日本史を楽しく復習しよう!時代ごとの「荘園」の歴史について[パート②]

横暴すぎるよ国司さん!!

新しい土地制度を確立し、徴税は国司に一任されました。そうすると、今度は国司が、自らの私腹を肥やすためにいたずらに税率を引き上げたりして、暴走を始めるようになってしまいました。

しかも、中央政府もこれを注意するわけでもなく、むしろ中央政府からすれば定められた税がしっかり納入されれば文句はなかったため、国司が地方で税率を跳ね上げて、暴政をふるっていても決しておとがめなしでした。

また、国司の中には、任命された地方には赴かずに、自分は中央に残り、代わりに「目代」と呼ばれる役人を派遣して国司に代わって徴税を行い、また地方の実務は現地の豪族から選ばれた「在庁官人」」が行って、国司自らはただ収益だけを手に入れるという者もいました。

こういった現地に赴かない国司のことを遥任国司といい、また国司が赴任しない国衙のことを留守所といいます。

国司がちゃんと地方に赴かない留守所は、非常に無責任な政治体制となり、しだいに地方政治は乱れていくようになってしまいました。

さらには、このように国司の役職が私腹を肥やすためにとてもおいしいものになると、お金(賄賂)を支払ってでも、自分が国司に任命されたいと思う者が出てくるようになり、売位・売官の風潮が生まれ始めます。

朝廷の儀式や寺社の造営費などのためにお金を支払って中央から国司に任命してもらうことを「成功(じょうごう)」といいます。

また、成功によって国司に再任されることを「重任(ちょうにん)」といいます。

このようにして、成功や重任によって国司が任命されるようになると、しだいに「国司」という役職が公のものではなくて、任命された者の私物と化していきます。

それは、国家としては財政窮乏の中で、単に国司からお金をもらえればよくて、国司がしっかりと地方政治をやっているかどうかの監視をしなくなり、国司は国司で地方の政治を良くしようというよりも、単に自らの私腹を肥やすことだけに躍起になってしまうことから起こります。

このように、私腹を肥やすために任国の赴き徴税を行う国司の主席(守)のことを「受領(ずりょう)」といいます。

当時の地方政治がいかに崩壊していて、受領がいかに暴政をふるっているのかというのを訴えている史料があります。以下を少し読んでみましょう。

 尾張国郡司百姓等解し申し、官裁を請ふの事

 裁断せられむことを請ふ、当国の守藤原朝臣元命、三箇年の内に責め取る非法の官物、あわせて濫行横法三十一箇条の愁状

一、裁断せられむことを請ふ、例挙の外に三箇年の収納、暗に以て加徴せる正税三万千二百八束が息利の十二万九千三百七十四束四把一分の事……

一、裁断せられむことを請ふ、交易と号して誣ひ取る絹、手作の布、信濃の布、麻布・漆・油・苧・茜・綿等の事……

一、裁断せられむことを請ふ、三箇年の池溝せて救急の料稲万二千余束を宛て行はざる事……

一、裁定せられむことを請ふ、守元命朝臣、庁の務無きに依りて、郡司百姓の愁を通じ難き事……

一、裁断せられむことを請ふ、元命朝臣が子弟郎等、郡司百姓の手より雑物等を乞ひ取るの事……

一、裁断せられむことを請ふ。守元命朝臣、京より下向する度毎に、有官・散位の従類、同じき不善の輩を引率するの事……

一、裁糺せられむことを請ふ、去る寛和三年某月某を以て諸国に下し給はるる九ケ条の官符の内に、三ケ条を放知せしめ、今六ケ条を下知せしめざるの事……

以前の条の事、憲法の貴きを知らむが為に言上すること件の如し。……望み請ふらくは件の元命朝臣を停止して良吏を改任せられ、以て将に他国の牧宰をして治国優民の褒賞を知らしめむ。……仍て具さに三十一箇条の事状を勒し、謹みて解す。

  永延二年十一月八日 郡司百姓等(尾張国解文)

 

(口語訳)

 尾張国の郡司と百姓が太政官の裁決を申請すること

 当国の守藤原元命がこの三ヵ年の間に行った非法な徴税と不法行為に関する三一ヵ条(の訴え状)について裁決をお願いします。

一、定例の出挙のほかに、三年間に正税四三万一二四八束の利息として一二万九三七四束四把一分を徴収したことについて裁断して下さい。……

一、中央への交易雑物だと称して、絹・手作布・信濃布・麻布・漆・油・苧・茜・綿などをだまし取ったことについて裁断して下さい。……

一、三年間、池や用水の修理費や窮民救済料として支出すべき稲一万二〇〇〇余束を支出していないことについて裁断して下さい。……

一、国守元命が国衙で政務をとらないので、郡司や百姓の嘆願が伝わらないことについて裁断して下さい。……

一、国守元命の子弟や郎等が、郡司や百姓からさまざまな物を奪い取ることについて裁断して下さい。…… 

一、国守元命が、京から下向する度に有官・散位の従者やよからぬ者たちを引きつれてくることについて裁断して下さい。……

一、去る寛和三(九八七)年三月七日付で諸国に下された九ヵ条から成る太政官符のうち、三ヵ条のみ管内に布告し、六ヵ条は通達しなかったことについて厳しく問いただして処置して下さい。……

