日本史を楽しく復習しよう!「天平文化」について[奈良時代・仏教芸術]

不安な世の中で発展する奈良時代の文化!!

 

奈良時代は、飢饉や疫病などの災害が頻繁に起こり、また政権内部でも争いの非常に激しかった時代でしたね。そのような時代の中で、どのような文化が形成されていったのかというところをこの章では見ていきたいと思います。

だいたい、平和な時代であれば平和な時代を象徴するかのような文化が形成されていきます。

現代日本でも、韓流ブームで韓国のドラマやアーティストが大注目を浴びるのも、Youtubeや様々な動画サービスなど娯楽が発展しているのも、今が平和な時代であるからゆえなのです。

しかし、奈良時代は非常に荒れた時代でした。荒れた時代の中で発展する文化はどのようなものなのでしょうか。そのような視点で、奈良時代の文化をここから見ていきたいと思います。

世の中を平安にの願いを込めた天平文化!!

奈良時代の文化のことを「天平文化」といいます。これは、奈良時代の中心的な人物である聖武天皇が、この時代の年号を「天平」と定めたところからきています。

聖武天皇といえば、相次ぐ飢饉や疫病に心を痛め、さらにそれに追い打ちをかけるように藤原広嗣の乱が起こり、なんとかこの悪い流れを祓いたいと、都と転々として、国分寺や東大寺の大仏の造立を行った天皇でした。

彼ほど、世の中が平安になることを願っていた天皇はいなかったかもしれません。その思いが、「天平」という元号にも表れています。

そんな奈良時代の「天平」の時代に形成されていった「天平文化」というのは、その字のごとく、天下が平穏になることを願って築き上げられた文化であり、それを実現していくために、今まで以上により一層仏教の力に身を任せるようになった文化でもあります。

そのため、天平文化では、これまでの文化に比べてさらに仏教色の強い文化となっています。

では、具体的に世の中を平穏にしていくためにどのような文化が築き上げられていったのでしょうか。それらを一つずつ見ていきたいと思います。

「天皇がえらくてすばらしいんだぞー」っていうストーリーをつくる!!

710年に大宝律令が制定されて、中国や朝鮮半島に負けない強い一つの国家をつくるという、国家意識が、奈良時代には高まっていきます。

国を一つにまとめるためには、律令体制を整えて法律(ルール)によってまとめるということも一つですが、もう一つ国をまとめるために有効的な方法として、同じ考え方や価値観を国民の全員が共有することというのがあります。

例えば、宗教では全員が同じ神様を信じて、同じ教えを共有しているからこそまとまります。学校のクラスやチームでも、全員が同じ目標や目的など一つの価値観に向かって進んでいるときに、その組織は一つにまとまります。

これと同じように、飛鳥時代から奈良時代にかけての政治家たちは、思想面で国を一つにまとめる方法を考えました。それを実現するために行ったのが、『日本書紀』や『古事記』の編纂でした。

日本書紀』は720年に完成した、日本最古の勅撰の歴史書で、ここには持統天皇の時代までの天皇家の歴史・神話について書かれています。これは、舎人親王らが編纂し、年月の順を追って出来事を記述していく編年体の形式で書かれました。

一方『古事記』は、こちらも日本の天皇家の歴史・神話についてまとめた書物で、こちらは712年に完成した日本最古の歴史書と言われています。

古事記』は、天武天皇が『帝紀』『旧辞』という日本に古くから伝わっていた歴史書の内容を正確に伝えようとして、記憶力に優れていた稗田阿礼という人物に読ませてそのすべての内容を覚えさせて、その覚えた内容を元明天皇の時代に、太安万侶に筆録させて完成しました。

古事記』は、推古天皇の時代までの天皇家の系譜や伝承について書かれています。

日本書紀』も『古事記』もどちらも、日本の歴史や神話について書かれている書物なのですが、どちらかといえば、『日本書紀』は海外に日本の歴史や成り立ちを伝えるために、『古事記』は国内向けに国民に国家意識を芽生えさせ、植え付けるためにつくられました。

古事記』や『日本書紀』の中には、日本が誕生した経緯や天皇がいかにして君臨したのかといった神話がたくさん記述されています。神話ですから、それが確かな歴史であるということは言いきれません。

