本記事では日本の制度及び法律に関する歴史を解説していくシリーズの第3段目として,戦前から戦後の流れを取り扱いっていきます。この近現代史と呼ばれる分野は細々とした内容が多いので,本記事を使いながら重点的に対策していきましょう。
戦前・戦中
それでははじめに前回の大正時代の続きである戦前・戦中の歴史について触れていきましょう。大正時代に起こったこととして前回の記事では普通選挙法・治安維持法をご紹介しましたね。この2つのような制度や法律が作られる一方,世界では第一次世界大戦が起き,日本はそのとき味方していたグループが戦争で勝ったので,経済が潤っていきます。以上のような軍事にまつわる産業による好景気を軍需景気と言ったりもするのですが,その状態は世界全体の経済が崩壊してしまう世界恐慌と呼ばれるイベントを機に崩れてしまいます。この恐慌には日本も巻き込まれたのですが,このとき日本は中国や韓国を植民地とすることで不景気から脱出しようと試みました。そのことが表れているイベントとして満州事変を挙げられますね。しかし,このように武力に基づいて恐慌から回復しようとすることで,日本は平和を訴える国際連盟ならびに外国を敵に回してしまいます。
以上の流れで戦争へと突入するのがこの戦前,ならびにその流れが激化する戦中の時代です。そのため覚えておきたいルールや仕組みも戦争とつながるものが多くなってきます。まず一番重視して頭に入れたいことが軍部の独裁です。この頃の日本では,海外に対して強い反発心を持つ軍のメンバーによって首相が暗殺される五・一五事件,大臣らが襲われる二・二六事件などが発生するのですが,このような事件を通し軍は政治への発言力を強め,戦争を重視して外国とつながったり政治を進めたりする軍国主義が広まっていきました。そうして日本は日中戦争をしかけるのですが,この戦争は長期化してしまい,厳しい状況となってしまいます。そこでなんとしてでも戦争に勝つために作られた法律が,国家総動員法というものです。これは国民や国の物資を全て戦争に回すことができるようになったり,政府は議会の承認を受けずに自由に法律を作ることができるようになったりしてしまいました。これにより議会は力を持たなくなってしまったのですが,更に1940年には政府により政党が解散させられ,代わりに議員は大政翼賛会というグループにまとめられ,これにより軍部の権力支配がほとんど完璧なものとなってしまいました。
しかし戦争に思うように勝つことができない日本は,更にたくさんの制度によって勝利を掴もうとします。その1つが学徒出陣という,それまでは戦争に参加する必要のなかった文化系の大学生も軍隊に召集する制度です。また植民地となった韓国に対しても,皇民化政策のもとに日本語の使用・日本式の名前に変える創氏改名などが行われ,植民地の人たちを日本人扱いし,「あなたたちも日本人だからいいよね」という名目で戦争に巻き込んでいきました。けれども結局日本は戦争に勝つことができず,東京大空襲・沖縄戦・原爆の投下などにより疲弊した日本はポツダム宣言という降伏要求を受け入れ,戦争は終わりを迎えるのでした。
戦後
さて前述したようにポツダム宣言の受諾をもって日本は戦争に敗れ,アメリカの統治下に置かれるわけですが,戦争を引き起こした要因を取り除くためにたくさんの改革が行われます。まず政治の面について見ていきましょう。戦争が終わると,日本をそれまで支配していた軍隊が解散され,東京裁判により戦争責任のある軍人や政治家などが裁かれました。また治安維持法も廃止され,選挙法も満20歳以上の男女に選挙権が与えられるように改正される,政党が復活したり新しい党が作られたりしました。続いて経済については,戦時下の経済が財閥と呼ばれる大きな企業グループによって支えられていたことから,財閥解体が行われ,自由で開かれた経済へと変わっていきました。他にも農業の分野では農地改革が行われた結果,土地を地主から借りて働くのではなく自分で土地を持つ農家が増えていき,土地を持つ地主と土地を持たない農家に存在していた格差を縮めていきました。この他だと,労働組合法・労働基準法によってこれまでは意識されていなかった労働者の権利が保障されるようになったり,父親・長男が家庭内で強い力を抱いていた「家」の制度を解体するように民法が改正されたり,教育基本法によって義務教育が6年から9年に延長されたりなど,細かな部分ではありますが,多くの変革が施されました。
