょう。

このように、たくさんの漢詩集が完成し、それほど皇族や貴族の間で漢詩の文化が非常に重んじられていたことがうかがえます。

学問のほうも、中国(唐)の影響を受けていて、儒教を学ぶ明経道や、中国の歴史や文学を学ぶ紀伝道が特にさかんになって、貴族の子弟たちのための学校である大学で学ばれていました。

さらに、漢詩文が流行してくると、漢詩の文章を書く学問である文章道も重んじられるようになっていきました。

こうした学問は、平安時代初期になってから、より専門性を高めていこうとする動きが高まってきて、学問の家学化が進められるようになります。

つまり、現代で言うなら○○大学は、法学が強い。△△大学は、経済学部が強い、みたいな感じで、貴族の家ごとに学校をつくって、そこでそれぞれが専門的な学問を研究していくようになるのですね。

そんなわけで、菅原氏は文章道を、明経道は清原氏、医学は和気氏のように、学問が家学化していきます。さらに、有力貴族たちは、学問を高め研究していくために、大学別曹とよばれる独自の学問所を設置するようになります。

有名な大学別曹を覚えておきましょう。

藤原氏の大学別曹が勧学院、橘氏の大学別曹が学館院、和気氏の大学別曹が弘文院、在原氏の大学別曹が奨学院です。

学生たちはここに寄宿しながら学んで、学費の支給も受けていたそうです。しかし、これは貴族の子弟だけに限られている特権的な教育でして、それを一般民衆にも開かれた形にしたのが空海綜芸種智院であったわけですね。

綜芸種智院は日本初の庶民教育のための私立学校ですので、ぜひ覚えておいてくださいね。

弘仁天平文化の寺院と芸術作品を鑑賞していこう!!

天台宗真言宗が隆盛したことによって、新しく密教の寺院ができたり、密教の世界観を表現した密教芸術とよばれる神秘的な仏教芸術が誕生するようになります。

ここから、密教芸術の作品をひとつずつみていきましょう。

建築

  1. 室生寺金堂
    室生寺は奈良県にある真言宗のお寺です。このお寺は女の人が参拝することを禁じていた高野山の金剛峯寺に対して、女性の参詣を認めていたため、女人高野という別名があります。ここの金堂には、いくつかの仏像が安置されています。

彫刻

  1. 薬師寺僧形八幡神像
    僧形八幡神とは、神様でありながら、髪の毛を切って(剃髪して)、袈裟を着ている仏像で、当時の神仏習合思想が強く反映されている仏像です。

    神仏習合というのは、奈良時代から生まれた思想で、神道と仏教という全く別の思想を一体化して両方の思想の折り合いをつけるために、神様が仏様の化身であり、仏さまが日本人を救うために神様になったのだという理論のもとに誕生した思想です。

    この神仏習合思想が目に見える形となって現れたのが、僧形八幡神というわけです。僧形八幡神は、左手に数珠を持ち、右手には錫杖(しゃくじょう)と呼ばれる杖を持っているのが特徴です。

  2. 神護寺薬師如来像
    神護寺は、平安京の造営に尽力した和気清麻呂が、河内に造った神願寺と、京都に造った高尾山寺が合併してできたお寺です。ここに空海が移り住み、神護寺は真言密教の道場として真言宗のお寺になりました。

    このお寺の本尊で金堂に安置されている薬師如来像は、高さ約170センチメートルで、一本の木材からつくりあげた一木造の仏像になっています。

  3. 元興寺薬師如来像
    元興寺は、もともとは日本最古のお寺である飛鳥寺という名称でしたが、平城京の遷都の際に元興寺に改称しました。このお寺の本尊である薬師如来像は、平安時代の初期に造られました。

    この薬師如来像も、ヒノキの一木造の仏像となっています。

  4. 室生寺金堂釈迦如来像
    室生寺の金堂には、仏教の開祖者であるお釈迦様が悟りを開いて仏になった姿である、釈迦如来像が安置されています。こちらも、一木造の仏像です。
  5. 観心寺如意輪観音像
    観心寺は現在の大阪府河内長野にある真言宗のお寺です。ここは空海の弟子たちが創建したと伝えられているお寺です。

    ここに安置されている如意輪観音像は、如意宝珠と輪宝という2つ道具を持った観音様です。如意宝珠というのは、思いのままに幸せをもたらすといわれている玉のことです。輪宝というのは、煩悩を打ち砕くといわれている車輪の形をした輪です。

    すなわち、人々の煩悩を打ち砕き、人々に幸せをもたらしてくれる仏像が如意輪観音像というわけですね。

  6. 教王護国寺講堂不動明王像
    教王護国寺は平安京の造営と同時に、国家鎮護のためにつくられたお寺で、823年に嵯峨天皇の命により空海に与えられ、真言宗の道場となりました。この教王護国寺の講堂に不動明王が安置されています。

    不動明王は密教のトップの仏様である大日如来の使者として、悪を怒りの形相で排除します。その名のごとく、動かない守護神として、人々を悪から守ります。

  7. 法華寺十一面観音像
    法華寺の十一面観音像は、頭の上に11の顔を持つ観音様で、光明皇后の化身であるともいわれています。

    十一面観音像は、その頭の上にある11つの顔で、360度のあらゆる方向でおこる災厄すべてから人々の身を守ってくれます。

  8. 新薬師寺薬師如来像
    新薬師寺は747年に、光明子が聖武天皇の眼の病気が治るように行基に建立させた寺院だと伝えられています。ここの堂の中央に、ご本尊である薬師如来像がどっしり座っています。

絵画

  1. 両界曼荼羅
    両界曼荼羅というのは、真言宗の教えや真理を表現した絵画です。両界というのは、金剛界と胎蔵界という、密教の最高位にいる大日如来様が存在する2つの世界が描かれている作品です。

    ちなみに金剛界というのは「智慧」の世界、胎蔵界というのは「慈悲」の世界だそうです。この曼荼羅は、教王護国寺と神護寺のものが有名です。

  2. 青蓮院不動明王二童子像
    大日如来の化身ともいわれている不動明王と、その右側に立つ矜迦羅童子(こんがらどうじ)と左側に立つ制叱迦童子(せいたかどうじ)の2体の菩薩が並んでいる仏教画で、ここに描かれている不動明王の全身が青色のため、別名子の絵画は「青不動」とも呼ばれています。
  3. 園城寺不動明王像
    こちらも大日如来の化身である不動明王が描かれています。園城寺の不動明王は全身が黄色で彩色されているため、別名「黄不動」とも呼ばれています。
  4. 西大寺十二天像
    十二天というのは、密教界における方位のことで、十二天のあらゆる方位を守る役割を果たすのが十二天像です。全部で12体の神々が並び立っています。西大寺のものは日本でも最も早くに作られた十二天像の作品です。

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参考