しかし、そうした神話を数多くつくったのには当然理由があるのですね。それは、日本が天皇を中心とする国家を形成するにあたって、どうしても日本国がつくられた経緯と、そしてそこには数多くの神様が携わっていて、その神様の子どもが現在の天皇であって、ゆえに天皇を中心として我々日本人はまとまる必要があるのだといった論理をつくりだしたかったのですね。

このようにして、『古事記』『日本書紀』といった神話・歴史書を編纂することによって、国内外に「日本は天皇が国のトップに君臨し、天皇を中心として国家形成をすすめていくんだぞ」ということをアピールしたのですね。

日本書紀』や『古事記』が編纂された後も、天皇が代わるごとに、その天皇がやった功績をしっかりと後世に残し、天皇を中心とする国家体制を継続していくために、何度も歴史書の編纂が行われました。

日本書紀』以降、全部で5つの天皇(国家)が編纂した歴史書(正史)が編纂されました。これを『日本書紀』も含めて、「六国史」といいます。「六国史」の歴史書の名称もしっかりと覚えておきましょう。

  • 神代~持統天皇までの歴史をまとめた日本書紀
  • 文武天皇から桓武天皇までの歴史をまとめた続日本紀
  • 桓武天皇から淳和天皇までの歴史をまとめた日本後紀
  • 仁明天皇の歴史をまとめた続日本後紀
  • 文徳天皇の歴史をまとめた日本文徳天皇実録
  • 清和天皇・陽成天皇・光孝天皇の三代の天皇の歴史をまとめた日本三代実録

これらの歴史書によって、神代から藤原摂関政治期に至るまでの古代の日本の歴史が文書としてしっかりと残されました。

地方の実情を知るための資料をつくらせる!!

713年には、天皇を中心とする中央集権国家を推し進めるにあたって、中央の政治家や天皇たちが各地方の実情を把握しておくために、各国に対して「風土記」の編纂を命じました。

風土記は、その国の地名の由来や特産物などについて記述されている書物で、おそらく全国からこれが中央に提出されたのだと考えられていますが、現在残っているのは、常陸・出雲・播磨・豊後・肥前の5つの国のみになっています。

ちなみに、完全な形で残っているのは出雲風土記のみです。

漢字を使いこなせる人がかっこいいね!!

政府が天皇を中心とする国家形成を進めていくにあたって、模倣としていた国は、みなさんご承知の通り中国(唐)でした。

そのことは、当時つくられた律令が唐の制度をまねてつくったものであることや、平城京が唐の都の長安をまねてつくっていたことからもわかります。それほど、当時の日本は中国(唐)に対する憧れの気持ちが強かったのです。

中国(唐)のスタイルをまねていたのは、国家の政治制度だけではありません。生活スタイルや教育なども文化も中国の様式をまねていました。

その憧れは、当時の日本の貴族たちが中国から伝わった儒教や漢文学に高い興味・関心を示していたことからもうかがえます。当時の貴族たちによって、教養がある人・頭の良い知的な人であることを測る指標は、優れた「漢詩」をつくれるかどうかでした。

そのため、漢詩の文化がものすごく流行し、751年には優れた漢詩を120個集めてつくった、日本最古の漢詩集といわれている『懐風藻』が完成しました。

懐風藻』の編者は淡海三船といわれていますが、定かではありません。エリート階層たちがこぞって漢詩をやるぐらい、当時は漢詩ブームが到来していました。

この時代の漢詩のスターとしては、吉備真備・阿倍仲麻呂・淡海三船・石上宅嗣などがあげられます。

石上宅嗣は、あまりにも学問が好きすぎて、自ら大量の書物を集めてきて、芸亭呼ばれる、日本初の私設図書館を自宅につくってしまいました。この図書館には多くの人が自由に往来し、頭の良い人たちが学問を究めあったそうです。

また、優れた人材・エリートを育てるために、学校もつくられました。みなさんは、学校で数学とか日本史とか科学とかを学んでいると思いますが、当時の人たちは、やはり中国文化を信奉していましたから、中国から入ってきた学問である、儒教の経典を学ぶ明経道や、律令を研究する明法道、漢文学を学ぶ文章道などを学んでいました。

学校でこれらの学問を学んだ学生たちは、最終的に国家試験を受けて、それに合格すれば晴れて国の役人となることができました。しかし、だれでもかれでも、学校に行けて、役人になれるわけではありませんでした。

当時学校に行けた人は、もともとエリート階級である貴族や地方の有力者の子どもだけでした。

国の中央には、貴族や朝廷に仕えている人の子どもだけが通うことのできる大学が設けられ、地方には、地方の有力者である郡司の子どもが通うことのできる国学が設置されました。

こうして中国の学問を基盤として、国は貴族たちに教養を深めさせ、エリート官僚を育てていったのです。

漢字と日本人の感性の融合で、微妙で繊細な感情を表現する詩!