以上の条々は、国家の法が貴く、それを破る者は正しく処分されるということを知るために言上したものです。……どうか元命朝臣を解任して良吏を新しい国守に任命し、他国の国司にも良い政治を行った者はほめられるのだということを教えてあげて下さい。……こうした理由で詳細に三一ヵ条にわたって記し、謹んで申し上げます。

 永延二(九八八)年十一月八日 郡司百姓等

これは、988年に尾張国の百姓や農民たちが受領の藤原元命の暴政をあばいて朝廷に提出した『尾張国郡司百姓等解』という史料です。

元命が税金をだまし取っていること、まったく国民のために税金が使われていないこと、元命がまったく政治をしていないこと、など多くの苦情が寄せられています。

この翌年に元命は国司を解任されることになるのですが、このように国司が怠慢を働き、地方政治が腐敗してしまっているところが当時は多く見受けられたそうです。

当時の受領の利益追求のありさまを『今昔物語』という本の中にでは「受領は倒るるところに土をつかめ」ということわざで表現しています。

当時の受領たちが国や地方のためでなく、自らの私利私欲のために働いていたことを良く表している言葉ですね。

自分の土地はえらい人たちに守ってもらおう!!

11世紀になると、名田を請け負っている大名田堵の中から、新たに未開の地を切り開いて私有の土地を開発する者が現れました。

彼らのことを「開発領主」といいます。これまで荘園というのは主に寺社や貴族が経営することが多かったのですが、有力な農民たちが自ら土地の開発を行って荘園を持つようになるのですね。

政府も、国衙に一定程度の税を納めることを条件に、開発領主の荘園を認めました。そして開発領主たちは、その土地の管理を国司から任されて、そこで一般農民を働かせて、彼らを支配する領主のような存在になりました。

開発領主たちが開発して支配した土地の領域は、「郷」や「保」という単位に編成され、その土地の管理者である開発領主たちは「郷士」や「保士」と呼ばれるようになりました。ました。

このようにして、荘園を獲得した開発領主たちにも、国司の横暴がふりかかります。新しく開発領主たちが開発する土地にも、他の公領と同じように税金のかかる「輸租田」でした。

そして、当然ながらこれに目を付けた国司たちはハイエナのようにたかってきて、多額の税金をむしり取っていきます。当然開発領主たちはこの状況に耐えられません。

そこで、開発領主たちは国司たちに税を持っていかれないようにある対策を立て始めます。その対策は、中央の権力者に土地を寄進するという作戦です。

寄進というのは、貴族や寺社などに自分の持っている土地の名義を寄付することです。つまり、土地の名義を中央で自分たちよりも力を持っていて、さらに国司よりもはるかに権力の高い貴族や寺社に寄付することで、国司に税金をとっていかれないように保護してもらうのです。

このような荘園のことを「寄進地系荘園」といいます。開発領主たちは中央の貴族や寺社に寄進することで、租税を納めることを免除される「不輸」の特権と、税務調査官である検田使を一切荘園内に立ち入らせない「不入」の特権を獲得しました。

国司や検田使が自分の荘園内にやってきても、「あっ、ここはあなたよりもはるかにお偉い○○さんの所有の土地ですので、何かあるならそちらのほうに行って話してください」という感じですんなりと追い返せるわけです。

まさに虎の威を借る狐状態ですね。11世紀にはこのような寄進地系荘園が増えていきました。さて、史料で寄進地系荘園の実態を確認しておきましょう。

 鹿子木の事

一、当寺の相承は、開発領主沙弥、寿妙嫡々相伝の次第なり。

一、寿妙の末流高方の時、権威を借らむがために、実政を以て領家と号し、年貢四百石を以て割き分ち、高方は庄家領掌進退の預所職となる。

一、実政の末流願西微力の間、国衙の乱妨を防がず。この故に願西、領家の得分二百石を以て、高陽院内親王に寄進す。件の宮薨去の後、御菩提の為め……勝功徳院を立てられ、かの二百石を寄せらる。其の後、美福門院の御計として御室に進付せらる。これ則ち本家の始めなり。……(東寺百合文書)

 

(口語訳)

  鹿子木のこと

一、この荘園は開発領主の沙弥寿妙の子孫が代々受けついできたものである。

一、寿妙の子孫の高方の時に、権威を借りるために、藤原実を領家として年貢の内四〇〇石を上納することとし、高方は庄園の現地を完全支配する預所職となった。

一、実政の子孫の願西は力がなかったので、国衙の不当な干渉を防げなかった。そこで願西は、領家の得分のうちの二〇〇石を上納する条件で高陽院内親王に寄進した。内親王が亡くなった後、菩提を弔うために勝功徳院を建立され、その二〇〇石を寄進された。その後、内親王の母である美福門院のお計いで仁和寺に寄進された。これがこの荘園の本家の始めである。

この史料で書かれているように、当時の開発領主たちは、開発した土地を有力な貴族や寺社に寄進しました。そして寄進を受けたものは「領家」と呼ばれ、寄進した者は「荘官」となりました。

