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平安時代は桓武天皇からはじまるよ!!
奈良時代は、疫病が流行したり、飢饉が起こったりと、非常に世の中が不安定で、人々の気持ちもげんなりと沈み、萎えてしまうような時代でした。
そのような時代の中で、人々は仏教にすがり、仏教の力で国を平安にしてもらおうという「鎮護国家」の思想が隆盛したわけですね。
そうした時代背景もあり、行基や鑑真といったお坊さんたちが活躍し、さらには、奈良時代の後半には、孝謙太上天皇の心をつかんだ道鏡が政治権力を握り、一時は天皇にまで上り詰めようかという勢いのところまで、勢力を高めていきました。
最終的には、和気清麻呂らによって、道鏡が天皇になる作戦は打破されましたがね。奈良時代はそのぐらい仏教の力が肥大化した時代でありました。
さて、時代は変わって平安時代に移ってまいります。平安時代では、不安な世の中をいかにして乗り越えていくのか。
そして、平城京から新たに遷都していく平安京というのはどういった都なのか。そのへんのところを、今回の章では述べていきたいと思います。
今回の主役は、桓武天皇です。桓武天皇は、ここから約400年という長きにわたって続いていく平安時代をどのようにスタートさせていったのか。その歴史を見ていきたいと思います。
桓武天皇はおかんむり
称徳天皇が亡くなった後、藤原式家の藤原百川が政権を握り、称徳天皇のもとで勢力を高めていた道鏡を失脚させ、光仁天皇を擁立しました。
その光仁天皇のあとに天皇の位についたのが、桓武天皇です。
桓武天皇は、光仁天皇と渡来人系(百済王族の末裔)の血を引く高野新笠の間に生まれた子どもで、もともとはお母さんが渡来系の人であったため、天皇にはなれないであろうと思われていた人物でした。
しかし、皇太子候補であった他戸親王が、謀反の疑いをかけられて皇位継承権を奪われ、これにより晴れて桓武天皇が就任する運びになりました。おそらく、他戸親王は藤原氏から反感を買い、失脚させられたんだろうと考えられています。
というわけで、天皇の位に就任した桓武天皇でしたが、桓武天皇は当時の世の中に対してある3つのことに怒っていました。
文字通り、か(、)ん(、)む(、)てんのうだけに「おか(、)ん(、)む(、)り」だったわけです(笑)。
では、桓武天皇は一体何に対して怒っていて、それに対して桓武天皇はどのような対策・政策をとっていったのかを一つ一つ見ていきます。
調子に乗っている仏教勢力に対しておかんむり!!
桓武天皇はまず、奈良時代に台頭してきた仏教勢力に対しておかんむりでした。
政治に対して仏教勢力が発言力を増してくることに対して不満を高め、こうした勢力を一掃するために都を平城京から新しい都に移すことを計画します。
そうして784年に、平城京の地から、山城国の長岡京に都を移すことを決定いたします。しかし、そこで事件が起こりました。
長岡京の造営が始まってから1年後の789年に、造営の中心人物であった藤原式家の藤原種継が暗殺されて、長岡京の造営が中止されてしまいました。
この事件の首謀者であるとされた大伴氏は、一族もろとも殺されて、没落を決定的にさせられました。さらに、皇太子で桓武天皇の弟であった、早良親王もこの事件の首謀者であるとされて、次期天皇候補から外され、淡路島に島流しにあってしまいました。
しかし、早良親王は一貫して無罪を主張し続け、自分に疑いをかけた桓武天皇らに対して、無言の抵抗をつづけました。彼が行った抵抗が、みずから食事をとることを絶って、そのまま飢餓状態に陥って、死に至るという抵抗です。
これをハンガーストライキといいますが、これにより、早良親王は淡路島に流される間の淀川の高瀬橋あたりで、飢餓により死んでしまいました。早良親王は、志半ばで不遇の死を遂げてしまうわけです。
この早良親王の死後、奇妙な事件が相次いで起こることになりました。789年に、桓武天皇の母親である高野新笠が亡くなりました。
次に、790年に桓武天皇の妻である藤原乙牟漏が亡くなります。
さらには、皇太子の安殿親王の両耳が聞こえなくなったり、近畿地方一帯で天然痘が流行したり、伊勢神宮が放火によって一部焼け落ちたり、長岡京で二度の大洪水が起こったり、桓武天皇が寵愛していた女性が相次いで亡くなったり…、とにかく桓武天皇の周辺で不吉な事件が相次いで発生します。
この状況に対して、桓武天皇は恐怖を抱きます。「これは間違いなく早良親王の祟りである」と。
そこで祟りを恐れた桓武天皇は、都を長岡京から平安京に再遷都することを決定します。なんとか都の場所を変えることで悪い流れを変えようとしたわけですね。
そんなわけで、794年に再び遷都が行われ、都が平安京に定まりました。この時、山背国も山城国と国名を変えました。ここから、源頼朝が鎌倉幕府を開く1185年or1192年までの約400年に及ぶ長きにわたって続く、平安時代が始まりました。
平安京は、平城京と同じように、唐の都の長安をまねしてつくられた都で、東西4.5キロメートル、南北5.3キロメートルあります。中心には、朱雀大路と呼ばれる大きなメインストリートが南北に通っていて、そこを境にして左京と右京に分かれています。
桓武天皇は、都を移すにあたって仏教勢力を排除することを目的に掲げていましたが、平安京で仏教寺院が認められていたのは、左京にある東寺と、右京にある西寺の2つのお寺だけで、それ以外のお寺を平安京内に置くことは禁じられていました。
とうわけで、桓武天皇は仏教勢力に対しておかんむりになって、長岡京に遷都し、ところがその長岡京の地で不吉な事件が相次いで、これにビビった桓武天皇、がさらに都を平安京に移した、というお話でした。
無駄なお金の使い方におかんむり!!