 

この時代は漢詩の文化が深まっていく一方で、漢字を日本独自の仮名的に使って、万葉仮名という文字をつくり、これを用いて和歌をつくる文化も発展していきました。

8世紀後半には、万葉仮名で書かれた、たくさんの和歌を集めてまとめられた『万葉集』が完成しました。

万葉集』の編集には大伴家持が大きくかかわっているといわれています。この『万葉集』の中には、天皇・皇族・貴族から一般の僧侶や農民に至るまで、幅広い階層の人たちの歌が収録されています。

ここから当時のあらゆる階層の人たちの生活や心情を深く味わい読み解くことができます。

特に、九州に防人として渡った農民たちがその悲哀について詠んだ防人歌などはとても感動的で印象的です。

天平時代の万葉和歌の作者としては、山部赤人・山上憶良・大伴旅人・大伴家持などが有名です。

不安な世の中を救うものこそ、仏教だ!!の思想

冒頭でも述べたように、奈良時代というのは、飢饉や疫病の流行など、とにかく光の見えない真っ暗なイメージの時代でした。そこで、奈良時代の人々がすがったのが、仏教でした。

仏教の力によって国を鎮めていこうという鎮護国家の思想が奈良時代に深く根付きました。特に聖武天皇の時代に、全国に国分寺・国分尼寺が建立されたり、東大寺に大仏が建てられたりして、国家が率先して仏教政策を推し進めていきました。

そして、平城京内には南都七大寺と呼ばれる7つの寺院が並び立ちました。まずは、南都七大寺の寺院をしっかりとおさえておきましょう。

七大寺は、東大寺・西大寺・薬師寺・大安寺・元興寺・興福寺・法隆寺の7つのお寺のことです。

さらに、この七大寺を中心として、南都六宗と呼ばれる仏教の宗派(学派)が、仏教についての学問研究を熱心に進めていました。

つまり、奈良県にある南都七大寺を中心として日本の仏教学問を政策的に発展させていこうとしたわけですね。

南都六宗は、互いが対立する宗派というよりかは、仏教の教義を研究しあう学派というイメージで、それぞれがそれぞれの視点から仏教研究を進めていきながら、日本の仏教発展に寄与していきました。

南都六宗の6つの宗派もしっかりと覚えておきましょうね。南都六宗は、法相宗・律宗・三論宗・成実宗・俱舎宗・華厳宗の6つの宗派です。

当時のお坊さんたちはいずれかの学派に所属して、仏教の勉強会に参加して研究を重ねていました。お坊さんたちは仏教研究をすすめていくかたわらで、国家や民衆のための活動も進めていました。

その中で、代表的なお坊さんを覚えておきましょう。

まず、民間への布教活動をすすめていき、人々のために橋をかけたり道をつくったりして、社会事業を推進していった行基。

唐に渡って法相宗を研究し、聖武天皇から国分寺や東大寺建立のリーダー役に抜擢された玄昉。

華厳宗を広めて、東大寺の建立や経営に尽力をした良弁、唐から何度も航海に失敗し失明をしながらも日本にやってきて、日本に律宗を伝え、初めて日本に戒壇(お坊さんに戒律と呼ばれるお坊さんになるためのルールを授ける場所)をつくった鑑真

これらの天平文化を代表するお坊さんたちはぜひ、覚えておいてください。

ちなみに、鑑真が東大寺に戒壇を設置して以降、三戒壇と称される東大寺の戒壇を含む3つの戒壇が設置されました。この3つの戒壇も入試に置いて重要です。頭に入れておきましょう。

三戒壇は、東大寺戒壇院・下野薬師寺・筑紫観世音寺の3つです。これら3つの戒壇が、お坊さんが正式に戒律を授けられお坊さんになることのできる場として定められました。

美しく、堂々とそびえたつ仏教芸術たち!!

