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桓武天皇のあとの、平安初期の政治体制!!
前回は、桓武天皇が平安京に都を移し平安時代が到来し、奈良時代の腐敗した世の中を立て直すために様々な政策を実行していった様子を見ていきました。
今回は、桓武天皇のあとをついでいく、平城天皇と嵯峨天皇の時代にどのようなことが起こり、どのような政策が行われていったのかといったところを、見ていき、平安時代初期の政治体制をまとめていきたいと思います。
病気がちですぐに位を譲っちゃった平城天皇!
806年に桓武天皇が亡くなってから、代わって平城天皇が天皇の位に就任しました。平城天皇は主に、役人の数を減らして、財政を立て直すという政策を実行しました。
具体的には、八省の下に置かれていた、職・寮・司といった官庁を半分に減らしたりしました。
しかし、平城天皇は非常に病弱で、即位からわずか3年で、自分の弟の嵯峨天皇に位を譲りました。
流されやすい平城上皇の悲しい結末と嵯峨天皇の時代の到来!!
平城天皇のあとをついで、809年に嵯峨天皇が即位しました。天皇の位を譲った平城天皇は、上皇(退位した天皇に与えられる称号)となって、しばらく静かに暮らしていました。
しかし、ここから大きな事件が起こることになりました。それが、「薬子の変」という争いです。
事の発端は、こうです。
藤原式家出身の藤原薬子という人物がおりました。彼女は、長岡京遷都の際に暗殺されてしまった藤原種継の娘です。薬子は、かつてから平城天皇からの寵愛を受けて、政治の世界で権勢をふるっていました。
しかし、平城天皇が天皇を引退してしまったことによって、薬子とその兄の藤原仲成の権勢が衰えてしまいました。
これに対して薬子と仲成は大激怒し「私たちの権力が落ちてしまったじゃないの!!もう一回天皇になりなさい!!」と、平城上皇に対して天皇復帰を求めるようになります。
一度、天皇の位を譲ってしまった平城上皇からすれば、そんなことは無理な話です。しかし、2人の要求は鬼気迫るものがあったのでしょう、平城上皇はもう一度天皇になることを、薬子と仲成に約束してしまいました。
この約束を果たすために、平城上皇は薬子をはじめとする自らの側近を引き連れて、住まいを平安京から平城京に移すことを決定し、ついに810年9月に、平城京遷都の詔勅を発布してしまいました。
すなわち、都を平安京から平城京に再び移し、今後は平城上皇が嵯峨天皇に代わって天皇となり、権勢をふるっていくという宣言を平城側がしたわけです。
このようにして、都が平城上皇側の平城京と嵯峨天皇側の平安京の2つ存在する状態のことを「二所朝廷」状態といいますが、政権内部がこのような状態になり、国内は混乱し、平城と嵯峨の両者の対立が深まっていくことになりました。
ここから起こる一連の出来事を「薬子の変」または「平城太上天皇の変」といいます。さて、この状況に対して、当然ながら嵯峨天皇はブチ切れます。
「そもそもお前が譲るとかいっておいて、反旗を翻すとは何事だ!!平城上皇も薬子も許さん!!」とね。
そこで、嵯峨天皇は、蝦夷征討でも大活躍した坂上田村麻呂らを平城京に派遣し、平城上皇と薬子・仲成兄妹を包囲し、最終的に藤原薬子は自殺に追い込まれ、仲成は射殺されてしまい、2人の陰謀ははかなく失敗に終わることになりました。
また、平城上皇のほうは、「もう天皇になる意志なんて毛頭もないですよ」と意志を示すために出家をして政界から姿を消しました。
これにより、藤原式家の勢力は完全に衰え、嵯峨天皇が心置きなく、実務を行っていくようになります。
ちなみに、薬子の変(平城太上天皇の変)の際に新しくできた役職がありました。それが、「蔵人頭」という役職です。
これは、嵯峨天皇側が平城上皇側と戦うにあたって、上皇側に機密情報が漏れないようにするために810年に置かれた役職で、これに藤原北家の藤原冬嗣と巨勢野足が任命されました。
具体的には、天皇からの命令を太政官に伝えるための役職なのですが、もともと律令体制下では内侍司(ないしのつかさ)の長官である、尚侍(ないしのかみ)がこの役割を担っていたのですが、ちょうどこの時代に尚侍の役職についていたのが、藤原薬子でした。
つまり、嵯峨天皇側が自分の命令を伝えようにも尚侍を経由して伝えようとすると、当たり前ながら薬子の変に係る機密情報がすべて駄々洩れになってしまうわけです。
そうならないために、新しく尚侍に代わる役職とて蔵人頭を設置したわけです。そして、後に蔵人頭の役所として蔵人所が正式に設置されるようになり、蔵人所から出される宣旨と呼ばれる命令が、いままでの命令の詔勅よりも重視されるようになりました。
つまり、蔵人所の権威が政権内でも特に高くなったというわけですね。そんな役職に就いたのが、藤原北家の人物である藤原冬嗣でした。
彼の蔵人どころ就任によって、藤原北家の権力がものすごく高まり、これが平安時代中期の藤原摂関政治の政治体制へと直接的につながっていくことになります。
蔵人所の設置はそれぐらい重要な歴史的な意義のある出来事だったのですね。