当時、国家の支出が最も多かった二大事業が、平安京の造営と蝦夷の征討でした。
蝦夷というのは、東北地方に住んでいて当時まだ朝廷に抵抗し、服属しなかった民族のことです。いまや東北地方は日本の一部ですが、古代の東北地方は日本とは一線を画していた異国だったわけですね。
彼らを服属させ、東北地方を日本の支配下に組み入れるために、多くの軍人を東北地方に派遣し、多くのお金を投入していました。この蝦夷征討と平安京の造営に対して、朝廷内部では賛成論と反対論がありました。
そして、賛成論者と反対論者が意見対立をする、徳政相論という論争が繰り広げられました。この時、二大事業の継続を主張したのが、菅野真道という人物です。
一方で、二大事業の打ち切りを主張したのが、藤原緒嗣です。両者の論争の末、最終的に805年に二大事業の打ち切りが決定されました。そのため、805年に平安京の造営が中止され、未完成の都となってしまいました。
また、蝦夷征討も811年(嵯峨天皇の時代)に、文屋綿麻呂が征夷大将軍(蝦夷征討のトップの役職)として東北に派遣され、最後の城塞である徳丹城を築き、蝦夷征討をほぼ完成させ、9世紀後半に最後の蝦夷征討が行われて以降、蝦夷征討は行われないようになりました。
蝦夷征討の歴史
さて、ここで蝦夷征討の歴史を振り返ってみていきたいと思います。
時代は、645年の大化の改新のころにさかのぼりまして、大化の改新後の647年に渟足柵、648年に磐舟柵という、東北経営のための軍事基地のようなものを、日本海側の越後(現在の新潟県)に設置しました。
これを足がかりにして、658年の斉明天皇の時代に、阿部比羅夫が蝦夷征討のために水軍を率いて、秋田方面の軍を進めました。ここから、蝦夷征討の歴史が始まります。その後700年代になると、蝦夷征討が本格化していきます。
まず平城京遷都後の712年に、日本海側に出羽国・太平洋側に陸奥国という2つの国の設置を宣言しました。これにより、日本国内にある一つの国として、東北地方が位置付けられ、東北支配を本格化させていきます。
そしてその流れの中で、724年には太平洋側に多賀城が築かれ、また733年には日本海側の政治・文化・軍事の中心地として秋田城が築かれました。
太平洋側の多賀城には、蝦夷征討の最大の軍事拠点である鎮守府と国府が設置され、東北経営の最大拠点として位置づけられました。
しかし、780年に、朝廷に一時は服属していた俘囚の伊治呰麻呂が反乱を起こし、多賀城がおとされてしまい、789年には紀古佐美を征討大将軍とする軍を朝廷側が派遣し胆沢地方の蝦夷を制圧しようとするも、蝦夷の族長である阿弖流為によって大敗を喫するということもあり、朝廷側の敗戦がしばらく続く状況が起こりました。
こうした状況の中、801年に朝廷側はかの有名な坂上田村麻呂を征夷大将軍として派遣し、一発形勢逆転を狙っていきました。
坂上田村麻呂は、802年に胆沢城を築城し、鎮守府を多賀城からここに移し、軍事拠点を固め、ここからさらに北上して803年には志波城を築きました。そして、坂上田村麻呂の起用が功を奏し、見事、蝦夷の族長であった阿弖流為を降伏させることに成功しました。
その後、阿弖流為は平安京に連行されそこで処刑されました。こうして坂上田村麻呂の活躍により、その後も順調に東北経営を進めていきましたが、突如といて805年に中止が決定されます。これがさきほどやった徳政相論の結果ですね。
811年に文屋綿麻呂が征夷大将軍として派遣されて、彼が長きにわたり続いた蝦夷戦闘が終了したことを朝廷に報告し、それ以降蝦夷征討は行われなくなっていきました。
不正をする国司や民衆におかんむり!!