仏教を手厚く重んじる国家政策を行ったために、天平文化は多くの仏教建築や仏教工芸品などがつくられました。

その一つ一つを最後に確認して、天平文化の話を終わりにしましょう。

建築

  1. 法隆寺夢殿・伝法堂
    法隆寺夢殿は、750年頃に聖徳太子信仰の聖地として建てられた八角形の建物です。

    伝法堂は、聖武天皇の夫人の家を法隆寺に移して建てられたものといわれています。当時の住宅建築として重要な遺産となっています。

  2. 東大寺法華堂・天害門
    法華堂は、750年頃に建てられた建物で、毎年3月に法華経の法会の儀式が行われることからこの名前がついています。

    天害門は、760年頃の創建と考えられていて、縁起の良い場所にあっ て「害を転ずる」ということから、この名前がついています。

  3. 正倉院宝庫
    光明氏が、聖武天皇の死後に献納した様々な遺品をはじめ、ペルシャや中国西方からもたらされた品物などの宝物を約9000点収納している、東大寺の正倉院にある倉庫です。
  4. 唐招提寺金堂・講堂
    金堂は759年~780年頃に建立された、盧舎那仏や千手観音・薬師如来などを安置しているお堂です。講堂は、お坊さんたちの学び合いの場所となっていました。

彫刻

天平時代の彫刻は、これまでの時代と比べて技術が進歩して、新たな技法による仏像がつくられるようになりました。

天平時代に用いられていた技法は、大きく2つありまして、そのそれぞれの名前と、技法の違いをしっかりとおさえておきましょう。

まず一つ目が、塑像です。こちらは木で心をつくって、その周りを粘土で固めていってつくる仏像彫刻の技法です。

二つ目が、乾漆像です。こちらは、まず粘土で仏像の原型をつくり、その上に麻布を漆で塗り固め、それを何度も繰り返し、これを乾燥させた後、最後に内部の粘土を抜いてつくる仏像彫刻の技法です。

天平文化の仏像を覚える際は、その名称と共に、どの技法でつくられた仏像なのかもセットで覚えるようにしておきましょう。

天平文化の仏像は、新しい技法を取り入れるようになったことでより繊細でち密な表情が表現されるようになり、より写実的で優美なものになりました。

また、一人で一つの仏像を造るのではなく、工程ごとに分担して一つの仏像をつくる分業体制も行われるようになり、より効率的に仏像がつくられるようになりました。

技術というものは、厳しく苦しい時代ほどより効率的に、より発展していくようになるものなのですね。今年のコロナウィルスの情勢でもそのことをひしひしと感じます。さて、一つ一つに仏像を、確認していきましょう。

乾漆像

  1. 興福寺八部衆像
    もともとは違う宗教の神様だったけど、お釈迦様から教えを受けて、仏の教えを守っている仏教の八体の守護神です。

    八部は、天(デーパ)・竜(ナーガ)・夜叉(ヤクシャ)・阿修羅(アスラ)・釈楼羅(ガルダ)・緊那羅(キンナラ)・摩睺羅伽(マホラガ)・乾闥婆(ガンタルバ)の八体の神のことです。特に、顔が3つ腕が6本ある阿修羅像は有名ですね

  2. 興福寺十大弟子像
    お釈迦様の1250人の弟子のうち選ばれしベスト10のお弟子さんの像です。彼らは各地にわたって釈迦の教えを伝えていきました。
  3. 東大寺法華堂不空羂索観音像
    「羂索」とは獣や魚を捕まえる縄のことで、「不空」とはむなしくないことです。すなわち羂索で獲物をとらえるように、人々の願いを確実にとらえてむなしくさせず、人々を必ず救ってくれるのが、この不空羂索観音像です。