嵯峨天皇は、蔵人所だけでなく、ほかに「検非違使」という役職もつくりました。これは平安京内の警備をする警察官のような役職です。
律令体制下のこれまでの役職の中にも、京内の治安を維持する役職はありました。例えば、弾正台とか五衛府とか京職などです。
しかし、これらのひとつにまとめて吸収し、司法権・警察権を一手に握る「検非違使」を新たに、嵯峨天皇はつくり、治安維持の強化を図ろうとしたのです。
この役職をつくったのには、当時の治安が非常に荒れ果てていたという背景があります。人殺しが横行していたり、死体がそのへんに普通に転がっていたりといった状況がごく一般的であったらしいのです。
これは、警察権が機能していないということであり、まったく治安維持がなされていなかったそうです。
こうした状況が起こってしまっていていたのは、一説によると、「死」や「血」といったものを忌み嫌う「穢れ」の観念が強く社会に根付いていて、警察権を担っているものでさえも、物怖じして、積極的に治安維持に努めていなかったという背景があるそうです。
おそらくみなさんが一度は学校の授業などでも読んだことがあるであろう、芥川龍之介の『羅生門』の作品の中でも、平安京内の乱れた治安の様子が描かれていて、当時の状況を物語っています。
嵯峨天皇はこうした由々しき状況をなんとかしなければいけないという危機感を持っていたのだろうと思います。そうしたわけで、「検非違使」という新たな警察権・司法権を担う役職をつくったわけです。
ここまで見てきた、嵯峨天皇が設置した「蔵人所」や「検非違使」は、律令が制定されたときにはなかった、新たに設置されて加わった役職です。
こうした律令の規定にない、律令制定以降新しくできた官職のことを「令外官」といいます。つ
まり、「蔵人所」や「検非違使」は令外官で、他にも、文武天皇の時に設置された中納言や、聖武天皇の時に設置された参議、桓武天皇の時に設置された征夷大将軍や勘解由使も、令外官の一つです。こちらもよく覚えておきましょう。
嵯峨天皇の功績をまとめるよ!!
さて、このほかの嵯峨天皇の功績をあと一つだけ覚えて、この章を終わりにしていきましょう。
「蔵人所」の設置、「検非違使」の設置に加えて、嵯峨天皇の重要な功績としては、弘仁格式の編纂があります。
格というのは、律令を補足・修正するようなルール・規定で、式というのは律令を実行するために必要な細かいルール(施行細則)について定めたものです。
嵯峨天皇は820年に、藤原北家で蔵人頭の藤原冬嗣に命じて、弘仁格式を作成させました。これが嵯峨天皇の大きな一つの功績です。
ちなみに、三代格式と呼ばれる平安時代に編纂された3つの格式が、よく試験でも問われる重要なところですので、覚えておきましょう。
まずは、前述のとおり、820年に嵯峨天皇の時代につくられた弘仁格式。次に、清和天皇の時代につくられた貞観格式(貞観格は869年、貞観式は870年完成)、10世紀の醍醐天皇の時代に藤原時平らによって編纂された延喜格式の3つです。
弘仁→貞観→延喜、の順番で、どの天皇の時代にどの格式かをしっかりと覚えておきましょう。
なお、律令についてやはり時代を追うごとにその解釈というのが多様に生まれてくるようになってしまいます。
現代日本でも、日本国憲法の第9条における、自衛権の有無や自衛隊の存在意義など、そのあたりの解釈は同じルールの中でも解釈が時代を追うごとに変化しています。
そうしたバラバラの解釈を一つの解釈に統一しまとめるために、律令の注釈書もこの時代につくられています。
まず、官撰の養老令の注釈書として清原夏野が作成した『令義解』があります。もう一つ、私撰の注釈書で惟本直本が作成した『令集解』があります。
この2つの書物の名前もしっかりと覚えておきましょう。
まとめ
このようにして、平城天皇と嵯峨天皇の時代は、平安時代初期の乱れた世の中を平安にまとめていくために、さまざまな役職をつくったり、法律の整理をしたりしていきました。
こうした政治改革の中で、常に天皇の側近にいて、漸進的に勢力を伸ばし続けている氏族がいました。それが、藤原家ですね
。特に、嵯峨天皇の時代に蔵人頭に任命された藤原冬嗣の出身家である藤原北家が、政界の中でものすごく強い権力を持つようになります。
そして、いよいよ次は、藤原氏が政権の実質トップに立ち、政界を牛耳っていく藤原摂関政治の時代がやってきます。
さて、藤原家はどのような過程を経て、政界のトップの座に躍り出て、どのようにして政権を維持し、どのようにして国家をまとめていくことになるのか。
次は、藤原摂関政治の体制を詳しくみていきたいと思います。
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参考
- 安藤達朗『いっきに学び直す日本史 古代・中世・近世 教養編』,東洋経済新報社,2016, p101-p102
- 『詳説 日本史B』山川出版社,2017 ,p62-p64
- 向井啓二『体系的・網羅的 一冊で学ぶ日本の歴史』,ベレ出版,p100 –p101
- いらすとや