桓武天皇が天皇に就任したころ、地方政治の腐敗が進んでいました。桓武天皇は、奈良時代後半から派遣されなくなっていた巡察視という、地方の監察・監督をする役人の派遣を再開し、地方政治の引き締めと民衆の生活の実態把握に努めます。
そこで明らかになったのは、地方政治の腐敗と民衆生活の疲弊の状況でした。桓武天皇はこの状況に非常にお怒りになり、改善に努めました。
特に、地方政治のトップを担う国司の不正が目立ち、国司は民衆から税金を必要以上に多くとったり、またそれを覆い隠すために、国司の交代時期になると倉庫を焼き払って証拠を隠滅したりと、その状況は最近の日本の政治ニュースでも目にするような不正そのものでした。
そこで、桓武天皇は勘解由使と呼ばれる、国司を監督するための役職を置きました。
具体的には、国司の交代の際に、慣例として新しく就任する国司が前任者の政治に不正がなかったかどうかを調べてそれを証明する解由状を発行することになっているのですが、そもそもその解由状に不正があったため、その受け渡しを勘解由使が監督し不正を防ぎます。
それに加えて、国司の普段の仕事を監督するために、観察使を派遣することもおこなっていました。
また、従来の軍事制度も腐敗が進んでいました。律令体制では、兵士は成人男性から国民の義務として徴発されていましたが、これではやる気のある兵士が集まらずあまり、兵士たちの士気があがっていませんでした。
これでは、軍の質としては非常に低いものになってしまいます。そこで、桓武天皇はその制度をやめ、792年に兵士は志願兵にするという健児の制をとりました。
健児の制では、主に地方の有力者である郡司の子弟が採用されました。これにより、より質の高い兵を集めました。
国民の負担を軽くしよう!!
重い税のために生計を立てられなくなり、自らの土地を手放して逃亡したり、浮浪したりする国民が多くなっている状況でした。
この状況を見かねた桓武天皇は、民衆の負担を軽減するための政策を講じます。
まず、795年に地方で肉体労働をおこなう「雑徭」の負担を、これまでの60日から30日に半減します。
次に、801年に、口分田の班給を6年に1回から12年に1回に倍加し、私有地である荘園が増えていく中でもなんとか班田収授を維持しようとしていきました。
また、春に稲を貸し付けて秋に利息を付けて返還する公出挙の利息を、これまでの5割から3割に軽減しました。
しかし、これらの民衆の負担軽減策で、必ずしも民衆の負担が軽くなったとはいえず、税の未納が多く、国家財政は厳しい状況に陥りました。
そこで政府は、財源を確保するために、官田・公営田・諸司田・勅旨田・賜田といった私有地を、有力農民を利用して経営しそこからの収入を経て財源を確保するという対策を取りました。
官田とは、宮内省の直営田のことです。公営田は、大宰府の直営田のことです。同じように諸司田が各省庁の、勅旨田が天皇の、賜田が皇族の私有の直営田です。
こうして政府が私有地を直接経営することで確実な財源確保に努めたのです。しかし、それでも国家財政のひっ迫する中で、皇族の人たちを一般の民衆に降下する、臣籍降下が行われ、もともと皇族だった人たちが姓をもらって賜姓皇族と呼ばれるようになりました。
この代表的なものとして、桓武平氏や清和源氏など、のちの平清盛や源頼朝につながる氏族が誕生していきました。
また一方では、院宮王臣家と呼ばれる天皇に近い少数の皇族や貴族が、下級官人や有力農民をその権威によって付き従え、国司から土地を保護するという名目で多くの土地を集め、権勢をふるい始めるようになっていました。
まとめ
桓武天皇は、とにかく腐敗した国内の政治や疲弊している民衆をなんとか立て直そうと尽力していきました。しかし、その政策の多くはあまり大きな成果を上げることができませんでした。
ただ、平安京の遷都にしても役人の不正を正そうとしたことも、桓武天皇の強い心の発奮を感じ取ることができます。
さて、桓武天皇の次を引き継ぐ天皇は平城天皇と嵯峨天皇です。彼らは一体どんな政治をやっていくのでしょうか。次の章ではそこからスタートしていきたいと思います。
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参考
- 安藤達朗『いっきに学び直す日本史 古代・中世・近世 教養編』,東洋経済新報社,2016, p98-p102
- 『詳説 日本史B』山川出版社,2017 ,p60-p63
- 向井啓二『体系的・網羅的 一冊で学ぶ日本の歴史』,ベレ出版,p97 –p101
- いらすとや