    天平文化の不空羂索観音像は、顔が3つあって、8つの腕がある三面八臂の仏像です。

  4. 唐招提寺鑑真像
    鑑真は、中国から過酷な渡航で盲目になりながらも日本にやってきて、戒律を伝えた人でしたね。

    彼は、5年間にわたり唐招提寺で過ごし、天皇をはじめとする多くの人に授戒を行っていきました。その功績をたたえて、唐招提寺に鑑真の像がつくられました。

  5. 唐招提寺金堂盧舎那仏像
    廬舎那というのは「太陽」という意味で、盧舎那仏は現世を太陽のように照らし続けてくれる仏像です。

    743年に、世の中の乱れに心を痛めた聖武天皇が大仏造立の詔を出して、紫香楽宮で鋳造が始められ、752年に盧舎那仏像が完成し開眼供養が行われました。

塑像

  1. 東大寺執金剛神像
    執金剛神像は、外敵と戦う強い仏像で、お釈迦様が悟りを開くまでボディーガードのような役割を果たしていた神様です。

    右手に金剛杵(こんごうしょ)という武器を持って、人々の煩悩を打ちこわしてくれます。

  2. 東大寺日光・月光菩薩
    日光菩薩は、太陽のような強い光で苦しみの闇を取り除いてくれる菩薩です。月光菩薩は、月の明かりのような優しい心で人々の煩悩を消し去ってくれる菩薩です。
  3. 東大寺戒壇堂四天王像
    四天王とは、「多聞天」「増長天」「持国天」「広目天」の4体の仏教の守護神のことで、彼らが力を合わせて仏教界を守っています。
  4. 新薬師寺十二神将像
    薬師如来とそれを信仰する人々を守っている12体の武将で、2時間交代制で仕事をしています。彼らは、東西南北12の方角を守っていることから干支の守護神とも呼ばれています。

絵画

  1. 正倉院鳥毛立女屏風
    正倉院に伝わっている屏風の一つで、中国(唐)の服をきた女性が樹の下に立っている様子を描いた作品になっています。

    絵の中の女性の髪の毛や樹木などにヤマドリの羽毛がはられていたため、鳥毛立女屏風と呼ばれています。

  2. 薬師寺吉祥天像
    吉祥天はヒンドゥー教で美と繁栄の女神様としてしられていますが、この絵のモデルは奈良時代の上流婦人であった光明子であるといわれています。奈良時代当時の美しい女性と世の中の繁栄の女神の象徴として、光明子が存在していたのですね。
  3. 過去現在絵因果経
    お釈迦様が前世でどのように修行をつんで、現世でどのように悟りを開いてその教えを弟子たちにどのように教えていったのかを描いた作品。上段にお釈迦様の物語の絵を、下段にお経が書かれています。

工芸品

  1. 正倉院螺鈿紫檀五絃琵琶
    現存する唯一の五つの弦でできた琵琶です。8世紀につくられ、全長は108.1cm、最大幅は30.9cmです。

    これは当時の日本の技術ではつくれなかったものであると考えられていて、もともとインドにあったものが中国に伝わり、中国から遣唐使を通じて日本に伝わったといわれています。

  2. 正倉院漆胡瓶
    漆塗りのペルシア式の瓶です。この瓶もペルシアから直接日本に伝わったわけではなく、ペルシア風に唐でつくったものが日本に伝わったといわれています。

    こちらに瓶は、聖武天皇が日常的に使っていたそうです。

  3. 正倉院白瑠璃碗
    瑠璃とは中国でガラスのことで、正倉院におさめられている白色のガラスのお椀です。こちらもササン朝ペルシアから唐を経て日本に伝わったといわれています。
  4. 東大寺大仏殿八角灯籠
    東大寺の金堂の前に置かれている八角形の灯籠です。こちらもギリシャ彫刻やペルシアの 影響を受けてつくられているもので、灯籠には楽器を奏でる4体の音声菩薩が彫刻されています。
  5. 百万塔陀羅尼
    100万基の木でつくられた小さな塔の中に、阿弥陀経という経典を納めたものです。ここに納められている阿弥陀経は日本最古の印刷物といわれています。

    この陀羅尼は、764年起こった恵美押勝の乱でなくなった人たちを弔うためにつくられました。塔も阿弥陀経も百万もつくる作業は相当な労力だったと想像がつきますが、それほど仏教の力でこの国の乱世を鎮めおさめていこうとしていたのだなという気概がうかがえる作品となっています。

まとめ

不安な世の中で、どのようにして国をまとめ、どのように現状を打破していくのかを必死に考えた末に生まれたのが、天平文化でした。覚えることが多いですが、しっかりと時代背景と照らし合わせながら一つ一つ知識を定着させていきましょうね。

さて、天平文化をここまでみてきてわかるように、奈良時代というのは非常に仏教というのが台頭し重んじられてきた時代でもありました。

そうした時代背景の中で、仏教勢力が政界にも影響力を持つようになりはじめ、挙句には、お坊さんである道鏡が一時は天皇になりそうになるぐらいにまで、仏教の力が大きくなっていきました。

この状況を危惧したのが、次に出てくる桓武天皇という天皇です。桓武天皇は都を平安時代に移して、平安時代という新しい時代の幕開けの先陣を切った天皇です。

さあ、桓武天皇から始まる平安時代はいったいどんな時代になっていくのでしょうか。次の章からは、平安時代の歴史をひも解いていきます。

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