そして変化の集大成として覚えておきたいことが,日本国憲法の制定です。この憲法は大日本帝国憲法の代わりに新しく作られたもので,人々にその内容が知らされることを指す公布が1946年11月3日に,その内容をいざ実行することを指す施行が1947年5月3日になされました。この日本国憲法は大きく3本の柱に沿って作られています。その1つ目が国民主権です。それまでは国を動かす主体が天皇でしたが,日本国憲法のもとでは国は国民が動かすものであり,天皇は国を象徴する存在となりました。2つ目が基本的人権の尊重です。基本的人権とは,人間が生まれながらにして持っており欠くことのできない権利を指します。この基本的人権は大日本帝国憲法下では法律で制限がかけられるものとされていたのですが,日本国憲法では永久に侵害できないものであり,かつ周りの人間の迷惑にならない限り尊重されるものとされました。そして3つ目が平和主義です。これは先の大戦を繰り返すことのないように取り入れられた内容です。具体的には戦争という手段を外交から放棄したり,軍備や交戦権を認めなかったり,といった形で平和な国づくりを目指すという精神が憲法には記されています。
以上が戦後間もなく行われた改革の流れですが,世界の状況が冷戦へと移行したり,日本の経済が特需景気を通して徐々に発達したりする中で,制度や法律に関してもたくさんの変化が起こります。変化のうち代表的なものの1つが警察予備隊の創設です。アメリカが支持する大韓民国とソ連が支持する北朝鮮の間で朝鮮戦争が発生すると,日本に駐在していたアメリカ軍が朝鮮半島に派遣されることになり,それにより日本の治安を支えるものがいなくなってしまいます。この穴を埋めるために作られたのが警察予備隊です。これが強化され現在の自衛隊となっているのですが,先に述べた平和主義と対立しているとみなされることもあり,しばしばこの話題が注目の的となっています。
そしてこの頃の仕組みやルールとして覚えておきたいもう1つのものが55年体制という言葉です。治安維持法が撤廃されたり普通選挙法が更に改善されたり,また1950年には公職選挙法によって選挙する側・される側に関する細かな規則が定められたりする中で,政党政治も元の形を取り戻していったのですが,1955年に自由民主党という政党が結成されると,その後38年にわたって自民党が議席の約3分の2を占め,政治の中心を担っていく体制が続きました。
また1950年代という時期に着目すると,この頃は高度経済成長期と呼ばれるほど日本の経済が著しく発展していました。国民の収入も増え技術も革新するのですが,その成長に伴い日本の各地で公害が相次ぐようになります。その被害を繰り返さないために,日本では1967年に公害対策基本法が設けられ,その後1971年には現在の環境省の元となる環境庁が,1993年には環境基本法が作られるなど,経済と環境のバランスをとっていくためのルール作りが行われていきました。
この他にも国際協力の観点から,PKOと省略される平和維持活動への参加のために国連平和維持活動(PKO)協力法が作られ,自衛隊の海外派遣が可能になったり,個人の私的情報を保護することが重視されるようになると個人情報保護法が定められたりなど,現在に至るまでたくさんの制度や法律が作られています。その全てをここで扱い切るのは難しいですし,多くの部分は公民の内容に当てはまるので別途勉強していただきたいのですが,この現代史については私たちの生活とダイレクトに関わっているので,そのことを意識しながら学習していくと覚えやすいでしょう。ぜひ参考にして見てください。
終わりに
今回は日本の制度や法律についてまとめていくシリーズの最後の記事として,戦前から戦後までの期間に焦点を当て,どんなルールや仕組みが設けられてきたのかを解説していくものでした。ここで取り上げたのはざっくりとしたあらましですので,より詳しい知識を習得したい方は以下の参考書籍やおすすめ記事を使って勉強していきましょう。本記事が今後の学習のお役に立てば幸いです。
(ライター:大舘)
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