そして、荘官領家に対して国衙に年貢を納入する代わりに、土地からの収入の一部を領家に支払いました。

寄進を受けた「領家」は、時代が経つと自らの権力が弱くなり、自らの荘園領主としての地位をより安定的なものにするために、荘官から寄進を受けた土地を、さらに上級の摂関家や院(上皇)などの貴族に寄進しました。

このように寄進につぐ寄進を受けた者は、「本家」と呼ばれました。領家はもちろん、荘官から獲得した収入の一部を本家に納入しました。

こうして開発領主が開発した土地は、「不輸・不入」の特権を獲得する土地になっていったのです。

税金取るな!!立ち入り禁止じゃ!!

さて、実は10世紀に「不輸」の特権を認められていた土地は「寄進地系荘園」だけではなく、政府や国司から直接それらの特権が認められる荘園もありました。

政府によって「不輸」の特権を認められていた荘園を「官省符荘」、国司によって「不輸」の特権が認められた荘園を「国免荘」といいました。

官省符荘は、太政官から発行される太政官符や、民部省から発行される民部省符によって「不輸」の許可を得ることができました。

このように不輸の特権を認める手続きのことを、立券荘号といいます。立券荘号によって荘園は不輸の特権を獲得したのですね。

のちになると、政府の手続きを省いて、国司の許可のみで「不輸」の特権が認められるようになります。このような荘園を「国免荘」というわけですね。

これらによって租税を納めなくてもよいという「不輸」の特権を獲得することができたのですが、定期的に国司の使いである「検田使」が、土地の調査にやってきました。

開発領主にとっては、新しい土地を開発し、それを検田使に調査されてしまえば、その土地は税金がかかってしまうため、できるなら検田使には来てほしくないと思い始めます。

そこで、寄進地系荘園という手を使うことによって「不入」の権利も獲得していくようになるのですね。

これが、「不輸・不入」の特権を開発領主が獲得するまでの歴史の流れです。

後三条天皇による土地の大改革!!

不輸・不入」の特権を持った荘園が増えてくると、政府の財政はますます苦しくなってきます。

そこで、摂関政治の後に藤原氏を外戚としない天皇として就任した後三条天皇が、1069年に全国で一斉に大規模で本格的な荘園整理令を敢行します。この整理令を「延久の荘園整理令」といいます。

延久の荘園整理令では、

  1. 1945年以降の新規の荘園の停止
  2. それ以前のものでも、「券契」と呼ばれる荘園を証明する契約書がない荘園の停止
  3. 国務に妨げのある荘園の停止

の3つのことを断行し、これにより多くの荘園を停止させることに成功しました。

この荘園整理令の適用範囲はこれまで多くの荘園を有していた寺社や摂関家も例外ではなく、実際に石清水八幡宮という大寺社の荘園が34か所中14か所も没収されました。

後三条天皇はこの荘園整理令を断行するにあたって、自らのブレインとなる学者の大江匡房を登用し、かれを中心に荘園整理を進めていき、また荘園整理を行うための機関として「記録荘園券契所」という役所をつくって、徹底して全国の荘園の券契調査を実施していきました。

政府はこれまでにも何度も荘園整理令を出してきましたが、なかなかうまくいきませんでした。それはひとえに整理令を断行する側の政府が荘園の領主となっていて荘園からの恩恵を受けているという状況があったからです。

しかし、後三条天皇は荘園からの恩恵を受けていた藤原氏を外戚としない天皇で、かつ今までの荘園のありかたに疑問を持っていた優秀な学者である大江匡房を採用し、さらに第三者機関である記録荘園券契所をつくることで、第三者の目で客観的に淡々と整理令を実行していくことに成功したわけです。

これにより、決してすべての荘園が停止されたわけではありませんが、いままであいまいであった荘園と国の土地である国衙領(公領)との境が明確に分けられました。

 

こうして後三条天皇以降、荘園と公領がそれぞれ別の存在として並び立つ時代がやってきます。このような土地制度を「荘園公領制」といいます。

荘園公領制のもとでは、各荘園や公領は「名」という土地の単位ごとにその耕作者である有力な農民が「名主」というその土地の徴税人に任命されて、名主がその支配下に置いた下人・所従・作人とよばれる隷属農民たちに耕作をさせながら、彼らから税を徴収し、それを「名主」の上の立場にいる「荘園領主」に納めました。

当時納めていた税は「年貢」「公事」「夫役」の三種類です。「年貢」はお米で支払う税で、「公事」はお米以外の野菜・糸・手工業製品などの特産品でも支払う税で、「夫役」は労働奉仕の税でした。

このような形の荘園公領制はのちに鎌倉時代まで続いていくことになりました。

まとめ

ここまで長々と後三条天皇による延久の荘園整理令までの土地制度の歴史についてみてきましたが、非常に複雑で難しかったですよね。

しかし、荘園の歴史にも流れがあって、土地制度が変化していく原因と理由が必ずあります。そこのところを一つ一つ確認しながら、覚えていくようにしてみてくださいね。

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